気まぐれ日記帳

思いつくまま・・・

my mummy's dead

2015年10月10日 | つぶやき
要介護5とはいえ、特養では自分で食事を取り、おむつをすることもなく、会話はしっかりしていた母。
認知症が少し進んだ分、うつ的な症状が影を潜めてきて、面会に行って心が痛むことはなくなってきました。
ただ、「お前の声が思い出せなくなってきた。もう生きている意味がなくなった。」と言われた時は、血の気がひいた思いでした。

母が入所する特別養護老人ホームから、食事をとらず会話もしっかりしていないため、往診医の勧めもあり、すぐに検査をしたいとの連絡がありました。
入院という場合もあるので、至急、来て欲しいとの連絡を受けて、仕事を早退して病院に行きました。
目立った症状は確認できなかったそうですが、炎症反応が見られるため、念のため入院させることとなりました。

私が来たことを看護師がつげると、「来たんか、腰が痛い。」と言ってました。
入院手続きをすませて、特養に荷物を取りに行き、ひと段落した後、病室に行きました。
相室なので、小声で話しかけましたが、眠たかったのかプイと寝返りをうたれてしまったので、苦笑いしつつ、病室を後にしました。

容態に変化があれば携帯に連絡をもらうこととし、翌日の午後は女房が、その次は夕方にでも私が面会に行く段取りとしました。
朝食の時間が終わっても連絡がなかったので、落ち着いたんだと思っていましたが、10時過ぎに血液中の酸素濃度が低下したので酸素呼吸器を使うことと、医師から病状の報告をしたいので、何時に来るか教えてほしいとの連絡があり、女房は昼過ぎに私は3時過ぎに病院に行くこととしました。

その時は食事も自分ですませ、看護師とも会話をしていたそうです。
私に連絡があった後で、ご都合がつく限り早めに来てほしいと女房に電話があり、12時過ぎに女房が到着した時は、声掛けに返事はなかったものの、呼吸はしっかりしていたそうです。
看取って欲しい人の到着で安心したのか血圧が一気に降下し、私が駐車場に着いた頃に、女房から息を引き取ったとの連絡がありました。
「えっ!」以外の言葉が出なくて、病室に駆け込んだら、女房が泣いていて医師が死亡確認をするところでした。
こんな展開は想像していなくて、その場に立ち尽くしてしまいました。

死因は敗血症、リューマチ患者である母にとって、インフルエンザとともに一番恐れていた病気でした。
いつかはこの日が来ると覚悟していたつもりでも、今日とは思っておらず、いざその時を迎えると何の心の準備もしていなかったことを思い知らされました。

半ばパニック状態の中で、親類に連絡をし、タウンページで一番大きな広告を載せていた葬儀社に電話しました。
そこからは葬儀社の方の指示で、段取りよく進んではいきましたが、パニくっていて普通の葬儀レベルで家族葬にしてしまい、親族や職場からの香典、供物、花輪は一切不要で喪主丸抱えにしたため、清廉質素なイメージとはかけ離れた家族葬となってしまいました。
義弟は「こんな家族葬初めてみた・・・」と絶句し、叔父は「香典不要でこんなことしていいのか?」と心配され、私は「やっちまった・・・」でした。
施設入所してからは人と会うのを避けていましたが、それまでは派手好きだったので、結果としては母が望む形だったのかもしれません。

通夜の後の夜番でずっと母の顔を見ていると、声を聴かせてほしい、頑張ってくれてありがとうと褒めて欲しい、そんな気持ちになりました。
老人性うつとは分かっていても、延々と愚痴や病気の不安を何度もまくしたてられ、女房のことを召使のように使ったり、施設の方から要望に応えられないので施設の変更も考えてほしいとか、晩年は辛いことばかりで、死んだって涙なんか出てこないぞと思ったこともありました。

夜番で母の顔をずっと眺めていると、リューマチによって痛む体で産み育ててくれたこと、モデルをしていたこともある美人で授業参観に来てくれると嬉しかったこと、受験勉強で気張っている時に11時にいつも果物を剥いて差し入れてくれたこと、のことを気にいってくれて、そこら中に連れまわして自慢していたことなどが思い起こされました。

どれだけ語り掛けても口を開くこともなく、泣いたら気がすみました。

葬儀を終えて、今日、お寺へ葬儀のお布施を持っていったり、病院の清算、特養へ荷物を引き取りにいくなどして、やっと一区切りついたかなという思いです。
特養のスタッフの方は、「お疲れさまでした、頑張りましたね。」って笑顔で接してくれました。

リューマチで苦しんだ母が一番大変だったとは思いますが、小学校の頃から買い物はすべて持ち、中学校では母の一歩前を歩いて扉を先に開け、社会人になってからは手を取って歩いたり、その後は車椅子を押し続け、晩年は愚痴を聞き続けた私の歴史も結構重かったのかな・・・
母が生前「この子は絶対に私を見捨てたりしない。そんな子には育っていない。」と言い続けていたらしく、父が呆れたように私に伝えてくれました。
私は子供に世話をしてもらおうとは思っていないので「なんじゃそれ?」でしたが、今日はその言葉が私へのねぎらいと受けとめています。

親孝行は自分のためにするものなのかもしれません。
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2 コメント

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お悔みを申し上げます (KEM)
2015-10-12 13:48:57
いつか我が家にも起こるだろうこととして読ませていただきました。
大変でしたね。胸中お察しいたします。
お疲れが出ませんよう、お気つけお過ごし下さいね。
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ありがとうございます、 (cherryman)
2015-10-12 18:49:21
4年ほど前から老人性うつ症が出てきて人格が変わってからは、過去の母とは決別したつもりで付き合ってきたのですが、いざとなると子供の頃と同じように甘えている自分がいることを痛感しました。
かなわんなぁと思うたびに書きなぐっていましたが、周囲から見れば心を痛めながら面倒を見ていたって感じだったようです。
支払い、施設の荷物の引き取り、遺品の片づけは日曜日に済ませ、疲れも取れてきたので、今日は気分転換を兼ねて高田本山に行ってきました。
参拝したら、やっと肩の荷がおりた気がいたしました。

感情的に先回りしにくいのですが、病状の進行への対応や最後の勤めなどは、先回りしておいた方がいいですね。
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