児童文学を書く時に、作品の時代設定をどのようにするかは重要な問題です。
書き手にとって一番楽なのは、自分が子どもだった時代を舞台に描くことでしょう。
その作家の年齢が二十代ぐらいまでだったならば、読者である子どもたちとそれほど大きな時代的ギャップはないので、それであまり問題はないでしょう。
しかし、作家の年齢があがり子どもたちとのギャップが大きくなると、描いている世界が現実の子どもたちと乖離してしまう恐れがあります。
1990年代までは、それでも作家の子ども時代を描いた作品が出版されていましたが、現在ではそれは難しくなっています。
自分が子どもだった1960年ごろの子どもたちを描いた高橋秀雄の初期の作品のような例外はありますが、これも後藤竜二という当時の児童文学界に大きな影響力を持つ人物の強力なプッシュがなかったら、こういった作品を2000年代に出版することは難しかったでしょう。
次に、リアルタイムの現在を、作品の時代設定に使うことが考えられます。
しかし、これも作家の年代が上がるにつれて、リアルな子どもたちの世界を描くことは困難になってきます。
自分の子どもがいる作家たちは、彼らやその周辺にいる子どもたちを題材にすることで、一時的に回避できるかもしれません。
また、学校の教師や塾の講師などの仕事を持っている書き手は、生身の子どもたちに接する機会がふんだんにあるので、その点では有利でしょう。
また、現在というのはあいまいな概念なので、作品によっては現在というにはいささか古く思われるような題材が描かれていることもあります。
かつては、あまり最先端な子どもの風俗を作品に描くと、編集者からそういった風俗はすぐに古びてしまうので避けてほしいとの要請を受けました。
当時は児童書はロングセラーを目指すのが一般的なのでそのようなこともありましたが、現在は児童書の消費財化が進んでいるので、このことはあまり気にしなくていいと思います。
むしろ、現在の子どもたちのリアルな風俗を描くことは、作者と読者との間で同時代性を共有することになるので望ましいかもしれません。
書き手にとって一番楽なのは、自分が子どもだった時代を舞台に描くことでしょう。
その作家の年齢が二十代ぐらいまでだったならば、読者である子どもたちとそれほど大きな時代的ギャップはないので、それであまり問題はないでしょう。
しかし、作家の年齢があがり子どもたちとのギャップが大きくなると、描いている世界が現実の子どもたちと乖離してしまう恐れがあります。
1990年代までは、それでも作家の子ども時代を描いた作品が出版されていましたが、現在ではそれは難しくなっています。
自分が子どもだった1960年ごろの子どもたちを描いた高橋秀雄の初期の作品のような例外はありますが、これも後藤竜二という当時の児童文学界に大きな影響力を持つ人物の強力なプッシュがなかったら、こういった作品を2000年代に出版することは難しかったでしょう。
次に、リアルタイムの現在を、作品の時代設定に使うことが考えられます。
しかし、これも作家の年代が上がるにつれて、リアルな子どもたちの世界を描くことは困難になってきます。
自分の子どもがいる作家たちは、彼らやその周辺にいる子どもたちを題材にすることで、一時的に回避できるかもしれません。
また、学校の教師や塾の講師などの仕事を持っている書き手は、生身の子どもたちに接する機会がふんだんにあるので、その点では有利でしょう。
また、現在というのはあいまいな概念なので、作品によっては現在というにはいささか古く思われるような題材が描かれていることもあります。
かつては、あまり最先端な子どもの風俗を作品に描くと、編集者からそういった風俗はすぐに古びてしまうので避けてほしいとの要請を受けました。
当時は児童書はロングセラーを目指すのが一般的なのでそのようなこともありましたが、現在は児童書の消費財化が進んでいるので、このことはあまり気にしなくていいと思います。
むしろ、現在の子どもたちのリアルな風俗を描くことは、作者と読者との間で同時代性を共有することになるので望ましいかもしれません。
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