気まぐれ日記帳

思いつくまま・・・

若きいのちの日記(その2)

2016年04月09日 | つぶやき
「愛と死をみつめて」と「若きいのちの日記」を同時に注文したが、「若きいのちの日記」が先に届いた。
「愛と死をみつめて」が、ミコ(みち子)とマコ(実)の100通を超える文通の抜粋に対して、「若きいのちの日記」はミコの日記である。

「若きいのちの日記」から読み始めたが、とても20歳そこそこの女性とは思えない簡潔で理性に満ちた文章で書かれている。
会話のように感情がほとばしる手紙とは異なり、時には文学的ですらあり、「病院の外に、健康な日を3日ください」という有名な詩も含まれている。

日記では力強く聡明なミコであるが、現実は相当に厳しい病院生活であったろう。
睡眠薬を買い込みマコに心中をせがんだこともあったし、ミコの病気の進行にたえられなくなり、マコが自殺をはかるなど、相当に追い詰められていたのは想像に難くない。

孤独と痛みの中で、悩み、怯えを克服する毎日の中で、研ぎ澄まされた精神が日記という形で結実したものだと思う。
書簡については、世に出ることを想定してミコは書いておらず、読むことにのぞき見するような後ろめたさもあるのだが、この日記は世に出るべくして書かれていたような気もする。

今、「愛と死をみつめて」を読んでいて、それが読み終わった段階で、まとめてみたいと思う。
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若きいのちの日記(その1)

2016年04月08日 | つぶやき
母が亡くなって半年が経った。
物心ついた頃からリューマチに苦しみ、40代で関節の変形が始まり、晩年は視力を失い精神的にも不安定になるなど痛ましい限りの母であった。
長年のリューマチ治療に用いた免疫抑制剤により抵抗力が落ちていたため、風邪でも命取りになることから気を配ってはいたが、リューマチの外科検診で異常なしと言われたわずか1週間後に敗血症であっけなく亡くなった。

幼い頃、私は母に二つ口止めされていたことがある。
一つは病気のことで、当時はリューマチは知る由もなかったが痛みを隠していることや、治療に通っていることを父に知らせるなということ。
二つ目は母が結婚する前に付き合っていた人と、私を連れて再会したこと。

一つ目は父が仕事で精一杯でとても言える状況になかったこととだと思っていた。
二つ目は、相手の方が長男で両親と同居しなければならず経済的な問題があったことから、別れたと聞いた。

強がりな母は、私に病状や心情を話すことはそれ以外にはなかったし、晩年を除いては弱音をもらすことはなかった。
幼稚園に入ったばかりの幼い息子に病気のことを気づかれ、いい子(?)になってしまった息子に負い目もあったのだろう

そして私に、我慢しなさい、頑張りなさいということを言い続けていた。
私は母の体は労わってきたし、困らすようなこともしなかった。
というか、できなかった。

母は「口に出したら我慢ができなくなる。」と言ったことがある。
「痛いの?」と尋ねることが憚れて、無言で荷物を持ったり、扉を開けたりしていた。
30代で身体障害者手帳の交付を受けて、40代で身障2級だったはずだが、そのことは私の前では何も言わなかった。

母が亡くなる3年前に要介護4となり、失明寸前で要介護5は確実な状況で、医療的なケアも必要であったため介護施設に入所した。
病状が悪化し1年半後に特別養護老人ホームへ移るよう求められ、申し込みを行ったところ、審査会での順位が一番となり1か月後に入所できる運びとなった。
この特別養護老人ホームは、総合病院が運営している施設で、母が大学病院で治療を始めた頃の主治医が、大学病院を退職後、その病院の外科医に就任しており、母の担当医となった。
看護師から聞いたところ、医師は母のことを覚えていたそうだ。

その医師から認知症の進行により母が病状が理解できないため、息子と話がしたいと呼び出された。
この老齢の医師が言うには、
頸椎、背骨の軟骨が完全に破壊されてゆがんだ状態で強直化し神経を圧迫しているため、本来は感じることのない痛みや痺れを感じている。
手術による治療もあるが、頸椎の整形とい大手術となり体力的に無理であること、今すぐという訳ではないが5年後には下半身不随になる可能性が高い。

前の担当医からも聞かされている話だし、風邪をひいても肺炎や敗血症で死に至る場合があって手術なんてとんでもないことは分かっているので、今さら何をという思いで聞いていた。
その後に医師が母の方を向いて、「〇〇さん、高校生の時にリューマチが発症、現在の病気の状況は息子さんに伝えましたからね。」と大きな声でいった。

これにはビックリした。
私は母からリューマチの発症は私を生んでからと聞いていたし、疑ったことすらなかった。
父も同様だ。
私が「発症は高校生ですか・・・」とつぶやいたことには答えず、笑顔で「今日の診察は以上!」と打ち切られてしまった。

母が好きな人と別れたのはこれが理由だった?
裕福な家庭ではなかったため大学には進んでいないものの進学校出身、観光ポスターのモデルやコンサートで前に座ったら演奏会終了後に演奏者が家に追っかけてきて大変だったという逸話まで持つ美貌の母が、何故真面目だけが取り柄の中卒の父と見合い結婚したのか理解できなかったが、この病状を予期してのことだった?
父が「俺もお前の介護が大変になってきたし、子供に迷惑をかける前に介護施設に二人で入所しようと何度も〇〇に言ってるんだが、「私を見捨てないようにあの子を産み育てた。」と言い張ってなぁ。」と愚痴っていたが、最後を看取らせるために母は体に鞭打って私を生み育てた?

母という人間が分からなくなってしまい、その後の介護は辛いものだった。
母からは口止めされていたはずだし、隠していたのを知っていながら、医者がなぜ告げたのかも理解できなかった。(注)
真意を母に尋ねたかったが、認知症が進行しており、私の話を理解して答えをもらえるような状況にはなかった。

母はこの日から2年を待たずして、半年前に恐れていた敗血症によりあっけなく亡くなった。
半年が経ち、母の古いアルバムの整理を始めた。
母は自分のお気に入りの写真は引き伸ばしてある。
それ以外の写真や卒業アルバムは処分しようと箱に取り分け、最後に眺めてみた。
高校の卒業アルバムには、どこにでもいる一人の人間としての母が写っていた。

CDの整理をしていたら歌謡曲名鑑というCDの中に「愛と死を見つめて」という映画の主題歌が入ってるのを見つけた。
母がこの「愛と死を見つめて」のドラマ版を一人で食い入るように見ていたのを思い出しだ。
「愛と死を見つめて」は、高校生の時に軟骨肉腫を顔面に発症し、21歳という若さで亡くなった女子大生みち子の闘病生活とそれを支えた恋人との実話である。
これを見ている時の母の真剣な表情は幼かった私には怖いぐらいのものだった。
病状こそ違え、同じ時期に発病し、葛藤していたであろう母が、このドラマに自分の何かを重ね合わせていたではないかと思う。

調べてみると、みち子の日記が「若きいのちの日記」、みち子と恋人との書簡が「愛と死をみつめて」というタイトルで出版されていた。
母を一人の人間としてとらえれば、私が母にいだいているもやもやした気持ちが晴れるかもしれないという思いで、この2冊を読んでみることとした。

(注)
若かりし母に口止めされていた医師が、70歳を過ぎて余命が長くはなく、認知症により正常な判断を失っている母を見て、私にすべてを話そうという気になったのだと思う。
あの老医師の笑顔は、「私はあなたの母に口止めされて、ずっと背負い込んでいたんだよ。」という開放と私との共有によるものと思っている。
「隠して頑張っていた母を最後まで看取れ。」という思いで私に告げたのだろうが、都合の悪い真実を隠すことの罪の重さを老医師は考えてはいなかっただろう。
私が結婚する時に、「私には過ぎた子供だと思っている。」という母の言葉がなかったら、どうなっていたことやら。
施設に預けっぱなしで放置してしまったのではないだろうか。
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