戦国時代、毛利元就の居城であった吉田郡山城。
1571年、元就亡き後、1591年跡を継いだ毛利輝元は広島城を築城、入城します。
関ヶ原合戦後、毛利氏は防長2か国に減封。福島正則が安芸に入部します。1637年島原の乱の後、全国の古城が破却され、郡山城も廃城となり、石垣も破却されたようです。
安芸太田市歴史民俗博物館。毛利関連の資料が豊富です。
博物館の駐車場に車を置いて、城に登ります。本丸から毛利元就墓所を経て、一周する形です。2時間か。
遠望した郡山城祉。
毛利元就の里の幟。
「三矢の訓跡碑」。(御里屋敷伝承地)
清神社。(すがじんじゃ)、戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となった。境内に杉の巨木。
興禅寺跡。
山道を登って行きます。
安芸高田市吉田町の町並み。
本丸まで200m。
御蔵屋敷跡。
石垣が崩されているのがよく分かります。
木の根っこを踏みしめて登って行くと、二の丸跡。
すぐ上が2段になった「本丸跡」。
本丸跡から下を見ると
三の丸跡。
釣井の壇。
見上げると石垣の一部が残っています。
姫の丸跡。
ここから元就のお墓に向かって降りて行きます。
「簫岳鼎虎禅師墓」(しょうがくていこぜんしぼ)。本当は口編があります。
毛利元就墓所。
階段を登って行くと左側に「百万一心」の碑。郡山城の改修に際して元就が人柱の代わりに「百万一心」を彫った石を埋めると工事がうまく行ったという伝説。昭和6年に元就墓所に境内に建立されました。
反対側に元就のお墓。
一段低いところに、一族のお墓。
祀られているのは
立派なお墓でした。苔が印象的でした。
歩いて数分のところに元就の長男、隆元のお墓があります。
お城見学用の駐車場の隣に、「元就火葬場伝承地」があります。
日本百名城に郡山城が選ばれた記念碑。
2時間15分で標高390m、比高190mのお城を一周してきました。
100名城スタンプをゲット。
歴史民俗博物館の前に司馬遼太郎の碑がありました。司馬さんも城址に登ったのですね。
1571年、元就亡き後、1591年跡を継いだ毛利輝元は広島城を築城、入城します。
関ヶ原合戦後、毛利氏は防長2か国に減封。福島正則が安芸に入部します。1637年島原の乱の後、全国の古城が破却され、郡山城も廃城となり、石垣も破却されたようです。
安芸太田市歴史民俗博物館。毛利関連の資料が豊富です。
博物館の駐車場に車を置いて、城に登ります。本丸から毛利元就墓所を経て、一周する形です。2時間か。
遠望した郡山城祉。
毛利元就の里の幟。
「三矢の訓跡碑」。(御里屋敷伝承地)
清神社。(すがじんじゃ)、戦国時代は郡山の鎮守社として毛利氏の祈願所となった。境内に杉の巨木。
興禅寺跡。
山道を登って行きます。
安芸高田市吉田町の町並み。
本丸まで200m。
御蔵屋敷跡。
石垣が崩されているのがよく分かります。
木の根っこを踏みしめて登って行くと、二の丸跡。
すぐ上が2段になった「本丸跡」。
本丸跡から下を見ると
三の丸跡。
釣井の壇。
見上げると石垣の一部が残っています。
姫の丸跡。
ここから元就のお墓に向かって降りて行きます。
「簫岳鼎虎禅師墓」(しょうがくていこぜんしぼ)。本当は口編があります。
毛利元就墓所。
階段を登って行くと左側に「百万一心」の碑。郡山城の改修に際して元就が人柱の代わりに「百万一心」を彫った石を埋めると工事がうまく行ったという伝説。昭和6年に元就墓所に境内に建立されました。
反対側に元就のお墓。
一段低いところに、一族のお墓。
祀られているのは
立派なお墓でした。苔が印象的でした。
歩いて数分のところに元就の長男、隆元のお墓があります。
お城見学用の駐車場の隣に、「元就火葬場伝承地」があります。
日本百名城に郡山城が選ばれた記念碑。
2時間15分で標高390m、比高190mのお城を一周してきました。
100名城スタンプをゲット。
歴史民俗博物館の前に司馬遼太郎の碑がありました。司馬さんも城址に登ったのですね。
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