気まぐれ日記帳

思いつくまま・・・

法事

2015年10月25日 | つぶやき
母が亡くなって2週間近くが経ちました。
祖父母の弔い上げが終わり仏壇を流行(?)のコンパクトな家具調のものに変える際に古い仏具を処分してしまったので、まずは仏具を買いそろえました。
役所関係の手続きはにまかせて、遺品は私が片付けることとし、散らかっていた仏壇のある和室も片付いてきました。

ロス症候群みたいなものがあるのかと思っていましたが、それはありませんでした。
比べてはいけないことかもしれませんが、柴犬が亡くなった時は、しばらく周囲にいてくれるような感覚がありました。
覚悟の度合いが違ったのかもしれません。
認知症で介護施設にいる父も、遺体に面したときは子供みたいに取り乱して大変でしたが、それも夕飯を食べるまで。
昨日、別件で面会に行った際は、世間話をした後で、「○○は元気か?」でした。
本人にとっては幸せなことなかもしれませんが、認知症と分かっていてもショックです。
その話題に及んだので、12時近いこともあり、適当にやり過ごして施設をあとにしました。
少し弱ったかな・・・

困っているのは法事です。
分からないことだらけで、ネットや本で調べているのですが、宗派によって微妙に違います。
真宗高田派で高校生の時に祖母がなくなり仏壇が家に来たので、法事はまるっきりという訳ではありませんが、いざとなるとカラッキシです。

弔い上げが終わっていて先祖をまとめた繰出位牌があります。
高田派は位牌が必要で四十九日の法事までに準備し、四十九日に魂入するとのこと。
本位牌なるものが必要かと思って、仏具屋さんで聞いてみると、高田派は繰出位牌が基本で本位牌は使わないとのことでした。
余っているのが入っていると思うので、それを住職さんに渡して書いてもらい、入れるとのことでした。
もしなくなっていたら買いに来てくださいと丁寧に説明してもらいました。

骨壺は二つあって、四十九日の法事のあとでお墓に行き小さい方を納骨、ケースに入った方は高田本山に納骨に行くとのことでした。
仏具屋の帰り道のお墓に寄って、骨壺をいれるところを確認したら骨壺がない・・・
5つあるはずなので、土に埋めたんでしょうね。
十分に余裕がありました。

四十九日までは、親類はこないので家で進めるのですが、勤行集の節回しもわからなくて、iphoneでYOU TUBEのお経を流しながら読んでいます。

奥が深すぎます・・・
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雨晴海岸

2015年10月19日 | つぶやき
職場旅行で金沢に行きました。

朝の自由時間を利用して、富山の雨晴海岸に行ってきました。
始発に飛び乗りましたが、日の出には僅かの差で間に合わず、3日前に出現した気嵐も見ることはできませんでしたが、美しい朝焼けを見ることができました。

なんともレトロな雨晴駅



見事な朝焼け



この後、海岸に座りながら、飲むアクエリアスは最高でした。
コメント (2)
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my mummy's dead

2015年10月10日 | つぶやき
要介護5とはいえ、特養では自分で食事を取り、おむつをすることもなく、会話はしっかりしていた母。
認知症が少し進んだ分、うつ的な症状が影を潜めてきて、面会に行って心が痛むことはなくなってきました。
ただ、「お前の声が思い出せなくなってきた。もう生きている意味がなくなった。」と言われた時は、血の気がひいた思いでした。

母が入所する特別養護老人ホームから、食事をとらず会話もしっかりしていないため、往診医の勧めもあり、すぐに検査をしたいとの連絡がありました。
入院という場合もあるので、至急、来て欲しいとの連絡を受けて、仕事を早退して病院に行きました。
目立った症状は確認できなかったそうですが、炎症反応が見られるため、念のため入院させることとなりました。

私が来たことを看護師がつげると、「来たんか、腰が痛い。」と言ってました。
入院手続きをすませて、特養に荷物を取りに行き、ひと段落した後、病室に行きました。
相室なので、小声で話しかけましたが、眠たかったのかプイと寝返りをうたれてしまったので、苦笑いしつつ、病室を後にしました。

容態に変化があれば携帯に連絡をもらうこととし、翌日の午後は女房が、その次は夕方にでも私が面会に行く段取りとしました。
朝食の時間が終わっても連絡がなかったので、落ち着いたんだと思っていましたが、10時過ぎに血液中の酸素濃度が低下したので酸素呼吸器を使うことと、医師から病状の報告をしたいので、何時に来るか教えてほしいとの連絡があり、女房は昼過ぎに私は3時過ぎに病院に行くこととしました。

その時は食事も自分ですませ、看護師とも会話をしていたそうです。
私に連絡があった後で、ご都合がつく限り早めに来てほしいと女房に電話があり、12時過ぎに女房が到着した時は、声掛けに返事はなかったものの、呼吸はしっかりしていたそうです。
看取って欲しい人の到着で安心したのか血圧が一気に降下し、私が駐車場に着いた頃に、女房から息を引き取ったとの連絡がありました。
「えっ!」以外の言葉が出なくて、病室に駆け込んだら、女房が泣いていて医師が死亡確認をするところでした。
こんな展開は想像していなくて、その場に立ち尽くしてしまいました。

死因は敗血症、リューマチ患者である母にとって、インフルエンザとともに一番恐れていた病気でした。
いつかはこの日が来ると覚悟していたつもりでも、今日とは思っておらず、いざその時を迎えると何の心の準備もしていなかったことを思い知らされました。

半ばパニック状態の中で、親類に連絡をし、タウンページで一番大きな広告を載せていた葬儀社に電話しました。
そこからは葬儀社の方の指示で、段取りよく進んではいきましたが、パニくっていて普通の葬儀レベルで家族葬にしてしまい、親族や職場からの香典、供物、花輪は一切不要で喪主丸抱えにしたため、清廉質素なイメージとはかけ離れた家族葬となってしまいました。
義弟は「こんな家族葬初めてみた・・・」と絶句し、叔父は「香典不要でこんなことしていいのか?」と心配され、私は「やっちまった・・・」でした。
施設入所してからは人と会うのを避けていましたが、それまでは派手好きだったので、結果としては母が望む形だったのかもしれません。

通夜の後の夜番でずっと母の顔を見ていると、声を聴かせてほしい、頑張ってくれてありがとうと褒めて欲しい、そんな気持ちになりました。
老人性うつとは分かっていても、延々と愚痴や病気の不安を何度もまくしたてられ、女房のことを召使のように使ったり、施設の方から要望に応えられないので施設の変更も考えてほしいとか、晩年は辛いことばかりで、死んだって涙なんか出てこないぞと思ったこともありました。

夜番で母の顔をずっと眺めていると、リューマチによって痛む体で産み育ててくれたこと、モデルをしていたこともある美人で授業参観に来てくれると嬉しかったこと、受験勉強で気張っている時に11時にいつも果物を剥いて差し入れてくれたこと、のことを気にいってくれて、そこら中に連れまわして自慢していたことなどが思い起こされました。

どれだけ語り掛けても口を開くこともなく、泣いたら気がすみました。

葬儀を終えて、今日、お寺へ葬儀のお布施を持っていったり、病院の清算、特養へ荷物を引き取りにいくなどして、やっと一区切りついたかなという思いです。
特養のスタッフの方は、「お疲れさまでした、頑張りましたね。」って笑顔で接してくれました。

リューマチで苦しんだ母が一番大変だったとは思いますが、小学校の頃から買い物はすべて持ち、中学校では母の一歩前を歩いて扉を先に開け、社会人になってからは手を取って歩いたり、その後は車椅子を押し続け、晩年は愚痴を聞き続けた私の歴史も結構重かったのかな・・・
母が生前「この子は絶対に私を見捨てたりしない。そんな子には育っていない。」と言い続けていたらしく、父が呆れたように私に伝えてくれました。
私は子供に世話をしてもらおうとは思っていないので「なんじゃそれ?」でしたが、今日はその言葉が私へのねぎらいと受けとめています。

親孝行は自分のためにするものなのかもしれません。
コメント (2)
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