国民自らが<悪代官大統領>を叩き出した『チュニジア人』が羨ましい。
(晴れのち曇り、時々パリ)より
チュニジアと言う国は、マグレブ諸国(北アフリカ・アラブ・イスラム国家)の中に有っては、一番安定している、と思われていた。
モロッコも、アルジェリアも、リビアも、夫々国内に社会対立と、それを利用して「私憤を晴らそうとする」不良グループが、かってに『北アフリカ・アル・カイーダ』を名乗って、跳ね返った反社会行動を引き起こしては、国家の安定を不確実な物にして来た。
夫々、独自の問題点では有るが、<イスラム社会の不確定要素>と、一つに括って語られる事も多い。
チュニジアは、モロッコ、アルジェリアと並んで「旧フランス統治」地域である。
モロッコは、その『王制』をフランスが維持して(傀儡政権的では有ったが)、植民地にはせず、『フランスの保護国』と言う立場で、間接統治を行った。
従って、国土のインフラなどは、フランスのてこ入れにより近代化したが、土台としての『マグレブ』のルーツは、無傷に近い形で残った。
各町は「日干しレンガ」の城壁に囲まれた旧市街『メディナ』がそのまま残り、その中での生活は数世紀に渡って変化しなかったスタイルが、そのまま続けられている。
アルジェリアと、チュニジアとは、完全に『フランス植民地』になった。
というのも、そこには、中央集権的王朝がなく、従って「国家」と言うべき形態にはなっていなかった。
あくまで、地中海沿岸部の『アルジェ』であり、『オラン』であり、『アンナバ』であり、『チュニス』であるという、いわば都市国家的存在に過ぎなく、歴史的には『海賊の拠点港』の都市であった。
16世紀以後は、オスマントルコの支配地、となっていた。
内陸部は、各地に「土豪」が各部族を代表して割拠し、トルコ大守(スルタン)や、トルコ地区司令官(パシャ)の地位を得ていた。
そのため統一感がなく、部族間の対立も頻繁に起こり、そのまま「保護国」と言う形にはしにくかった。
植民地にした方が、統治しやすく、インフラの整備もやりやすく、搾取もしやすかったのである。
大戦後に、世界中の「植民地」が独立を果たして行く間に、現在の国家とその国境線とが、旧宗主国の都合で、定められて行った。
アルジェリアは、植民地時代に「主立った町々」は、フランス風に作り替えられて行った。
町の名前すら「フランス風」に変えられていく。
広大な国土を有し、大半がサハラである。
南部砂漠地帯は、『トウアレグ』族と呼ばれる「遊牧民」が散在し、独立運動は、彼等『勇猛なる砂漠の民』が中心となって、繰り広げられて行った。
現在のチュニジアの位置は、オスマントルコの弱体化に伴い、独自の君主『ベイ』が台頭し、君主を頂く独立政権的国家の形態を取っていた。
イスラム、及びアフィリかでの、世界最初の「立憲君主国」であった。
19世紀後半列強会議により「フランスの宗主権」が認められて以後、保護国として間接統治を行ったことは、モロッコのケースに似ている。
戦後、フランスは『ベイ』の復活により「王国」としての独立に応じ、首相としてブルギバが選出された。
1956年であった。
翌年、『ベイ』を廃し、首相ブルギバが大統領となって、共和国となる。
近代的憲法を制定し、『社会主義』政策を取るも、その後「自由主義」に転換するが、社会資本の不足や、近代化の立ち暮れから、社会争議が頻発し、20年目にクーデターが起こり、転覆する。
そのブルギバが失脚するのと入れ違いに、大統領に収まったのが、今回の主役である『ベン・アリー』である。
そのベン・アリー大統領も、5選を重ね事実上の独裁体制と言える体制となっていた。
歴史の中には、「若い頃は名君だった」と言われながら、だんだん変質して行き、国民の信頼を失って、末期が哀れな君主が見られる。
唐の玄宗皇帝しかり。
ローマのネロしかり。
近い所では、マルコスしかり。
チャウセスク、しかり。
ひとたび権力の座に就くや、自分の地位の保全が、最重要課題となって行くケースが多い。
方や、近親者や取り巻きを優遇し、権力を私する。
他方、自分の地位を奪う奴が現れるのでは無いかと、他人が信じられなくなって行き、疑心暗鬼に捕われる。
秘密警察を組織し、民衆を監視する。
当然恐怖政治となる。
忠実だった部下が信じられなくなり、次々と遠ざけ、やがて粛正する。
諫言する部下、耳に痛い正論を吐く部下は、直ぐ粛正する。
結果として、イエスマンしか集まらなくなる。
当然、裸の王様にならざるを得ない。
方や、国家と自分個人との区別がつかなくなって行き、財政が放漫になり、国家を財産と錯覚し、国民との乖離が酷くなる。
最後は、民主の決起によって、倒される。
マルコスの逃げた後、宮殿になだれ込んだ民衆が、イメルダの寝室に『フェラガモ』の靴が2000足有ったのを見て驚いた、と言う有名な話が伝わっている。
純真に『共産主義』に人間社会のユートピアを信じて、自国を高めようと思っていた初期の志を失って行った挙げ句に、<処刑>されたチャウセスクを、思い出そう。
チュニジアも、ベン・アリーの長期にわたる独裁は、身内に偏った人員の登用に依る矛盾を生み、身内の蓄財と国家の収入との区別がつきにくくなって行き、社会に大きな不公平感が生まれて行った。
山ほど居る家族、親族、親戚一同は、世界中に散らばって、本国からの送金を下に財を成している。
大統領の任期「75歳の制限」を規定する憲法を改正して6選をめざすかに見えたベン・アリー大統領に対する庶民の反感は、ついに各地で激しいデモや、騒乱を生み、次の大統領選には立候補しない事を表明しても収まらなくなった結果、亡命せざるを得なくなったのだ。
マルタに出て、その後、リビアに行くのか、フランスに行くのか、はたまた「世界中に散らばっている」親戚のどこかに落ち着くのか、未だ決まらないらしい。
フランスは、旧宗主国であった関係からも、亡命を求めれば拒否しない方針である。
正しく、『驕る平氏、久しからず』の典型が、ここにある。
首都「チュニス」の町並みは、西欧的に美しく、人々の生活ぶりは、西欧とさほど変わらない、自由闊達な空気が満ちていた。
チュニジアは現在まで、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしてきた。
観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態であった。
観光立国であり、クラブ・メッドを始めとして、観光複合組織(ホテル、複数のプール、ゴルフ場、乗馬、テニスその他の遊戯施設、エステ、スパ、キャンプ、子供の遊戯施設などを包括した施設で、そこに長期滞在する事で、ヴァカンスを過ごせる)を各地に建設し、年間800万人の観光客で、にぎわっている。
しかし、外からは見えない彼等の内側では、マグマが蓄積し、活断層が生まれていた訳だ。
フランス統治を脱して、今日までにわずか2人の大統領しか現れていない国。
夫々20年と23年もの長きに亘って、権力を私して来た2人のもたらした結果は、一人はクーデターで倒され、もう一人は国民にたたき出された。
社会的に、経済的に、彼等チュニジア人達に取っては、問題が山積みだったのだろう。
そして、散発的な発砲騒ぎや、(主に大統領の親族が経営する商店への)破壊活動が起こった物の、さしたる混乱もなく、国民自ら自分達が声を上げる事に依って、圧政者を「たたき出す」事に成功した。
チュニジアの人々に、慶賀の意を捧げたい。
自らの祖国を振り返ってみれば、65年間もの圧政にただひたすら順応して来た挙げ句に、やっと『政権交代』に成功した。
そして、半年でつまずき、1年4ヶ月をへて、旧にも増しての『圧政者』の独裁に、なす術もないありさまである。
20年の在位の挙げ句の腐敗ならば、まだあり得る事と言っても良いかもしれない。
しかし、わずか1年4ヶ月で、ここまで腐敗して、権益恣意団の走狗と成り果ててしまう「権力者」など、歴史の中に、他の何処に居たであろうか。
権力の維持のみが存在目的と化してしまった。
身内だけを重用し、矛盾を膨らませられるだけ、膨らませた。
官房機密費や、外務省機密費などを、湯水の如くに「自らのかってな欲望」の為に、使いまくっている。
正義を唱える者には、発言させない。
正義を実現出来る者は、圧殺する。
イメルダに比される、我が国のファーストレディーは、フェラガモの代わりに、高級料亭やレストランの食事に、トチ繰るって居るらしい。
我が国の国民は、不平不満は言いつつも、最後の実力行使は、絶対出来ない。
菅直人とその一味を、日本の領土から、たたき出すべきである。
(晴れのち曇り、時々パリ)より
チュニジアと言う国は、マグレブ諸国(北アフリカ・アラブ・イスラム国家)の中に有っては、一番安定している、と思われていた。
モロッコも、アルジェリアも、リビアも、夫々国内に社会対立と、それを利用して「私憤を晴らそうとする」不良グループが、かってに『北アフリカ・アル・カイーダ』を名乗って、跳ね返った反社会行動を引き起こしては、国家の安定を不確実な物にして来た。
夫々、独自の問題点では有るが、<イスラム社会の不確定要素>と、一つに括って語られる事も多い。
チュニジアは、モロッコ、アルジェリアと並んで「旧フランス統治」地域である。
モロッコは、その『王制』をフランスが維持して(傀儡政権的では有ったが)、植民地にはせず、『フランスの保護国』と言う立場で、間接統治を行った。
従って、国土のインフラなどは、フランスのてこ入れにより近代化したが、土台としての『マグレブ』のルーツは、無傷に近い形で残った。
各町は「日干しレンガ」の城壁に囲まれた旧市街『メディナ』がそのまま残り、その中での生活は数世紀に渡って変化しなかったスタイルが、そのまま続けられている。
アルジェリアと、チュニジアとは、完全に『フランス植民地』になった。
というのも、そこには、中央集権的王朝がなく、従って「国家」と言うべき形態にはなっていなかった。
あくまで、地中海沿岸部の『アルジェ』であり、『オラン』であり、『アンナバ』であり、『チュニス』であるという、いわば都市国家的存在に過ぎなく、歴史的には『海賊の拠点港』の都市であった。
16世紀以後は、オスマントルコの支配地、となっていた。
内陸部は、各地に「土豪」が各部族を代表して割拠し、トルコ大守(スルタン)や、トルコ地区司令官(パシャ)の地位を得ていた。
そのため統一感がなく、部族間の対立も頻繁に起こり、そのまま「保護国」と言う形にはしにくかった。
植民地にした方が、統治しやすく、インフラの整備もやりやすく、搾取もしやすかったのである。
大戦後に、世界中の「植民地」が独立を果たして行く間に、現在の国家とその国境線とが、旧宗主国の都合で、定められて行った。
アルジェリアは、植民地時代に「主立った町々」は、フランス風に作り替えられて行った。
町の名前すら「フランス風」に変えられていく。
広大な国土を有し、大半がサハラである。
南部砂漠地帯は、『トウアレグ』族と呼ばれる「遊牧民」が散在し、独立運動は、彼等『勇猛なる砂漠の民』が中心となって、繰り広げられて行った。
現在のチュニジアの位置は、オスマントルコの弱体化に伴い、独自の君主『ベイ』が台頭し、君主を頂く独立政権的国家の形態を取っていた。
イスラム、及びアフィリかでの、世界最初の「立憲君主国」であった。
19世紀後半列強会議により「フランスの宗主権」が認められて以後、保護国として間接統治を行ったことは、モロッコのケースに似ている。
戦後、フランスは『ベイ』の復活により「王国」としての独立に応じ、首相としてブルギバが選出された。
1956年であった。
翌年、『ベイ』を廃し、首相ブルギバが大統領となって、共和国となる。
近代的憲法を制定し、『社会主義』政策を取るも、その後「自由主義」に転換するが、社会資本の不足や、近代化の立ち暮れから、社会争議が頻発し、20年目にクーデターが起こり、転覆する。
そのブルギバが失脚するのと入れ違いに、大統領に収まったのが、今回の主役である『ベン・アリー』である。
そのベン・アリー大統領も、5選を重ね事実上の独裁体制と言える体制となっていた。
歴史の中には、「若い頃は名君だった」と言われながら、だんだん変質して行き、国民の信頼を失って、末期が哀れな君主が見られる。
唐の玄宗皇帝しかり。
ローマのネロしかり。
近い所では、マルコスしかり。
チャウセスク、しかり。
ひとたび権力の座に就くや、自分の地位の保全が、最重要課題となって行くケースが多い。
方や、近親者や取り巻きを優遇し、権力を私する。
他方、自分の地位を奪う奴が現れるのでは無いかと、他人が信じられなくなって行き、疑心暗鬼に捕われる。
秘密警察を組織し、民衆を監視する。
当然恐怖政治となる。
忠実だった部下が信じられなくなり、次々と遠ざけ、やがて粛正する。
諫言する部下、耳に痛い正論を吐く部下は、直ぐ粛正する。
結果として、イエスマンしか集まらなくなる。
当然、裸の王様にならざるを得ない。
方や、国家と自分個人との区別がつかなくなって行き、財政が放漫になり、国家を財産と錯覚し、国民との乖離が酷くなる。
最後は、民主の決起によって、倒される。
マルコスの逃げた後、宮殿になだれ込んだ民衆が、イメルダの寝室に『フェラガモ』の靴が2000足有ったのを見て驚いた、と言う有名な話が伝わっている。
純真に『共産主義』に人間社会のユートピアを信じて、自国を高めようと思っていた初期の志を失って行った挙げ句に、<処刑>されたチャウセスクを、思い出そう。
チュニジアも、ベン・アリーの長期にわたる独裁は、身内に偏った人員の登用に依る矛盾を生み、身内の蓄財と国家の収入との区別がつきにくくなって行き、社会に大きな不公平感が生まれて行った。
山ほど居る家族、親族、親戚一同は、世界中に散らばって、本国からの送金を下に財を成している。
大統領の任期「75歳の制限」を規定する憲法を改正して6選をめざすかに見えたベン・アリー大統領に対する庶民の反感は、ついに各地で激しいデモや、騒乱を生み、次の大統領選には立候補しない事を表明しても収まらなくなった結果、亡命せざるを得なくなったのだ。
マルタに出て、その後、リビアに行くのか、フランスに行くのか、はたまた「世界中に散らばっている」親戚のどこかに落ち着くのか、未だ決まらないらしい。
フランスは、旧宗主国であった関係からも、亡命を求めれば拒否しない方針である。
正しく、『驕る平氏、久しからず』の典型が、ここにある。
首都「チュニス」の町並みは、西欧的に美しく、人々の生活ぶりは、西欧とさほど変わらない、自由闊達な空気が満ちていた。
チュニジアは現在まで、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしてきた。
観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態であった。
観光立国であり、クラブ・メッドを始めとして、観光複合組織(ホテル、複数のプール、ゴルフ場、乗馬、テニスその他の遊戯施設、エステ、スパ、キャンプ、子供の遊戯施設などを包括した施設で、そこに長期滞在する事で、ヴァカンスを過ごせる)を各地に建設し、年間800万人の観光客で、にぎわっている。
しかし、外からは見えない彼等の内側では、マグマが蓄積し、活断層が生まれていた訳だ。
フランス統治を脱して、今日までにわずか2人の大統領しか現れていない国。
夫々20年と23年もの長きに亘って、権力を私して来た2人のもたらした結果は、一人はクーデターで倒され、もう一人は国民にたたき出された。
社会的に、経済的に、彼等チュニジア人達に取っては、問題が山積みだったのだろう。
そして、散発的な発砲騒ぎや、(主に大統領の親族が経営する商店への)破壊活動が起こった物の、さしたる混乱もなく、国民自ら自分達が声を上げる事に依って、圧政者を「たたき出す」事に成功した。
チュニジアの人々に、慶賀の意を捧げたい。
自らの祖国を振り返ってみれば、65年間もの圧政にただひたすら順応して来た挙げ句に、やっと『政権交代』に成功した。
そして、半年でつまずき、1年4ヶ月をへて、旧にも増しての『圧政者』の独裁に、なす術もないありさまである。
20年の在位の挙げ句の腐敗ならば、まだあり得る事と言っても良いかもしれない。
しかし、わずか1年4ヶ月で、ここまで腐敗して、権益恣意団の走狗と成り果ててしまう「権力者」など、歴史の中に、他の何処に居たであろうか。
権力の維持のみが存在目的と化してしまった。
身内だけを重用し、矛盾を膨らませられるだけ、膨らませた。
官房機密費や、外務省機密費などを、湯水の如くに「自らのかってな欲望」の為に、使いまくっている。
正義を唱える者には、発言させない。
正義を実現出来る者は、圧殺する。
イメルダに比される、我が国のファーストレディーは、フェラガモの代わりに、高級料亭やレストランの食事に、トチ繰るって居るらしい。
我が国の国民は、不平不満は言いつつも、最後の実力行使は、絶対出来ない。
菅直人とその一味を、日本の領土から、たたき出すべきである。
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