ひとたび人間が介在すれば、全ての「事実」は絶対のものでは
なくなる、ということを私が徹底的に教えられたのは大学時代です。
法律を学んだ人間というのは、条文を沢山暗記していて、
白黒をはっきりつけたがる融通のきかないタイプであるに
違いない、とよく思われがちなのですが、実はそういう
イメージは「法的な考え方」をよく知らない人の先入観である、
と私は思っています。
実際の法学部の授業では「法と道徳の違い」や、立場が違えば
主張が変わること、当事者の主観的要素はどのように判断
すべきか、という議論、ある「事実」の「蓋然性(確からしさ)」
という問題、法的判断の社会的妥当性、といったことが
繰り返し取り上げられます。
人の見た「事実」は「その人にとっての真実」に過ぎないこと、
人が下す判断の「正当性」には常に限界があること、それが
その後私が生きてきた日々の基調になってきた考え方です。
極端に言えば、私が大学法学部で学んだことの全ては
その考え方に集約出来ると言うことが出来るかもしれません。
そして、そのように考えてみると、人が人に何かを伝えようと
する時、自分自身がどのようなbiasを持っていて、相手が
どのようなbiasを有しているかまで考えに入れない限り、
「事実」を伝えたつもりでも伝わらない、これは当然の事と
言えるかもしれません。
でも、人間というものは往々にして他人の持つbiasには
敏感でも、自分自身の持つbiasには気がつきにくいのですね。
だから余計に話がややこしくなりがちなのでしょう。
なくなる、ということを私が徹底的に教えられたのは大学時代です。
法律を学んだ人間というのは、条文を沢山暗記していて、
白黒をはっきりつけたがる融通のきかないタイプであるに
違いない、とよく思われがちなのですが、実はそういう
イメージは「法的な考え方」をよく知らない人の先入観である、
と私は思っています。
実際の法学部の授業では「法と道徳の違い」や、立場が違えば
主張が変わること、当事者の主観的要素はどのように判断
すべきか、という議論、ある「事実」の「蓋然性(確からしさ)」
という問題、法的判断の社会的妥当性、といったことが
繰り返し取り上げられます。
人の見た「事実」は「その人にとっての真実」に過ぎないこと、
人が下す判断の「正当性」には常に限界があること、それが
その後私が生きてきた日々の基調になってきた考え方です。
極端に言えば、私が大学法学部で学んだことの全ては
その考え方に集約出来ると言うことが出来るかもしれません。
そして、そのように考えてみると、人が人に何かを伝えようと
する時、自分自身がどのようなbiasを持っていて、相手が
どのようなbiasを有しているかまで考えに入れない限り、
「事実」を伝えたつもりでも伝わらない、これは当然の事と
言えるかもしれません。
でも、人間というものは往々にして他人の持つbiasには
敏感でも、自分自身の持つbiasには気がつきにくいのですね。
だから余計に話がややこしくなりがちなのでしょう。