現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

誰も知らない

2017-09-15 11:28:43 | 映画
 とある2DKのアパートに、スーツケースを抱えた母親のけい子と息子の明が引越ししてきます。
 アパートの大家には「主人が長期出張中の母子2人だ」とあいさつをしますが、実はけい子には明以外の子どもが3人もおり、スーツケースの中には次男の茂、次女のゆきが入っていました。
 長女の京子も人目をはばかり、こっそり家にたどり着きます。
 子ども4人の母子家庭――事実を告白すれば家を追い出されかねないと、嘘を付くのはけい子の考え出した苦肉の策でした。
 けい子は、大家にも周辺住民にも事が明らかにならないように子どもたちに厳しく注意しています。
 子どもたちはそれぞれ父親が違い、出生届すら出されておらず、学校に通ったことさえありません。
 当面はけい子が百貨店でパートタイマーとして働き、母の留守中は明が弟妹の世話をして暮らしていましたが、新たに恋人ができたけい子は留守がちになり、やがて生活費を現金書留で渡すだけでほとんど帰宅しなくなってしまいます。
 そして、兄弟だけの「誰も知らない」生活が始まります。
 けい子が姿を消して数か月がたちました。
 渡された生活費も底をついて、子どもだけの生活に限界が近づき、料金滞納から電気・ガス・水道も止められてしまいます。
 そんな中、4人は遊びに行った公園で不登校の女子高生の紗希と知り合います。
 兄弟の惨めな暮らしぶりを見た紗希は協力を申し出て、援助交際で手に入れた現金を明に手渡そうとしますが、その行動に嫌悪感を抱いた明は現金を受け取りません。
 だが、食料はなくなって、明は知り合いのコンビニ店員から賞味期限切れの弁当をもらい、公園から水を汲んでくるなどして、兄弟たちは一日一日を必死に生きのびることになります。
 ある日、言うことを聞かない妹弟たちとけんかをして、うっぷんの爆発した明は衝動的に家を飛び出してしまいます。
 飛び出した先で、ひょんなことから少年野球チームの助っ人を頼まれ、日常を忘れて野球を楽しみますが、家に戻った明が目にしたのは、倒れているゆきと、それを見つめながら呆然と座り込んでいる京子と茂の姿でした。
 ゆきは椅子から落ち、そのまま目が覚めないといいます。
 病院に連れて行く金も薬を買う金もないので、明は薬を万引きします。
 兄弟は必死で看病しますが、翌日ゆきは息絶えていました。
 明は紗希を訪ね、ゆきに飛行機を見せたいのだと、そして、あのとき渡されるのを断った現金を貸して欲しいと伝えます。
 兄弟たちと紗希は、スーツケースの中にゆきの遺体と大量に買い込んだゆきの好きだったアポロチョコを入れます。
 明と紗希は2人でゆきの遺体が入ったスーツケースを運びながら電車に乗って、羽田空港の近くの空き地に運びだして、敷地内に土を掘って作った穴に旅行ケースを埋めました。
 そして、2人は無言でマンションに戻りました。
 ゆきがいなくなった明と京子と茂と紗希の、「誰も知らない」生活が、これからも続いていきます。
 他の記事で、現在の児童文学が今日的な問題を描かないことへの批判の引き合いにこの映画を出しましたので、久しぶりに見てみました。
 驚いたのは、この作品が作られたのが2003年で元になった事件は1988年ともう四半世紀以上も前だったことです。
 今回、「誰も知らない」を見直して、母親による単なるネグレクトだけではなく、父性や母性の欠如(彼らの生育過程にも問題があったと思われます)、行政の怠慢及び不備(主人公の少年は前に行政によって兄弟がバラバラにされた経験があったので、今回は行政に頼りませんでした)、公教育の欠陥(不就学児童への対応の不徹底など)、周囲の大人たちの無関心、子どもたちの万引き、いじめ、援助交際など、さまざまな今日的問題が描かれているのに気づきました。
 確かに、見ていて息苦しさを覚えるような悲しい作品ですが、時々、子どもらしい遊びをする場面で流れる明るい音楽が、それでも彼らは生きていくことを象徴しているようでせめてもの救いになっていました。
 確かにこういう映画は見ていて楽しくないでしょうが、いつも楽しさや面白さばかりを求めるのではなく、時にはこのような見続けることが困難なシリアスな作品も必要です。
 そして、児童文学の世界でも、売れ線だけをねらうのではなく、こういった作品も世に出す社会的な義務を負っていると思います。
 現在の子どもたちや若者たちを取り巻く環境は、「だれも知らない」が描いた時代よりもさらに悪くなっています。
 他の記事にも書きましたが、かつて子どもたちの今日的な問題をシノプシスにまとめる作業を半年間続けました。
 いつまで続けられるかと危惧していましたが、新聞、テレビ、ネットニュースを見るだけで毎日題材には困りませんでした。
 その時は、それらを作品化するには旧来の現代児童文学の方法論ではだめだということに気がつき、創作することは断念しました。
 それが、現代児童文学の終焉ないしは衰退と社会の変化の関係を研究しようというきっかけになったのです。
 そして、二年間の研究の末に自分がたどりついた結論は、子どもたちや若い世代を取り巻く問題を描くには、児童文学ではもうだめだということです。
 こういった作品の読者はほとんいませんし、出版や流通もそういった本には全く対応していません。
 そのため、一般文学の形で現在の子どもたちや若い世代の困難な状況を描くことが、「ポスト現代児童文学」の現実的な創作理論だと思っています。
 しかし、この「ポスト現代児童文学」は、出版や流通の問題があって、読者(大人が中心になると思われます)の手に届けるのは困難ですし、あまりお金にもならないでしょう。
 こういった「ポスト児童文学」の創作は、児童文学の創作で生活の資を得ている人や、自分の作品が本になるのを夢見ている新人たちにはすすめられません。
 自分自身で創作もして、その出版や流通の方法についても、自力で開拓していかなければならないと思っています。

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