このブログで繰り返し述べてきましたが、1950年代にスタートした「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)では散文性の獲得を目指していました。
それは、小川未明たちの近代童話の詩的表現を批判するところからきています。
そうした表現方法では、しっかりとした骨格を備えた長編の物語を描くことはできないことが主な理由でした。
しかし、その後も、幼年文学を中心にして、童話は作られ続けています。
幼年文学の中には、いぬいとみこ「長い長いペンギンの話」や神沢利子「くまの子ウーフ」(その記事を参照してください)のような、「現代児童文学」が目指した優れた散文性を備えた作品もありますが、多くは従来の童話の形式で書かれて、今でも幼年童話という言い方は幼年文学よりも一般的です。
そうしたおびただしい数の幼年童話は玉石混交で、神宮輝夫や安藤美紀夫などが批判したようなステレオタイプな作品もたくさん含まれています(それらの記事を参照してください)。
多くの駄作の中でキラリと光る宝石のような童話を書ける作者には、かつて古田足日が今西祐行の「はまひるがおの小さな海」を評して使った「童話的資質」というものが確かにあって、「子ども(人間)の深層に通ずる何かを持っている」のではないかと思わされます。
古田先生は、童話的資質を持っている書き手として、他に山下明生、安房直子、舟崎靖子をあげていましたが、戦前の宮沢賢治、新見南吉、小川未明、浜田広介なども同様だと思われます。
私自身には童話的資質が決定的に欠けているのですが、四十年以上も児童文学の同人誌に参加しているので、数はすごく少ないですが明らかに童話的資質に恵まれている人たちと出会っています。
こうした書き手は、もちろん優れた散文も書けるのですが、その中に他人にはまねのできない詩的な表現をさりげなく紛れ込ませることができます。
そして、童話的資質が力を発揮するのは、やはり長編よりも短編に多いようです。
「現代児童文学」が生み出した優れた散文性を持った長編は主として子ども読者の「頭脳」に知的な刺激を与えたのに対して、童話的資質の持ち主が書いた短編は子ども読者の「心」に感性的な刺激を与えてくれたと思われます。
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