現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

川上未映子「日曜日はどこへ」愛の夢とか所収

2017-08-12 10:36:17 | 参考文献
 一人暮らしの独身女性が、ある作家が死んだ時に、その作家の本を読むことを通して高校から大学にかけてつきあうことになった雨宮くんのことを思い出します。
 彼とは、その作家が死んだら、そのころ一緒によくいった植物園で再会する約束をしています。
 彼には21歳の時にふられているのですが、その約束が守られると主人公は固く信じています。
 次の日曜日に、主人公はおめかしして植物園へ行きますが、もちろん雨宮くんが来るはずもありません。
 帰りの電車で死んだ作家の本を読んでいた男性と声を交わしますが、その先にはいつもと変わらぬ孤独が待ち受けています。
 設定として日曜日に雨宮くんと会う約束になっているわけではないので、もしかすると主人公は精神を病んでいるのかもしれません。
 もちろんこの主人公は、結婚もし孤独でもないだろうと思われる川上とは別人格なのですが、主人公をどこか冷たく突き放したようなラストが、川上が美人で作家としても成功しているだけにどこか優越感が感じられて気になりました。
 さて、亡くなった作家の本をいつまでも読み続ける読者がいるというのは作家冥利に尽きるわけですが、私にとっても、賢治やケストナーや柏原兵三の作品群は、彼らがとうに亡くなっていても色あせるものではありません。
 そういった作家がいるということは、読者冥利に尽きることでもあるのかもしれません。

愛の夢とか
クリエーター情報なし
講談社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岩瀬成子「ぼくが弟にしたこと」

2017-08-12 10:29:22 | 作品論
 主人公の六年生の少年は、ささいなこと(主人公のカラーボックスから蝶の模様のジグソーパズルを勝手に取り出して作っていた)に激高して、四才も年下の弟を何回もなぐりつけてしまいます。
 それ以来、主人公は自分の中の恐ろしい部分(心の中の黒い穴のように思えています)について考え続けています。
 主人公は、三年前に両親が離婚するまで、父親からささいなことで暴力(殴ったりけられたりするなど)や体罰(クローゼットに閉じ込められたり、不登校の時に無理やり学校へ連れていかれたりするなど)を受けていました。
 はっきり書かれてはいませんが、そうした父親の気性を自分が受け継いでいるのではないかの恐怖もあったでしょうし、昼の介護と夜のコンビニの仕事をかけもちして苦労している母親を労わってすすんで手伝いをしている弟に対する引け目のようなものもあったかもしれません。
 三年ぶりに、離婚後初めて父親と再会し、暴力をふるったことへの謝罪を求めますが、父親の方では暴力をふるったことをほとんど覚えていませんし、悪かったとも思っていません(これは加害者側と被害者側の記憶の違いで、ほとんどの「いじめ」の事件でも同様ですが、もっとも有名な例は強制収容所における収容されていたユダヤ人の記憶と殺したり虐待したりしていた看守や幹部たちとの記憶の著しい違いでしょう)。
 主人公は、改めて父親と決別し、三人で生きていくことを決意します。
 主人公が、弟が好きな蝶々(そのために、つい兄のジグソーパズルの蝶の絵を確認したくなったようです)の木を、二人で見に行くラストシーンが美しく感動的です。
 親による虐待、離婚、再婚家庭(クラスメイトの黒田くんは、新しいおかあさんの勧めに気兼ねして、気のすすまない中学受験(国立の付属が目標なので受かりそうもない)のために塾へ通っています)、シングルマザー家庭の経済的苦境などの今日的なテーマを、少ない紙数の中でまとめあげた作者の筆力には相変わらず感心させられます。
 特に親による虐待(この作品では父親ですが、幼少のときには母親によるケース(ネグレクトも含む)が多いようです)は深刻な問題です。
 私自身は、幸いに両親から体罰を受けた経験も、子どもたちに体罰をしたこともありませんが、現代の格差社会において余裕のない状況で暮らしている家族では、こうした衝動を抑えられない親たちもますます増えていくことでしょう。
 そして、この作品で示唆された負の連鎖(子どものときに虐待を受けた親たちが、自分の子どもたちを虐待してしまう)も断ち切っていかなければなりません。
 そのためには、この作品で描かれたような親との決別(過激な言葉で書けば「精神的な親殺し」)が必要だと思われます。
 さらに、この作品では、こうした厳しい環境の中では、家族で励ましあって生きていくだけでなく、前の学校で主人公を気遣ってくれた友だちの想い出や主人公自身が黒田くんに「いっしょに公立に行こうよ」と呼びかけるシーンを描くことによって、仲間たちとの連帯が大事なことを巧みに描いています。
 確かに、この作品は困難な状況にいる子どもたちにとって、大きな励ましになることでしょう。
 ただし、主人公たちは、同様の状況にいる実際の子どもたちよりは、まだ恵まれているように思えたことも事実です。
 主人公には、より状況が悪くなる前に離婚した賢明な母親(働きすぎで疲れてはいますが)がいますし、母親や主人公のことをいつも気遣ってくれる心優しい弟もいます。
 父親も離婚前と変わってはいませんが、本人の言葉を信じるならば、離婚した時に少しまとまったお金を母親にわたし、定期的ではないものの養育費も時々振り込んでいて、転勤で売ることになった自宅のお金もいくらか渡そうとしています(作者は批判的なタッチで描いていますが、こうした最低限の義務を果たさない父親が大半です)。
 全体を通して、「運命(虐待や離婚や再婚)をただじっと受け入れているのが子どもなのか」と問いかけて、「否!」と主人公たちの行動を通して答えている作者のメッセージは、読者にはしっかりと届いたと思います。
 この本は2015年に出版されましたが、エンターテインメント全盛の、現在の日本の児童文学の出版状況の中で、このような社会的なテーマを取り上げた作品を書いた作者と、世に出した出版社(理論社)に敬意を表したいと思います。

ぼくが弟にしたこと
クリエーター情報なし
理論社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤田のぼる「現代児童文学史ノートその6」日本児童文学2013年11-12月号所収

2017-08-12 09:46:20 | 参考文献
 この回では、筆者の時代区分によると、第二期後半(1990年代)と第三期(200年代以降)を概説しています。
 第二期後半には、前期(1980年代)に生まれた三つの路線(エンターテインメントの路線、小説化、「他者としての子ども」をモチーフの中心におこうとする創作態度)の発展形に加えて、二つの路線が誕生したとしています。
 エンターテインメント路線においては、それまでエンターテインメント作品の中心だった那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズのような従来の児童文学とエンターテインメントとの「中間小説」(一般文学の世界で、純文学と大衆小説(エンターテインメント)の中間の作品を指す用語です)的な作品から、より本格的なエンターテインメント(子ども向けの本格推理小説など)にシフトしたとしています。
 この路線の代表作家として、はやみねかおる(「名探偵夢水清志郎事件ノート」シリーズなど)と松原秀行(「パソコン通信探偵団事件ノート」シリーズなど)をあげています。
 小説化の流れでは、子どもだけでなく広範な読者(私は女性向けという条件を付加したいと考えていますが)を対象とした一般文学とのボーダーレス化を生んだとしています。
 ここの代表的な作家として、江國香織、石井睦美をあげて雑誌「飛ぶ教室」の貢献を指摘し、さらに、講談社児童文学新人賞出身の森絵都、たつみや章、魚住直子、風野潮、梨屋アリエ、草野たき、椰月美知子の名前をあげています。
 「「他者としての子ども」をモチーフの中心におこうとする創作態度」の路線では、富安陽子と高楼方子の名前をあげて、子どもたちへのメッセージをリアリズムの手法で語ることの困難さが増していって、主な作品が従来のリアリズム作品からファンタジー作品へ移行したとしています。
 新しい路線としては、「大きな物語」路線をあげています。
 この路線の代表作家としては、荻原規子(「空色勾玉」など)、上橋菜穂子(「守り人」シリーズなど)、あさのあつこ(「バッテリー」シリーズ)など)をあげて、骨太なストーリーの魅力や大きな世界観が読者を引きつけ、児童文学にとどまらない読者(ここでも女性を中心にしてですが)を獲得することになったとしています。
 もう一つの流れが、年少の読者を対応した絵物語や絵本をあげています。
 ここにおける代表的な作家は、原ゆたか(「かいけつゾロリ」シリーズなど)、いとうひろし(「おさる」シリーズ(その記事を参照してください)など)、きたやまようこ(「いぬうえくんとくまざわくん」シリーズ(その記事を参照してください)など)、あんびるやすこ(「なんでも魔女商会」シリーズなど)、木村裕一/あべ弘士(「あらしのよるに」シリーズなど)をあげています。
 第三期(2000年代以降)については、著者自身がまだ未整理のようですが、以下のようなキーワードをあげています。
 「相互乗り入れ」(角川書店、集英社といった大手出版社の児童書文庫参入とポプラ社の一般書への参入。子どもの本の世界と大人の本の世界とのボーダーレス化など)。
「一つの時代の終焉」(「ズッコケ三人組」シリーズの終了。大阪国際児童文学館の閉館、理論社の倒産など)。
「2006年デビュー組」(菅野雪虫、濱野京子、廣嶋玲子、まはら三桃など)。
「3.11」(「災後」という課題をどう引き受けるのか)
 1990年から2010年代までの二十年以上にわたる日本の児童文学の動向が、短い紙数でうまくまとめられています。
 しかし、今回も多数の作家や作品を網羅的に紹介したために、評論が現象(創作)の後追いになっている感は否めません。
 このような児童文学界の変化がおきた社会的な(子どもを取り巻く環境、児童書出版の状況、さらにはより広範な社会状況など)背景についての、著者の考察がもっと知りたかったと思いました。
 また、2000年以降の第三期に関しては、著者自身も述べているように明らかに従来の「現代児童文学」(定義などについては関連する記事を参照してください)とは異質になっていると思えるので、別のタームを提案した方が良かったと思います。
 「現代児童文学」の特徴の一つである「変革の意思」(社会の変革だけでなくいわゆる「成長物語」による個人の変革も含みます)を明らかに失った(著者があげていた第二期後期の主な作品の大半が、すでに「成長物語」でなく「遍歴物語」(これらの定義については児童文学研究者の石井直人の論文に関する記事を参照してください)です)現在の児童文学(岩瀬成子や村中李衣の作品のような例外はありますが)まで、同じ「現代児童文学」というタームを使うと混乱を招きかねません。

日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
小峰書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

藤田のぼる「「戦後児童文学史」岩波講座日本文学史第14巻二〇世紀の文学3」所収

2017-08-12 09:33:30 | 参考文献
 著者は、「現代児童文学史ノート」という題の論文を1984年と2013年に書いていて、かなりの部分がそれらと重複するので、詳細はそれらの記事を参照してください。
 1984年の論文は、「現在児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)がまだ進行中であった時に、筆者の問題意識を前面に出して書かれており、2013年の論文(というよりはエッセイかもしれません)は「現代児童文学の終焉」(その記事を参照してください)後に、全体を概観して書かれています。
 今回の論文はこれら二つの論文の中間の1990年代に書かれていたので、書き方も両者の中間的なものになっています。
 ただし、タイトルからも分かるように、「現代児童文学史」ではなく「戦後児童文学史」なので、「現代文学史」以前の児童文学というより大人も含めた国民的ベストセラーである1948年の竹山道雄「ビルマの竪琴」と1952年の壺井栄「二十四の瞳」にも簡単に触れています。
 「ビルマの竪琴」に関しては「国家、民族、軍隊といった超社会的ファクターを一瞬のうちに美的世界におきかえてしまう方法は、まさに「童話」的というにふさわしく」、「二十四の瞳」については「鎮魂から新しい時代への出発という当時の日本人が迫られていた心理的清算に大きな役割を果たすことができた」として、「児童文学はあの戦争体験を「物語」に封じ込めるための大きな役割を果たしたといっていいだろう。」と評価しています。
 また、これもまた「現代児童文学史」では無視(あるいは軽視)されることの多い七十年代のベストセラー作家(子どもよりも大人(特に教員志望の若者たちが中心))の灰谷健次郎の諸作品も取り上げて、「高度成長型の社会を現出させてしまった日本人の原罪感を衝く形で「子ども」という原理を機能させているように思える」としています。
 これらの作家の作品が、現代ないし戦後の日本児童文学史においてあまり語られない理由としては、児童文学のプロパーでない傍流の書き手であったからとしています。
 このあたりは、日本児童文学協会を中心とした児童文学界のセクト主義を示していて、他にも、庄野英二(「星の牧場」など)、庄野潤三(「明夫と良二」など)、柏原兵三(「長い道」など)などの優れた児童文学作品も、現代児童文学史上においては、ほとんど黙殺されています。

岩波講座 日本文学史〈第14巻〉20世紀の文学3
クリエーター情報なし
岩波書店
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本清張「火の記憶」

2017-08-12 09:25:21 | 参考文献
 幼少の時、今は亡き母と謎の男と一緒に見た、山のあちこちに燃える火の記憶。
 その記憶をもとに、妻の兄が、主人公の不幸な過去(4歳の時に失踪した父は指名手配の犯人。謎の男は実家に張り込んでいた刑事。亡き母とその刑事はいつの間にか関係を持つようになり、母に同情した刑事が父を見逃した。そのために左遷されて警察を追われた刑事と母は時々会っていた(その時に二人と一緒に見たのが、炭鉱のボタ山で自然発火した火だったのです)など)を推理します。
 強引な推理と恣意的なストーリーが目立つ、清張としては失敗作でしょう。
 しかし、幼少の記憶が話の根幹になっていることに興味を持ちました。
 幼少の記憶をもとに創作するというのは、多くの児童文学作家に共通している点だと思います。
 もっとも有名なのは、神沢利子の「いないいないばあや」(その記事を参照してください)でしょうが、「幼少」を「子ども時代」に拡大すれば、ほとんどの児童文学作家に当てはまると思います。
 児童文学研究者の今は亡き鳥越信先生は、「ケストナーのような子どもの頃の記憶(ずばり「わたしが子どもだったころ」というタイトルの作品もあります)がないので、児童文学作家になることをあきらめた」とおっしゃっていました(本当は、仲間の児童文学作家の山中恒の文才に圧倒されたからのようです)が、かつてはそれも正しかったと思われます。
 しかし、子どもを取り巻く環境がものすごい速度で変化している現代では、自分の子どものころの記憶で創作してそれが出版されるような作品はほとんどないでしょう。
 
新潮現代文学〈35〉松本清張 (1978年)点と線・渡された場面・火の記憶・張込み・一年半待て・証言・天城越え・凶器
クリエーター情報なし
新潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする