「魔法と超能力」という副題のついた今回は、魔法の使い手がかつては魔法使いだったのに、次第にその使い手が主人公の子どもたちに変わっていき、魔法自体も超能力と呼ぶ方がふさわしい場合も多くなっていることを豊富な実例を挙げて述べています。
今回もブックリスト的な機能を持っているようなので、取り上げられた作品をリストアップしてみます。
ファンタジー研究会編「魔法のファンタジー」
ネズビット「魔よけ物語」
ルイス「ナルニア物語」シリーズ
スーザン・クーパー
トールキン「指輪物語」
ロイド・アリグザンダー「ブリデイン物語」
ブロイスラー「クラバート」
ダイアナ・ヘンドリー「魔法使いの卵」
バリー「ピーター・パン」
リタ・マーフィー「真夜中の飛行」
ル・グウィン「ギフト 西のはての年代記Ⅰ」
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「魔女と暮らせば」
クリフ・マクニッシュ「レイチェル」のシリーズ
ラルフ・イーザウ「ネシャン・サーガ」シリーズ
ル・グウィン「ゲド戦記」シリーズ
アンヌ・ブリショク「オクサ・ポロック」シリーズ
ジェニファー・リン・バーンズ「オーラが見える転校生」
サリー・ガードナー「マザーランドの月」
ジョー・ウォルトン「図書館の魔法」
風野潮「歌う樹の星」
濱野京子「ことづて屋」
フィリップ・ブルマン「ライラの冒険」シリーズ
子ども自身が魔法や超能力を身につけたのは、「この世界の困難な現実の中で、自分自身の無力感、他者とのコミュニケーションの希薄さに向きあわなければならない子どもたち」をエンパワーメントするからだとしています。
また、「若い人たちのアイデンティティの喪失とその探索、家族や友人関係のトラウマや疎外感はほとんどすべての作品に見られ、また楽しくあるべき舞台は荒涼として死の影を帯びていることも多い。これは私たちの現代世界の酷薄さ、その歴史の無残さをあらわしている。」と述べています。
そして、「自己投入し得る物語の中で、若い人たちが内なるコアハを磨きつつ、困難な時代に対処していけるよう、また願わくば「夢見人」として世界を変革していけるよう、多くのファンタジー作家たちは願いを託しているのだと思う。」と論を締めくくっています。
ここにおける著者の世界に対する認識はわかるような気はするのですが、ほとんど具体的には書かれていませんし、「コアハ」や「夢見人」などの言葉づかいもファンタジーファン以外にはなじみがなくて、著者自身がフラットなコミニュケーションを閉じているようにも読めて残念でした。
また、取り上げられている作品も、今回も外国作品がほとんどで、女の子向きのものが多く、現代の日本の子どもたち(男の子も含めて)の抱えている問題に対して、現在のファンタジー作品が本当にエンパワーメントしているのかどうか、もし不十分ならばどういった課題があるのかをもっと論じてもらいたかったなと思いました。
今回もブックリスト的な機能を持っているようなので、取り上げられた作品をリストアップしてみます。
ファンタジー研究会編「魔法のファンタジー」
ネズビット「魔よけ物語」
ルイス「ナルニア物語」シリーズ
スーザン・クーパー
トールキン「指輪物語」
ロイド・アリグザンダー「ブリデイン物語」
ブロイスラー「クラバート」
ダイアナ・ヘンドリー「魔法使いの卵」
バリー「ピーター・パン」
リタ・マーフィー「真夜中の飛行」
ル・グウィン「ギフト 西のはての年代記Ⅰ」
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ「魔女と暮らせば」
クリフ・マクニッシュ「レイチェル」のシリーズ
ラルフ・イーザウ「ネシャン・サーガ」シリーズ
ル・グウィン「ゲド戦記」シリーズ
アンヌ・ブリショク「オクサ・ポロック」シリーズ
ジェニファー・リン・バーンズ「オーラが見える転校生」
サリー・ガードナー「マザーランドの月」
ジョー・ウォルトン「図書館の魔法」
風野潮「歌う樹の星」
濱野京子「ことづて屋」
フィリップ・ブルマン「ライラの冒険」シリーズ
子ども自身が魔法や超能力を身につけたのは、「この世界の困難な現実の中で、自分自身の無力感、他者とのコミュニケーションの希薄さに向きあわなければならない子どもたち」をエンパワーメントするからだとしています。
また、「若い人たちのアイデンティティの喪失とその探索、家族や友人関係のトラウマや疎外感はほとんどすべての作品に見られ、また楽しくあるべき舞台は荒涼として死の影を帯びていることも多い。これは私たちの現代世界の酷薄さ、その歴史の無残さをあらわしている。」と述べています。
そして、「自己投入し得る物語の中で、若い人たちが内なるコアハを磨きつつ、困難な時代に対処していけるよう、また願わくば「夢見人」として世界を変革していけるよう、多くのファンタジー作家たちは願いを託しているのだと思う。」と論を締めくくっています。
ここにおける著者の世界に対する認識はわかるような気はするのですが、ほとんど具体的には書かれていませんし、「コアハ」や「夢見人」などの言葉づかいもファンタジーファン以外にはなじみがなくて、著者自身がフラットなコミニュケーションを閉じているようにも読めて残念でした。
また、取り上げられている作品も、今回も外国作品がほとんどで、女の子向きのものが多く、現代の日本の子どもたち(男の子も含めて)の抱えている問題に対して、現在のファンタジー作品が本当にエンパワーメントしているのかどうか、もし不十分ならばどういった課題があるのかをもっと論じてもらいたかったなと思いました。
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