雲のむこうはいつも青空

まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

創作祭

2010年10月16日 | 楽しい学校生活
息子の通う特別支援学校では、毎年秋に「創作祭」が
開かれています。一昨年前には、まだ息子がこの学校に
通う可能性はなかったので、見に行きませんでした。
昨年は新型インフルの影響で部外者には非公開になって
しまったので、息子にとっても私にとっても
この「創作祭」がどんなものなのかは未知数でした。

ただ、2学期が始まってから、時間割の中に「創作祭の
練習」という言葉がどんどん増えていっているので、
中学校時代の体育大会や文化祭よろしく、学校全体で
かなり力を入れて準備しているのだなあ、と思ってはいました。

我が家のベランダからは中学校のグラウンドが見えるので、
子どもたちの練習の厳しさはよくわかりましたし、何より
中学時代の担任K先生の書いてくれる連絡帳は
「よくあの忙しい中でこんなに書く時間があるなあ」と
感心するほど、微にいり細にいり、まるで手に取るように
息子の様子が書いてあったので、

練習の仕上がり具合や息子の疲れ具合もなんとなく見当がつき、
それなりのフォローも出来たのですが、

特支に入ってからは連絡帳の内容も簡素化され、あとは
本人の言葉と顔色や行動から伺い知ることしかできません。
でも、予定変更や練習時間が多い割には、息子は
疲れた様子も見せず、相変わらず小学部のRくんと会えるのを
一番の楽しみに、るんるんと学校に登校していました。

そして、今日がその本番。
息子の出番は、高1クラス単独で
マイケル・ジャクソンの「スリラー」に
合わせての「ゾンビ・ダンス」と
高等部社会コース1年~3年生合同の組体操、
それに高等部全体での手話つき合唱。

まず、ぼろぼろの服を着てのゾンビ・ダンス。
息子は一番先に、ニコニコ顔で舞台に登場。
体を動かすのが苦手で、ダンスとかは嫌いなはずの
息子ですが、結構ノリノリで楽しそう。

続いて、組体操。レベルとしては去年の中3のときより
だいぶ低いですが、知的障害のある子ばかりなのに
合図に合わせてきびきびときれいに動けています。
特に、中学では明らかに「そこにいる」だけに終わっていた
息子が、ピラミッドの中段など、力もバランスも必要な
ポジションをきちんとこなしていることにびっくりしました。

高等部に上がってから、毎日体育で鍛えられた分、
体のコントロールの力も筋力もついたのでしょうか。

最後の手話つき合唱は「世界がひとつになるまで」。
動作模倣がうまくなく、息子には難しいだろうと
思っていた手話を、彼がクラスメートに遜色なく
こなしているのにもまたびっくり。

中学に比べて、学校での毎日の様子が見えにくい分、
成長がよくわかっていなかったのですが、
息子は飄々とした外見と穏やかな性格はそのままに
確実に成長し、学校で学びを得ている、と
安心できた一日でした。



酷暑の夏

2010年09月10日 | ちいさな幸せ
今年の夏はとびきり暑かった
…なんて今更私が言うまでもないことですが…。

もともと暑いのは得意でなかったのが、CIDPを
発症して以来、夏の暑さが従来の倍もこたえるように
なってしまった私。

それが、今年の暑さとなると、もう、朝からほとんど
身動きが取れない、という状態になってしまいました。
朝起きて、なんとか朝食は食べるのですが、そこで力尽き、
正午過ぎに息子に起こされるまでこんこんと眠って、
昼ごはんを作る。

昼ごはんのあとはまた倒れこんで夕方6時すぎにようやく
起き上がって、アイスパックを首筋にぐるぐる巻きにして
なんとか夕食を作り、
お風呂に入ったあとはまた倒れこんで眠る…

最近CMでやっている、
「朝はつら~い、昼は眠い、夜は重いの、私だけ~?」状態。

いやはや、生産性の低いことったら。
この悲惨な毎日の過ごし方を
かかりつけの精神科のドクターに相談しても

「あなたの体はストレスに極端に弱い状態だからね。
 暑いっていうのも立派なストレスだから。
 何にもできないのはしかたがないよ」
と笑顔であっさり言われるだけ。

まあ、確かに、体は動かないのに眠れないというときに
安定剤を飲んだらすっと寝付けた、ということは
この夏何度もあったので、これもうつの症状の一種なのかも。

でも、母親がこの体たらくで、息子は大丈夫なのかと言えば…

学校からももらってきた夏休みの宿題プリントを国・数
毎日一枚ずつ確実に仕上げ、
ヘルパーさんと市民プールで元気に遊び、
家では私の横へそーっと寄ってきて添い寝してみたかと思うと
絵本を読んだり、CDやネット動画に合わせて「一人カラオケ」で
盛り上がったり、テレビを見たり、
朝ごはんは自分で勝手にパンを選んで食べ、
昼ごはんや夕食は「おいしいねえ」とニコニコパクパク食べ、
一日数回は
「ぼくね~、おかあさんのことが好きだよ~」
「おかあさんが元気がなくても好きだよ~」
と囁いてくれる…。


まあ、手のかからないこと。
毎年少しずつ「付き合いやすい人」になってきている感じですが
こんなに(暑さと自分の体調の悪さ以外で)つらくない夏休みは
初めてだったかも。

いろんな人に愛され、かわいがられ、助けられ
小学校や中学校で
「こんなことまで」というほど小さなことまで
丁寧にゆっくりゆっくり本人の気持ちを尊重しながら
こつこつと積み上げるように教えてもらったことが

義務教育が終わった今になって、どんどん花開いて、
育ち始めた感じがします。

耳はネイティブ?

2010年07月25日 | Wonder of Autism
息子本人よりも私の方が特別支援学校に馴染めぬまま
迎えた夏休み。

連日の暑さにもめげず、息子は毎日ご機嫌です。
週3回はヘルパーさんにプール行きにつきあってもらう
予定も出来ています。

家では、PCで車・バス関係のサイトを見たり、動画サイトで
日本やアメリカの子ども番組を楽しんだり、
CDやカセットやネット動画に合わせて大声で歌い、
「ひとりカラオケ大会」をしていることも。

少し前までは人前で歌うのが嫌いで、たとえ一緒にいるのが
母親の私だけであっても大きな声では歌わず、
私が入浴中で部屋に1人になっているときや
逆に自分の入浴中に風呂場で歌っていたのですが、
最近は親が同じ部屋にいても大して気にならないようで

大きなバランスボールに乗って飛び跳ねながら
大きな声で歌っています。楽譜は全く読めない子ですが
歌詞とリズムと音程は正確です。
耳の良さと短期記憶・長期記憶の力のたまものです。

でも、何気なく聴いていてびっくりしたことに、
息子は、日本語の歌だけでなく、
フォスターやディズニーの映画音楽や
ABBAのCDなんかでも、きれいにコピーしているのです。

私なら歌詞カードを見せてもらっても口が回らないような
早口の英語を、数度聴いただけで、ステレオ録音のように
合わせて歌っている様子は、とても障碍のある子には
見えなかったりします。(でも、同時に跳んだり踊っている
姿は、誰がどうみても普通ではない(爆))

試してみたら、日本人が最も苦手とするといわれている、
LとRの音も聞き分けて、発音もし分けていることもわかりました。

アメリカにいて、自然に英語が耳に入っていたのは3年ちょっと、
実際に英語で話しかけられる環境にいたのはわずか一年半。
発語すらあやしかったあの時期に、英語の音の基礎がきっちり
できている、というのはなんとも不思議な感じがします。

でも、見たものと音を結びつける力の強さが
「しゃべれないけれど字は読める」ということに繋がった
のだろう、とか、
よく不思議がられる、自然なイントネーションや
絵本などを朗読するときの情感のこもった読み方も、

しゃべることは決して得意ではないけれど、
自閉っ子のコミュニケーションの例としてよく言われる
「しゃべるよりメールなどのほうが得意」ということは
全く当てはまらないことなども

なんとなく謎が解けてきた感じです。

「わからない、理解できない」ことが減った分、
私の「息子と付き合う力」もバージョンアップしてきたんだろうな
と思っています。


かわいいRくん

2010年06月21日 | 楽しい学校生活
最近、息子には、学校への行き帰りのバスの他に、もう1つ
登校の楽しみができました。
それは、小学部のRくんです。

朝は自分の荷物を教室に置き、体操服に着替えてから
玄関で先生方と一緒にスクールバスをお出迎え。
降りてきたRくんと「おはよう」代わりのハイタッチをするのが
何よりの楽しみです。
時間があるときは、Rくんと手をつないで小学部の教室まで
送って行ったりします。

昼休み、給食の後片付けと係りの仕事が終わると
まっすぐ小学部の教室まで飛んで行き、
Rくんと遊んだり、Rくんが先生や他の子と遊んでいるのを
ニコニコ見守ったりしています。
高等部より早帰りの多い小学部、早帰りの日には
ちゃっかり教室に入り込んで(もちろん小学部の先生には
許可をもらっているそうですが)
一緒に「おわりの会」に出ているんだとか。

もちろん、帰りも間に合いさえすれば、スクールバスに
乗り込む前のRくんと「バイバイ」代わりのハイタッチ。

自力登校組の息子より後に出発するスクールバスに
手を振るためだけに、本来バスの乗り継ぎをする
駅前ターミナルより1つ前の停留所で降りて、

スクールバスが曲がる交差点のところで待って
Rくんと手を振り合っているというから
相当な熱の入れようです。

息子が通うのは、小学部から高等部まで合わせても、
生徒数が50人に満たない、という、
特別支援学校としては小規模な学校。
特に、今年から知的枠の受け入れが始まったばかりの
小学部は、自宅訪問学級の子を除けば、
2年生と3年生の男の子が一人ずついるだけです。

一番生徒数の多い高等部も、3年生が5人、2年生が16人。
1年生は息子も入れて5人。
どの学年も知的には軽度域に入る生徒が多く、
おしゃべりはかなり達者な子がたくさんいます。

もともと会話があまり得意でないうえ、にぎやかな
環境はあまり好きでない息子は、昼休みは一人で
廊下や図書室で過ごすことが続いていました。
そこで、息子の担任の一人、O先生が、小学部の
教室へ遊びに行くことを思いついて、息子を
連れていってくれたのでした。

そこで息子は2年生のRくんにフォーリンラブ(危ないぞ)。
「おかあさん、Rくんってね、身長が小さくて可愛いんだよ」
もともと小さい子は苦手だったはずですが、
元気でひとなつっこいRくんがすっかりお気に入りに
なった様子。
RくんはRくんで、いつもニコニコ接するおとなしい息子を
気に入ったようで、息子の姿を見つけると
「Mくんのところに行く!」と駆け寄ってきたり、
「Mくん、一緒に行こ!」と手をつないでくるように
なりました。

おかげで、Rくんと息子はいまや誰もが認める
相思相愛の仲(だから、あぶないって)。
毎日、帰宅後に、「おかあさん、今日もRくんと手をつないで
小学部の教室まで連れて行ったんだよ」と
ニコニコ報告する息子に、学校での楽しみができてよかったと
思う一方で、相手が小学生の男の子というあたりが
ちょっと複雑でもあります。
(もっとも、相手がもし女の子だったらそれはそれで
問題になっちゃうんですが・・・)

バスの楽しみ

2010年05月15日 | ちいさな幸せ
息子は、学校生活に慣れてくると、通学バスにバリエーションを
つけるようになりました。

普通、通学や通勤にバスや電車を使う場合、毎日乗る路線は
決まっていて、乗る時間も大体一定になってくるものだと
思うのですが

息子の場合、逆に、乗る路線や時間を変えて楽しむように
なってきたのです。
最初は、帰り、乗り換えする駅前ターミナルでしばらく
バスを眺めてから帰ってくるようになり、
次には、朝も少し早めに出て、駅前で朝のラッシュで
出入りするバスをひとしきり眺めてから
学校へ向かう路線に乗るようになりました。

それから、今度は、自宅前のバス停を通らない
路線に乗って、一番自宅に近そうなバス停で降りて、
そこから歩いて帰ってきたり、
逆に朝、もよりのバス停ではない少し遠くの
バス停まで歩いていって、そこからいつもとは
違うコースで駅まで行くことを楽しんだり
しています。
(障碍者手帳を持っていても3割引きにしか
ならない通学定期ではなく、半額になるICカードを
使っているからこそできることかも
しれませんが)

おかげで、息子の出発時間と下校時間は毎日
バラバラ。毎朝、TV画面の時計を見て
「あっ、もう出かけなくっちゃ」と出発時間を自己管理し、
「今日はねえ、○時○分発の○系統で帰ってきたんだよ。
明日は何系統に乗ろうかなあ」とニコニコ考えている
様子を見ていると、中学時代に何度も遅刻をさせても
「出発時刻を自分で考える訓練」をさせたり、
「ネットでバスの時刻を調べて移動の計画を立てる」
授業をしてもらったりしたのが生きてきているなあ、と
思います。

「『いつも同じ』が好きで、変化や
変更は嫌い」と思われがちな自閉っ子ですが、
「強いられた変更」や「思わぬ変更」には弱くても
こんな風に、自分の興味や好奇心を満たすことなら
どんどんバリエーションを増やすことが
できるんだなあ、と改めて感心しています。

小さいときはどうしても「好きなこと」や「こだわりの
あること」よりも「できること」を増やしたくなりますが
「好きで、こだわれること」の間口をできるだけ
広げ、その子と繋がれるチャンネルを増やしておくことが

結局は「できる」「やりたい」に繋がるのかもしれません。

とりあえずお知らせ。

2010年05月14日 | 時には泣きたいこともある。
長らく更新が途絶え、ご心配をかけているかもしれません。

実は4月初めにパソコンが故障し、急遽買い換えることになりました。

また、時を同じくして実家の父が体調を崩して入院し、
1ヶ月の入院生活を経て、5月2日に亡くなりました。
入院当初から、もう助ける手立てがないということは
宣告されていましたので、覚悟をする時間は十分にありましたが
やはり身内をなくすというのは、なんとも寂しいものです。

4月いっぱいは仕事と、入学直後の様々な行事との間を縫って
病院で家族と交代で父に付き添う日々を送っておりました。
父を見送った後も、その後の手続き関係に追われ、更新をする
時間がとれずにおりましたが、またおいおいこの間の出来事も
遡って書き綴っていきたいと思っております。

とりあえず、息子は無事特別支援学校高等部に進学し、
毎日楽しそうに学校に通っていることを皆様にご報告させていただきます。
私も特に体調は崩しておりませんので、ご心配いただきませんよう。

楽しいお葬式?

2010年05月05日 | adorably autistic
今日は父の葬儀でした。無宗教の家族葬ということで
祭壇も遺影を山のようなお花で飾ってもらい、
読経もなく、クラシックをBGMに、
親族と40年住み続けた家のご近所の
方々にご焼香いただくだけの
シンプルでこじんまりした送りの儀式でした。

式後は親族だけでマイクロバスにのり、斎場へ。
バスの好きな息子は、嬉しそうです。
会場から斎場へ向かう道は、昔息子と共に
実家に居候して、そこから通園施設に通わせていたときの
スクールバスのルートでした。

そのことにすぐ気づいた息子、
「ねえねえ、おかあさん、この道、10年ぶりだねえ」と
しみじみと言います。
当時はまだニコニコとバスの座席におとなしく座っているだけで
言葉のほうも怪しかった息子でしたが、
あれから十年になることもわかっているんだなあ、と
なんだか私のほうもしみじみしてしまいました。

斎場で、棺が炉に入れられ、ガチャンと重い音がして
扉が閉められるのを見ると、息子は、
「おかあさん、あれ、エレベーター?」と
聞きました。
「うん、死んだ人の乗るエレベーターだよ。
 死んだ人をあの中で燃やすと、体がなくなって軽くなって
 煙になって空に登って神様になるんだよ」
そう説明すると、息子は「ふうん」とうなずきました。

その後は一度会場に戻ってみんなで食事をとり、
その後で母と弟と私の3人だけでお骨を拾いにいく
段取りになっていました。

会食に参加したのは母の姉(伯母)と兄(伯父)夫婦、弟(叔父)夫婦、
母と弟、私と夫と息子。
私たち一家と弟以外は全て60代と70代、という
平均年齢のものすごく高い会食です。

もともと知らない人と一緒に食事をするのが苦手な息子、
お膳も高齢者向きのものを選んであったのでどうするかと思いきや、
出された料理の中から自分で食べられそうなものを選んで
静かに落ち着いて食事をしていました。
やはり十年前、夫の父が亡くなったときには、
通夜や葬儀に出すのがはばかられる状態だったことを
思えば、やはり確実に成長しているのだな、と思いました。

会食も終わり、さてそろそろお開きにしましょうかというころ、
突然息子が言いました。
「お通夜もお葬式も、とっても楽しかったです。
 また来たいです」

すると弟が
「それは何より。だからといって、リクエストにお答えして
 頻繁に開けるもんでもないけどね」
とにんまり笑って答えたので、一同大笑い。

自分の親の葬儀で良かった~

息子にとっては、ほとんど初対面の年寄りばかりに囲まれ、
ただ静かに座っていなければならない席が、
楽しかったわけはありません。
でも、自分が招かれてここに来ていることと、
特別な意味がある会食であることはわかっていて、
精一杯の礼儀として「楽しかった」「また来たい」と
言ったのでしょう。

息子に障碍があることは親族はみなある程度
知っていることとは言え、息子のせめてもの挨拶に
うまく答えてくれた弟の機転をありがたいと思いました。

散会後、息子は「2日間、よく頑張ったご褒美」として
夫に、初めてのバス路線に乗せてもらって
大回りして自宅まで帰ったようです。
こちらは「本当に」楽しかったようでした。

ゴールデンウイーク中、バタバタで、息子に休日らしい
楽しみを与えてやることはできませんでしたが
せっかく慣れ始めた学校を一日も休むことなく、
連休明けからは何事もなかったようにまた登校できることも
ありがたいと思いました。父の、たった一人の孫に対する
せめてもの心配りだったのかな、という気もしています。

「みとり」の時間と最期の挨拶

2010年05月02日 | 時には泣きたいこともある。
入院から4週目に入った25日の日曜日、帰り際に
「じゃあ、お父さん、私もう帰るね。また水曜日に来るから」と
声をかけたのに対し、父が
「ああ、ご苦労さん、気をつけてな」
と答えたのを最期に、父との会話はできなくなりました。

水曜日に私が再び病室を訪ねたときには、もはや
流動食はおろか水分すらも口にできなくなり、
一日中うつらうつらして、意識がはっきりしないまま
うめいたり、うわごとを言うだけになっていました。

そんなに弱っていてさえ、腕に刺さった点滴や体についた
チューブを気にして、半ば無意識のうちに
むしり取ってしまうので、面会が可能な時間帯はずっと
家族がついていて欲しい、と病院側から申し入れがありました。

最初にお医者さんに言われたよりはだいぶ長くもったけれど、
もう父が半分あちらの世界に行ってしまっていることは
目をそらしようのない現実として私たちの前に突きつけられて
いるのでした。

それなのに、母はその日、さくらもちを持ってきていました。
月曜日に、父の意識が少しの間はっきりしたときに
「おかあさん、ちょっとでいいから、あんこ
 食べさせてください。お願いします」と
言ったのだそうです。

「好きなものなら、食べられるかもしれませんね」
父の大好きな小豆餡を、看護師さんが少しスプーンで
口に入れてくれると、父の表情が変わりました。
「おいしい?」と尋ねると、かすかにではありますが
うなずいて、口元をほころばせました。
「本当に好きなんだね、笑ってるよ」と
みんなで言って笑いました。

ゴールデンウイークに入ると、弟も帰省して毎日病院に
つめてくれるようになりました。連休には私も
実家に泊まって、弟や母と交代で父を見守りました。

5月2日、ずっとうなされていた父が、ふと我にかえったように、
「あんた、やさしいなあ」とつぶやきました。
「あんたって誰?」
「おかあさん」
母が「おかあさん、って私のこと?」と訊くと
「うん、おかあさんはやさしいなあ。ありがとう」と
はっきり口にしました。

「おお、すごい。おとうさん、大サービスやんか」
母と弟と私が大笑いすると、父は満足そうに、
「はい。行ってきます」と行ってかすかに手をふりました。
「はい、行ってらっしゃい、って、どこ行くねん」
その日ものり突っ込みで笑いが起きました。

夕方一度自宅にもどった私のところへ
急変の知らせがあったのは、その夜の11時すぎのことでした。
心臓の機能自体が最も重い状態なので、呼吸が止まっても
蘇生措置はしないことになっていましたから、
もう間に合わないことは私にもわかっていました。

深夜のがら空きの高速を飛ばして病院へ向かいながら
ハンドルを握っている間、不思議に涙は出ませんでした。
ドクターの予言に反してもった1か月のこの時間は
父自身ではなく、父を見送らねばならない私たちに
与えられた「みとり」の時間だったのだろうと思います。

母に最期に「ありがとう」の言葉を残した父の
「行ってきます」はきっと私たちへの
旅立ちの挨拶だったのでしょう。

理屈ではいつかは誰にも来る、とわかっているけれど、
自分と自分の家族にだけには来ないような気がどこかでしていた
私にとって初めての、身近な命の旅立ちでした。

バス通学への道

2010年04月18日 | 楽しい学校生活
私がばたばたと家と父の入院先を走り回っている間に、
息子の特別支援学校生活は始まりました。

昨年度まではこの学校にはスクールバスがなく、保護者が
学校まで送迎するか、路線バスなどを使って自力通学するかの
二者択一だったのですが、今年度からスクールバスが
運行されるようになりました。

小学校のときのように、ドアツードアとはいきませんが、
それでも自宅と中学の中間点ぐらいまで来てくれるので、
中学時代3年間、危なげなく自力通学をこなした息子には
全く問題ないはずです。

でも、息子の希望は路線バスを使って自力通学することでした。
それもそのはず、中学時代の担任K先生は、高等部になったら
自力通学できるように、というので、これまで1年間をかけて
息子に路線バスを使っての通学訓練をしてくれていたのです。

もともと路線バスに乗るのが大好きで、小3から一人で乗る
練習をはじめ、小4からは毎週1回、駅前ターミナルから
ひとりでバスに乗って帰ってくる練習を重ねていましたし、
小6の時、私が入院していた期間には、ひとりでバスに乗って
感覚統合訓練に通った経験もありますから、

同級生のYくんと一緒に学校を出て最寄のバス停まで歩き、
そこからバスに乗って駅前ターミナルまで、
さらにそこからバスを乗り換えて特別支援学校最寄のバス停まで
歩いていく、という訓練内容は、最初の回から全く
問題なくこなせることがわかりました。

それでも、週に一度のお楽しみ、ということで、
毎週楽しそうに特別支援学校までの往復を楽しみ、
時には先生の発案で、モスバーガーによってポテトを買って
帰ったり、別の路線を使って、近くの大型ショッピングセンターで
先生と待ち合わせ、一緒にハンバーガーを食べて帰ってくるなど、
アレンジも加えて、路線バスの乗りこなしには自他共に
自信を持っていたのでした。

進学先がうちの市の中学なら、「じゃあ、バスで大丈夫ですね。
最初の2日ほどは念のため、うちの職員が一緒に乗るようにしましょう」と
言ってくれそうなものですが、そこも勝手が違うのが、特別支援学校。
最初の一週間は親が往復付き添って通学し、学校が決めた2日間
観察試験を受けて、その後判定会議で合格と認められるまで
単独登校は禁止。
う゛~、地域の中学より融通のきかない特別支援学校って・・・。

仕方がないので、片道おおよそ1時間の道のりを往復付き合うこと
一週間、無事に自力登校のお許しが出て、晴れて息子の望む
単独登下校と相成りました。
それでなくてもバス大好き少年の息子、毎日バスに乗れるだけでも
登校のモチベーションになりそうです。

父の入院

2010年04月15日 | 時には泣きたいこともある。
そんなに不安に思っていたなら、なぜ自分から学校に
リクエストしてでも事前の準備をしなかったのかというと、

実は私にはもう1つ抱えている問題があったからでした。
4月2日に、実家の父が入院したのです。家にいたときに急に
息苦しさを訴えて救急で受診したらそのまま入院になったとか。

入院した翌々日の日曜日に、息子を連れて慌てて見舞いに行ったら、
父は思ったより元気そうで、自分で歩いてトイレにも行っていました。
「なんだ、緊急入院とかいうからびっくりしたわ。
 思ったより元気そうじゃない。最近ちょっと調子が良いから、って
 無理しすぎたんじゃない?ちょっと自重しなさいっていうことよ」
と私は軽口をたたき、父もてへへと笑いながら、息子に
「もうすぐ高校やな。頑張ってや。おじいちゃんぐらい年寄りになると
 頑張ろうと思っても頑張られへん。今のうちにうーんと
 お勉強して、頑張っとくんやで」
と声をかけてくれたりして、ほっとして帰ってきたのでした。

ところが、その翌々日に、弟が主治医に呼ばれて告げられたのは、
心臓病の末期で、もう手の施しようがない、ということ。
「おそらく、ここ一週間以内の勝負になるでしょう。長ければ
 2,3週間伸びるかもしれませんが、それ以上とは
 ちょっと言えません」

まだベッドの上で起き上がって、母にわがままを言い、さあいつに
なったら家に帰れるかな、と思案している父が、
もう生きて病院を出ることはない、と主治医に断言されても、
まだ私たち家族にはその実感がわきませんでした。

でも、家では3食をペロッと平らげ、まだ足りなくてベッドの上で
スナック菓子を食べては母に叱られていた父の食が
だんだんと進まなくなり、弱気になってきて、
体につながれるモニターやチューブの数が増えていき、

3~4日おきに私が会いに行く度に、目に見えて弱ってくるのが
わかり、なんとも言えない気持ちになりました。

でも、ドクターの言った一週間はなんとか超え、
2週間目も終わろうとする今、
まだまだ子どもだったころの私の知っていた
元気な父に戻ってくれるのではないかという気がして

希望を抱きながら、せっせと病院に通って、
「あんたは昔から気が強いからなあ」などと
憎まれ口をたたかれながら、せめてもの親孝行を
重ねています。