ちゃちゃ・ざ・わぁるど

日記と言うよりは”自分の中身”の記録です。
両親の闘病・介護顛末記、やめられないマンガのお話、創作小説などなど。

KAIGO.介護 巻の三十八 VS朝の電話&低栄養タッグ

2010年08月15日 13時39分48秒 | 介護な日々
2008年10月26日(日)

朝、ちい兄のところへ、父の状況についてT先生から電話がはいりました。
内容は・・・

「気胸および肺炎は乗り越えましたが、栄養状態が悪化しています。
(そりゃ・・・誤嚥性肺炎以来絶食中ですから・・・)
通常1200kcalでいい静脈注射(点滴)を2000やっています。
血中の蛋白量を反映するアルブミンの量が、健常者で4.0、
高齢者でも3.0が標準値のところ、2.2しかありません。
2.5以下ですでに低栄養と判断されます。
これは血管内に水分をとどめる働きがあるのですが、
これが低下すると心臓や腎臓に悪影響を与えます。
今、アルブミンを点滴に入れ、ヘモグロビン輸血を行っていますが、
これは一朝一夕で回復するものではないんです。
今すぐどうということはありませんが、
今後栄養コントロールできるかどうかは五分五分といったところです。
点滴は続けますが、低栄養が原因で多臓器不全に陥る可能性もあります。」

・・・結構深刻な内容ではありますが・・・

しかしちい兄の胃を痛くしたのは電話の内容のせいではありませんでした。

だって・・・同じ話をすでに18日に聞かされておりましたから・・・。

そう、お兄と私も入れて三人で、気胸が良くなっていない、
痰が汚くMRSAか誤嚥による肺炎を起こしているようだと
(結局は誤嚥が原因みたいで、MRSAは大人しくしています)
回復の見込みは3~4割だといわれた時に一緒に話しておられた内容と
まったく同じ話でしたから・・・
・・・・つまり・・・・・・・・

「この前聞いた話と同じなのに
なんでわざわざ朝から電話してきたの??
病院から電話が掛かってきたら『もしや!』と考えて
ドキッとするやんか~・・・!!!」


・・・と、それが言いたかった・・・。

実際ちい兄もかなり参ってしまって、この2週間ほどの介護記録は
翌27日にまとめて書いていたようです。
その後、胃潰瘍一歩手前の胃炎をわずらってしまったようで・・・。

T先生、頼むわ、もう~・・・・・


2008年10月28日(火)

この日は私と、長女のS子、近隣の市に下宿中のお兄とこの次男・Hくんで面会。
父の方は変わりなし。小康状態。
母の方もいつもどおりで比較的元気。
みんなで母を自宅に連れ帰り、お茶などしました。
大勢だと母はやっぱり嬉しいみたいです。


2008年10月29日(水)

この日はちい兄が父・母に面会。

父は嚥下訓練とかで、口を開け舌を出すというリハビリを受けたらしく
それがもとで耳の痛みを訴えていました。
肩やわき腹の痛みも訴え、こちらはやはりずっと横になっているせいだと思われます。
一度安静の必要等から寝たきりにさせられると、
本当に寝たきりになってしまうというのは本当ですね。
体に力が入りにくくもなるし、凝ってもくるようです。
喋るのも腹筋力が必要です。
父はこの日はなかなか声も出せず、
筆談するにしても字がうまくかけない様子でした。

一方母は、前日、普段めったに会わない孫たちが来たのが嬉しすぎたのか
ずうっと落ち着かず興奮状態だったみたいで、
ナースステーションに置いてもらっていたそうな。
ちい兄が病室に帰ろうと促しても納得せず
1時間ほど説得してようやく病院にいることを承知したそうです。

確かにね・・・自分の家があるんです、そりゃ帰りたいですよね。
できればずっと自分の家に住み続けたいですよね。
ヘルパーさんにお世話になりながらでも、自宅で暮らせれば一番いいのですが・・・・

・・・陽気と言っても認知症は認知症。

24時間ずうっと、それも複数の人間で介護しなくては暮らせません。
身の回りのことすべて介助し、加えて話相手もしなければならない。
重い持病があるので、食事も相当手を加えたものを用意しなければならない。
薬の管理もキッチリしなければならない。
私たちが一緒に暮らそうにも、父の場合と違って
誰か一人がついていればナントカなる・・・という状態ではないのです。
昼夜が逆転することもしばしばで、夜中でも何かしようとしますから
本当に24時間目が離せないのです・・・。
複数、それも専門家も交えて数人でついていないといけない状態・・・。
合間に父の病院へも行かなくてはなりません。
1~2泊なら何とかできると思いますが、ずっとは到底無理でしょう・・・。

申し訳ないけれど、母には入院か施設入所していただかないと仕方がないのです・・・。
・・・・・そう、父が倒れたのは介護疲れから・・・。


2008年10月31日(金)

またまたT先生からちい兄に電話・・・・
~~~~今度はナニよ~~~~~~・・・

「下血です」

つまり、血便が出たということです。消化管からの出血があるということです。

父は1~2年前にも胃潰瘍をやっています。もちろんストレス性でしょうが・・・

鼻から冷水を入れて出血を止めようとしているとのこと。
どうも、この消化管出血が原因で低栄養状態になっている可能性が高いといわれました。

意識ははっきりしており、認知症もまったくありませんから
いろんなことを考え、私たちに伝えたいこともあるはずですが
声が出しにくい上、仰向けでは筆談もうまくできません。
そこで、平仮名の50音表や「はい・いいえ」など簡単な受け答えの単語、
「痛い・かゆい・看護師さんを呼ぶ」なども書いたボードを用意することにしました。

50音表だけであれば病院にも備え付けがありますが、
父にあわせたオリジナル版をちい兄が作ったのです。

少し後の話ですが
このようなボードを使ってのやりとりでも、
やっていると気分がすぐれてくるからなのか、
そのうち声も出てくるから不思議です。
やはりコミュニケーションをとるということは
いろんな意味で有効で、リハビリにもなっているのですね。


さて、母の方は散歩で近くのスーパーへ行き、
店内の、ガラス張りで外がよく見える休憩所で和菓子のオヤツを食べ、
いたくご機嫌でありました。

ココへ来ると母は、前回のカットで紹介しましたように
道路を挟んだ向こうの角の小さな町工場(こうば、と読んでください)が
すごく気になるらしいんですよね・・・。
何故か「あそこ見に行きたい」といい、毎度見学に行きます。
おそらくは昭和40年代頃からありそうなめっき工場のようです。

余談ですが、このあたりは市内でももっとも中小企業、それも町工場が多い地域で、
私も工場の薬品・・・シンナーと鉄くずとゴムの匂い、それから
「ガチャコンガチャコン」「ガコンガコン」という大きな機械音を聞いて育ちました。
他県出身の嫂がここへ来た時
「私はこの匂いと音の中ではとてもよう住めんと思うたがね」
と言ったのを聞いて「へえ、そうなんや・・・」と初めて気付くほどになじんでますから
騒音がどうとかで工場をどんどん郊外に移転したり
不況で工場がつぶれ、すっかり住宅街に置き換わったり、
残った工場も防音装置を施したりされた現在のこの町は
静かになり過ぎて、私は正直なんだか物足りません。

母は出身は和歌山の田舎町ですが、
ここでの暮らしが長いうちにこの町工場が原風景のひとつになったのではと思います。
だから古びた町工場がなんとなく懐かしく見えるのでしょう。
私ですら、ばい煙や油か何かで真っ黒になった木の柱や窓枠、
金属製の何かの部品がてんこ盛りになったケースが山と積まれた薄暗い工場の中、
つんとくるシンナーらしき薬剤の匂いに懐かしさを感じるのですから・・・

・・・・けったいなもんが懐かしいねんなあ・・・なんなんやホンマ?!

しゃーないやん、こういうとこで生まれ育ってんもん!

(けったいな、というのは関西弁で奇妙でおかしい、とか変だ、とか言う意味ですよ)
コメント (2)
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