まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.1114 各駅巡り・近鉄名古屋線(1)・・・元は久居市

2019-04-21 16:47:31 | 鉄道
おはようございます。
















今回からは新シリーズ、近鉄名古屋線各駅巡りをお送りしていきます、スタートは近鉄伊勢中川駅から、終点の名古屋までは78.8キロと結構な距離です、果たして今日一日でゴールまで行けるかどうか、早速行ってみることとしましょう。昨年のダイヤ改正で近鉄大阪線の朝のダイヤはガラリと変わり、以前は名張駅で乗換えだったのが大和八木駅から伊勢中川駅までは一本で行けるようになりました、でも名張から名古屋まで行く唯一の急行がなくなってしまったのは残念やな~、あれ一度機会があれば乗ってみたかったんやけどな~。そんなわけで一足飛びで伊勢中川駅までやって来ました、大きな駅の割にはひっそりとした駅前で相棒を立ち上げて早速走り始める。駅周辺は住宅地が並ぶ所で近鉄の三大幹線が始発終点とする大きな駅があるにしては町としてはちょっと淋しい感じ、きれいに整備された駅前を抜けると普通の住宅地へと入りすぐに田園風景が広がる道となる。県道697号線へと入るとすぐに雲津川に架かる橋へと差し掛かる、山側の方には近鉄線の鉄橋が見える、中川駅からでも見えるこの鉄橋はたくさんの特急電車が通り過ぎることでも御馴染みな所、今回は上の写真に普通電車が走り過ぎるところを撮ったが、今回の各駅巡りでは特急電車と普通電車の格差を様々と見せられる旅となりました。










近鉄線の下をくぐり雲出川に沿って進んだ後、県道とは分かれて線路に近い方の道へと入って行く、田園風景の中から緩やかな坂道を上って町中へと入る、ちょっと旧街道の雰囲気が感じられる町並だがまず目指すのは名古屋線最初の駅、地図で確認した曲がり角へと入ると駅があるはずなのに見当たらない、踏切があったので通り過ぎようとするとすぐそこにホームが見えた、引き返してみると建物に隠れるような感じにある桃園駅を見つけることができた。自転車が無造作に置かれた所に簡素な切符売場、2面2線の無人駅、だいたい大きな駅の隣の駅はこういった寂しい感じの普通しか停まらない駅・・・と思いきや、時刻表を見ると急行を示すオレンジ色の数字がズラリと並んでいる。昨年のダイヤ改正でこの区間の普通の本数が減少し、そのあおりを受けることになったこの駅は急行停車駅となったわけである、何か、何かな・・・急行って何でそんな不遇な扱いばかり受けるんだろうねえ。昔は特急を補完する花形の存在だったはずが、現在はまるで普通の不遇を補うような役目ばかり任されるようになってしまっている、まあいろいろな事情があるから仕方ないのだろうが、急行の存在意義をもっと考えてほしいところです。













写真1枚目にあるのは桃園駅へと入る交差点に立っている道標、柵の向こうに立っていたから気づかなかった、ちょっと扱いが残念な感じですねえ。道は参宮街道の別道らしく所々緩やかなカーブを経て久居の町へと差し掛かって行く、まだ次の久居駅とは距離のある所だが町名が本町を名乗っているから、旧街道の時代ではこの辺りが町の中心となっていたのだろう。古い建物が建ち並ぶ時代を感じる商店街を抜けて行くと現代での中心地となっている久居駅へとたどり着く、カクカクとした橋上駅、ホームは2面2線、以前は伊勢中川駅を出て最初の急行停車駅だったが、時刻表は昼間に関してはさっきの桃園駅と同じ1時間3本のオレンジ色の数字の並びとなっている。朝夕のラッシュ時には特急が停車する、確かに休日とは言え上の写真にあるようにホームにはたくさんの人が電車を待っている、区間的に普通と化した急行だけでは賄ききれないかも知れない・・・と思ったら特急停車は結構以前からのことだったらしい。そう言えば久居は元は市を名乗っていたが市町村合併で現在は津市となっている、津市は相当広い・・・実は奈良県にも接している、全然そんな意識はなかった・・・からくっついたと言うよりは喰われてしまったと言う印象がしてならない。さて、そんなわけで約80キロ近く、44駅もある近鉄名古屋線各駅巡りを今回から始めたわけですが今回巡ったのはたった2駅だけ、果たしてこんなスローペースでは何枠使ってしまうことになるのでしょうか、まあ懲りずにお付き合いくださればありがたいことです、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。         まちみち




No.1113 平城京廃寺巡り(1)・・・左京南部編

2019-04-18 10:29:24 | 
おはようございます。





もう10回ほど前に久しぶりに平城京巡りを再開してその時は平城京右京を・・・あ、今回はもうあの人は出しません、何か今度は2回目の監督作品が上映されるとのことで、また見に行こうと思っています、ありゃりゃ、最初から話が逸れてる・・・と言うことで、今度こそはシリーズを順調に展開していこうと思っております。

平城京に遷都されたのが710年、現在から考えるとそれほど広いエリアではなく北から南まで自転車でも15分程で走り切れてしまう程・・・東西は割と長い・・・ですが、その中にはもうあまりにも有名過ぎる寺院もあれば、名前も知られていない寺院もありました。このシリーズではそんな寺院があった場所が現在ではどうなっているのかを紹介していってみようと思っています、まああくまでも手元にある本と地図を参考にした他力本願なのですが、まあそれは言いっこなしと言うことで。

今回は左京南部、まあ自分(一人称)の家から一番近いエリアになりますが場所的にはこの辺り↓↓↓





平城京のジオラマでは上の写真にある辺りがその部分に当たります、ちょっと見にくいかも知れないが分かるかな~?色付きの丸で囲んでいるのが今回巡った寺院です、あの~、これが○色とはっきり言ってしまうと「いや、それは×色に見える」と言ったように、色の見え方は人それぞれです、だからここでは上から何番目、右から何番目と言う方で進めて行きます。ちなみに上から3番目の丸は自分たちの世代では「肌色」と言ったのですが、最近はこの言い方はしないらしいですね、ニュースにもなっていました、何か差別的なことを連想してしまうからでしょうか、今の子らは虎が気の周りをグルグルと廻ってバターになった話なんか知らないだろうね、で、なんでバターなんだろうね?これ、今の子らに話したらじゃれ合ってるニャンコさんを見てもバターになるとか思ってしまったりして・・・何の話してんねん!!












まず最初に訪れたのは大安寺、めっさ地元です、もう歩いて何分の世界、町の中の狭い範囲にあるポツンとある寺院ですがそれでも世間では名の通った観光地らしく毎日たくさんの人が参拝しています。地図やジオラマを見ると往時は大きな寺院だったことが分かると思いますが、今はその場所は県道が通り古い町並が軒を為している、写真2枚目~5枚目にある風景が往時の大安寺の境内だった場所、それを示す碑が写真5枚目にあります。写真6枚目にあるのが山門でそこに面して通っているのが六条大路、一番上のジオラマの写真では真ん中に通っている道がそれに当たります、山門の向かいにあるのは2つの塔、今はどうなっているかと言うと上の写真にある通り、その塔があった2つの場所には碑が立っていてだけ、3年ほど前にはイベントで塔の模型みたいなものは建てられたのですがそれもすぐに壊されてしまい、今は平原に風に吹きさらしの状態です。寺院の西側を通る東三坊大路から撮った一番下の写真では、森の向こう側にチラリと若草山が見えているのですが、往時は今よりも建物が並んでいたはず、こんなふうに若草山が見えていたのでしょうか?












東三坊大路を南へと進んで行くとジオラマでは2つの小さな寺院が並んでいるのが分かると思います、まずは上から2番目の丸にある「姫寺」、七条大路と八条大路の間路の通りにあった寺院、何と1400年の時を越えてそんなマイナーな寺院の名が駐車場に使われていました。寺院のあった場所は今は住宅地の横に畑が広がる所、その一角には東九条天満宮との碑がある目立たない小さな神社があります、姫寺との関りがあったのかどうかは不明です。更にもう少し進んだ所にあったのが「穂積寺」、ジオラマでは立派な三重塔が建っていた寺院があった場所は今は住宅地、その一角にも神社がありました、もちろん関りについては分かりません。平城京の一番南を通る九条大路に出て西へと折れて東二坊大路との交差点にあったのが「服寺」、ここにも三重塔があったみたいです、さて、そんな塔が建っていた寺院があった場所が現在ではどうなっているかと言えば、それが一番下の2枚の写真にある風景、今は工事中の柵で覆われて何もありません。この3つの寺院についてはwikiでもほとんど説明はなく、穂積寺、服寺はそれぞれ有力氏族の穂積氏、服部氏の氏寺であったと言うことくらいしか分からない、でも姫寺の名前が今でも残っていたのはちょっと時代の流れのロマンを感じましたね。この先もこの廃寺巡りシリーズ、お送りしていく予定ですがそのためにはいろいろと勉強が必要なんだよね~、中途半端なままではお送りできませんからね、とは言ってもほとんどが門前の小僧さん程度のものですが。次回は九条大路を西へと進んで右京にあった寺院を巡ってみたいと思っています、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち



No.1112 京都八幡木津自転車道(京都部分、前編)

2019-04-17 08:36:21 | みち
おはようございます。














正月2日の大津方面へ向けての走りは大津市で京阪電車の写真を撮って、その後は再び国道1号線を進んで京都市内へと戻って来ました。元々行先も決めないでの気ままな走り、さてさて、この後はどこへ行こうか、風の向くまま気の向くまま・・・でたどり着いたのが写真1枚目、JR山陰本線の花園駅、更に進んで行って定番の太秦広隆寺駅も今回はほどほどに、大映通りを経由して三条通へと出て嵐山へとやって来ました。一昨年の秋に来た時はちょうど紅葉真っ盛りで観月橋は大混雑で絶賛交通規制中、その時に比べるとおとなしいものの正月の寒風吹きすさぶ中でもたくさんの人が渡っていました。まあ季節に関係なく観光地の京都なのですが、最近あまりいい話を聞かないですねえ、やって来る人に問題があれば迎える方にも問題ありってな感じ、でもこれってもういたちごっこみたいな論争になってしまうんで、あまり気にしないでもいいんではないですかね、自分(一人称)も行きにくさを感じる時はあるものの、やっぱり京都って奈良とはまた違う独特な雰囲気のある観光地だと思うので、変に外からの苦言など気にすることもないと思います。













嵐山に来たと言うことはやっぱりこの道を走るのが定番だろう、と言うことでその道の起点へとやって来ました、写真1枚目にある京都八幡木津自転車道の起点となる場所、もっと大きな話をすれば、ここからが京阪奈自転車道の始まり、100キロ以上の行程で和歌山まで通じている自転車道のスタートになる場所です。ここを道なりに進んで行くと奈良まで帰ることができるのですが、自転車道となると周りに建物がなく風が吹きさらしになる、そんな所を40キロ以上も走るのはちょっとキツいな・・・。上の写真を見ても分かると思いますが空は青い部分は見えるものの雲が広がっていて風も冷たい、後ろを振り向くと北の山の辺りには雲から白いカーテンがかかっているように見える、あれは雪が降っているんだろう、あの雲がこちらの方に来たら辛いな・・・、冬の太陽は早い時間に西に傾いてくるのでその分日差しが救いのように差し込んでくれる、今はそれを頼りに進んで行くことにしよう。自転車道はほぼ桂川に沿うように通じていてルートに迷うことはないが、途中では畑の真ん中を突っ切る所があってあまり風景的には見所はうかがえない、町の真ん中では自転車を走らせてもらえない所もあるし、京都はどうも自転車に優しくない所かも知れない。













国道9号線で桂川を反対側に渡り南へと進んで行くとこの自転車道では初めて電車が見える所へとたどり着く、阪急電車が桂川を渡るところ、川の向こうには阪急桂駅がある。そんなわけでこの場所にとどまって阪急電車の写真を撮ることにする、電車は上下線に10分間隔で特急、普通と交互に来るので割と短時間でいろいろと見ることができるだろう、ただここは狭い道で自転車で走っている人も多いので、通行の邪魔にはならないようにしなければいけない。やって来る電車はどれも頭の部分が白い年代的には新しい車両ばかり、そろそろお暇しようかと思ったらやっとマルーン一色の三つ窓の電車がやって来た、一番下の写真にある電車、阪急電車と言うとやっぱりこれだよなあ、でも撮れたのはこれ1枚だけだった。まあ阪急電車についてはこの後乗り鉄の旅・・・いま4回目までお送りしているやつです・・・を計画しているのでその時にまた見ることができるだろう、日が暮れるのが早いのでもう行くこととしよう、もうこの時には奈良まで自転車で帰ることに決めている、この先はまだまだ長い走りが待ち受けているのですがその模様についてはあと1回だけ、次回でのお送りとしておきましょう、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。            まちみち






No.1111 登録有形文化財巡り、山陽電鉄沿線編(前編)

2019-04-16 07:57:06 | 文化財
おはようございます。


星稜の林監督がセンバツでの一連の騒動で学校側から指導自粛の処分を受けたとのニュース、う~ん、何か、何かな~って感じですね。習志野は正直言ってやっていたのでしょうね、って言うか確か今回の大会では他にもどこか注意されていたチームもありましたね、多分あからさまじゃなくてもどこでも似たようなことはやっているんではないでしょうか。ただそれがいいか悪いかとなると、自分(一人称)は作戦のひとつと考えると否定はできないと言ったところ、「サイン盗み」と言う言葉が悪い印象を与えてしまっているのでしょう。今週の『いだてん』では野球が害を及ぼすスポーツだと言われるシーンがありました、まあ現代でも「盗む(盗塁)」や「殺す(重殺)」など物騒な言葉を普通に使いますからね。ただ監督の行為はどうだったんでしょうね、多分選手のことを考えての講堂だとは思ったのですが、相手チームに乗り込むと言うのはちょっと筋が違うのでは・・・、この監督、昨年夏のタイブレークで負けた後、選手を励ますために歌ってましたね、まだ若い人なのでいい監督と言うよりはいいアニキでいたかったのでしょうか、でもその意味を履き違えた考えでの行動ではなかったのかと思います。前に星稜には負けの歴史がつきまとう、と言ってしまいましたが今回もそんな歴史に新たな1ページを加えてしまった感じ、まだ優勝未経験の石川県ですが、高校野球史に2人しかいない完全試合を達成しているほどの強豪県なので、夏には新たな気持ちで臨んでほしいところです。さあ、本文とまいりましょうか↓↓↓












昨年は明石を終点として2度走りました、夏には神戸方面から、秋には姫路方面から、その両方の目的が山陽電鉄線各駅巡りでしたが、その途中では文化財巡りも並行して行っていました、その模様を2回に分けて、今回は夏編をお送りしていこうと思います。まずは神戸市内から、日本一短い国道174号線、起点となるのが神戸税関前交差点、終点が神戸港フェリーターミナルだが、その場所にあるのが写真2枚目にある建物、ここは前に紹介したことがあります。ちなみに神戸税関は文化財ではないようです、結構重厚な建物だからそう思ってしまいそうなんですけどねえ、今ある建物は3代目、2代目は例の地震で倒壊してしまったとのことです。この付近は旧居留地でレトロな雰囲気を漂わせた建物が多いのですが、それについては以前にここで紹介しているので今回はスルーします。下2枚の写真にあるのは旧和田岬灯台、和田岬と言うと平清盛所縁の地のはずですがこの灯台があるのは須磨の海岸、真夏の海水浴場はたくさんの人であふれていて自転車で走るにはちょっと気が引ける所、そんな場所で灯台は余生を過ごしているとでも言ったところでしょうか。















垂水区に入ると山陽電鉄線沿線には瀟洒な住宅地が建ち並ぶが・・・この「瀟洒」と言う言葉は奈良県では全く使うことがないですね~・・・夏の太陽の下だと明るさもなお一層と言った感じ、とんがり屋根の洋館、三角屋根の住居は海の近くで陽気な雰囲気を醸し出しています。明石海峡大橋の真下にある舞子公園にも移設されたであろう登録有形文化財の建物がある、ここにあるのも瀟洒と言う言葉が似合いそうな感じ、三角形のとんがり屋根に陽光をはね返すほどの白い壁、モダンさが漂う多角形の建物、古くから多くの外国人が滞在していた海辺の町にある文化財は、歴史よりも様相を誇示しているかのようにその場に佇んでいる。











明石市に入ってまず最初に目につく登録有形文化財が明石天文科学館、写真1枚目、2枚目にある日本の標準時刻を示す時計台はもうあまりにも有名と言ったところです。この場所から子午線が通る山陽電鉄人丸前駅を越え、国道2号線を渡ってほぼ子午線をたどるように進んだ所、海の近くにあるのが中崎公会堂、ここまで瀟洒な、と言う言葉が似合う建物ばかりだったから上の写真にある様式の建物が逆にミスマッチに見えてしまう。この建物が建つのが国道28号線に沿うようにある中崎遊園地、遊園地と言っても乗り物はない、あるのは写真5枚目、6枚目にある「塔オジラ」・・・違う、逆向き読みだからラジオ塔、自分(一人称)の年代でもちょっと馴染みのない施設だが、文字通りラジオの電波を受信する塔のことだろう。wikiによると歴史は案外新しく昭和の初期に第1号が天王寺公園に設置され、その後日本中に設置されていったとのこと、昔は奈良の猿沢池にも立っていたとある。本来の役割は終えているものの各地にはまだ現存するものもある、確か去年堺のソテツ山で見かけたのがそうだったと思う、ちなみに現存する者の中で登録有形文化財なのはここと前橋市にあるものだけ、この先残して行ったら登録される可能性もあるかも。そんなわけで登録有形文化財巡り山陽電鉄沿線編、次回は秋に走った時の記録をお送りしていこうと思います、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち




No.1110 阪急電鉄乗り鉄の旅(4)・・・くれない千里、桃源の~

2019-04-15 08:53:47 | ふうけい
おはようございます。












阪急電鉄乗り鉄の旅は神戸線に乗車して三宮へとやって来ました、駅名は神戸三宮なんやね、いつの間にか長くなっていた。ここで阪神に乗り換えて一駅隣の元町駅へ、目的は有馬記念の当たり馬券を換金すること、監禁期限まであと1週間だったのでここでお別れさせることとしました。さて、元町駅へと戻り梅田までは阪神電車を利用、フリーパスは阪神全線もエリアなのでありがたい、一足飛びで大阪へと帰ることができた。阪神梅田駅からは地下街を歩いて東梅田駅へ、地下鉄谷町線で天神橋筋六丁目駅へと出てここで阪急線に乗り換えるが、あれ、ここってこんなに乗換え不便だったか?実はこの駅は自分(一人称)にとっては思い出の駅なのだが、乗換えに手間取ったうえにすぐの電車に乗り込んだのでここの駅の写真は撮る頃ができなかった、なぜ思い出の駅なのかはもうちょっと後でのお話として・・・。










天六駅を出ると地上へと出て淀川を渡ると、多分地元以外の人なら100人が100人読めないだろう「柴島駅」、この辺りから車窓の外は絶賛高架工事中、やがて淡路駅手前で長時間停車、これだけは30年経っても変わっていないんだなあ~。そして淡路駅、狭いホームに次から次へとやって来る電車、この駅については後でまた寄ることになるのでそこで話すこととしてそのまま千里線に乗車、カーブと上りの続く路線はゆっくりゆっくりと進んで行く、これも30年前と変わってないなあ。本来なら北千里駅まで行くところだがここは関大前駅で下車、30年ぶりに下りる駅、懐かしい風景を探して駅付近を歩いてみることとしましょう。

















前に自分(一人称)は関西大学千里山学舎のとある施設でアルバイトをしていたとここに書いたことがありました、ついこないだは甲子園ボウルでも関大のことについて取り上げました。実は自分(一人称)、30年前は関大の学生をやってました、これ初めてここで話するなあ、でも学び舎は天六学舎の方、二部学生でした。昼は千里山でバイトして夜は学生をしていたのですが4年の春に辞めました、まあいろいろと事情があったからなのですが・・・。関大前駅前を出ると線路沿いを進んで、と思ったらいきなり関大の入口、近道か、新校舎か?でもここは当時を懐かしむように行きたいので線路沿いの道へ、そして踏切の所で右へと曲がる、もうあの頃の記憶はほとんどないが緩やかな上りはもちろん変わっていない。そして正門前へとたどり着く、まあいいだろうと思いそのまま進んで行って、自分(一人称)がバイトしていた施設があった坂道、通称法文坂へと歩いて行く。こうやって昔を懐かしみながら歩いていると、いきなりたくさんの学生たちが出てきて踊り出して、自分が若い俳優さんに変わっていたりして・・・すみません、映画『サニー』のパロディーみたいなことを考えてしまいました。でも自分(一人称)がバイトしていた施設の建物はもうその場所からはなくなっていた、もし残っていたら登録有形文化財になっていたかも・・・とちょっと淋しい気分になってしまった、そりゃ~30年も経ってたらそうもなるわな、関大の風景も全く変わってしまっていた。自分たちが通っていた頃は、エリートの法学、軟派な文学、一般的な商学、経済学、カルトな工学、変人の社学とか言っていた。テスト前には正門前の店でノート・・・誰かが授業で書いたノートを売り込んだもの・・・を買って駆け込みで勉強、しかしこのノート、紙面に赤いラインが入っていてコピーできないようになっていた。それでも無理だと思ったら、とりあえず解答用紙に『逍遥歌』・・・関大のイベントの最後に歌われる曲・・・の歌詞を書いといたら点数がもらえるとか、まあいろいろなことがあったのですが、それももう記憶の底に埋もれてしまった。途中でやめてしまったから後ろめたい気持ちもあるが、関大が甲子園ボウルで優勝した時や、一高=関大一が甲子園で決勝まで進んだ時は嬉しかった。入学した時にもらったカセットテープには応援歌が収録されていた、「千里が生んだ勇者は関大・・・♪」、マグマ大使の替え歌の応援歌、まだ歌われているんでしょうか・・・。ちなみに自分(一人称)が言っていたのは変人の社会学部でした、そんなわけでちょっと乗り鉄旅からは離れてしまいましたが、せっかくの通り道なのでちょっと思い出に浸ってみることとしました、今回もご覧いただきましてどうもありがとうございました。          まちみち