雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

「くて」の思想。

2005年11月22日 | 「発達障碍」を見つめる眼
「タラは北海道、レバは肉屋!」
唐突になんだ?という感じなんですが、私が好きな言葉の一つ。
実は、若い頃好きでよく読んでいた田辺聖子さんの小説の中に
あったフレーズなんです。

「…だったら良かったのに」
「…したら良かった」
「あの時…していれば
「…でさえあれば

そんな風に、過去を悔やんだり、ないものねだりを
続けていたりするだけでは、幸せにはなれない、
今すぐそこにある幸せに気づくことはできない、
だから、「タラは北海道、レバは肉屋!」と叫んで
そんなネガティブな考え方は捨て去って

「…しなくて良かった!」
「…じゃなくて良かった!」
と考えれば、今の生活にも幸せはいっぱい見つかるよ、と
いう趣旨で書かれていました。

それは独身女性を主人公にした恋愛小説で、もう正確な
タイトルすら思い出せないのですが、なぜか子どもの障碍を知って
しばらく経ったとき、ふとこのフレーズを思い出したのでした。

はっきりと知的障碍はあるけれど、言葉を話し、
穏やかな性格で、特に目立った問題行動のないちびくまの
母である私は、実はどこに行っても居場所がない、と感じることがあります。

知的障碍を併せ持つ自閉っ子の親の集まりに行くと、
「だってしゃべるんだから、いいじゃない」
「どうせ軽度なんでしょ。重度の子どもの親の気持ちなんかわからないわよ」

高機能自閉の親の集まりに行くと
「障級へ行っているような子と一緒にされたくない」
「うちは勉強は人一倍できるんだから」
「重度の人は福祉のサービスがもらえていいわね」

確かに、私には、いつまでたっても「おかあさん」と
呼んでもらえないお母さんの切なさを本当に理解することは
できません。
確かに、私には、学校でわがまま扱いされて、サポートを
受けられない子やその親御さんの辛さを、本当に
わかることはできません。
なぜなら、それは、私の経験していないことだから。
立場の違う人の痛みを「本当に自分のものとして」感じることは
できません。ですが、それを「想像し」「思いやる」ことは
私にもできます。
「本当にはわからない」ことを自覚し、その上でなお
人の痛みに思いを馳せることが大切なのではないか、と思うのです。
それは、私も、種類は違うけれども痛みを知っているからです。

「あなたはいいわね、私はあなたよりずっと大変」
同じ自閉っ子の親同士でそう言い合っている間は、本当の意味で
自閉症の理解を外に求めることはできないのではないかという
気がします。

「うちも大変だと思っていたけど、そういう大変さもあるのね」
そう考えることができたら、奥の深い発達障碍の世界に
もう1歩踏み込むことができるように思うのです。

失くしたものは本当は沢山あったのかもしれない。
でも、失くした物を「たら」「れば」と悔やみながら暮らすより
最初は多少頑張ってでも明るい面を見ようとすることで
「幸せを感じるアンテナ」はぐんぐん育っていくような
気がするのです。

今の私は、
「ちびくまが私のところに生まれてきてくれて、本当によかった」
何の努力もなく、本心からそう言う事ができます。
この間の彼女にも、いつか
「あのとき、早まらなくて良かった~」と
心から笑って言える日がくることを信じたいと思います。