現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

石井桃子「子どもの文学とは?(後半)」子どもと文学所収

2021-10-18 17:43:47 | 参考文献

 著者の分担は、「ファンタジー」と「子どもたちは何を読んでいる?」です。
「ファンタジー」
 日本の児童文学にとって新しい概念であり、誤解をまねくことの多かったファンタジーについて紙数を使って説明しています。
 当時としては、もっともまとまったファンタジー論であり、今読んでも多くの示唆を含んでいます。
 まず、ファンタジーのおいたちとして、近代になって「子ども」という概念が発見されたことを、その起因の一つに挙げています。
 アリエスの「子どもの誕生」が翻訳され、柄谷行人の「児童の発見」が発表されたのは1980年で、その影響を受けて日本の児童文学の子ども像が変化したと主張する児童文学研究者は多いのですが(実際は、ほとんどすべての児童文学の書き手はそれらの著作を読んだことがないことは確信を持って言えるので、それとは無関係だと私は思っています。詳しくは関連する記事を参照してください)、その二十年も前に著者は同じ「子どもの発見」について述べています(アリエスの本は同じ1960年に出版されていますので、著者はそれをフランス語で読んだか、英訳がすぐに出ていてそれで読んだか、あるいはまったく別のところからの情報なのかは、残念ながらわかりません)。
 そして、子どもが尊重されるようになってから、一流の資質を持った作家や社会人が子どもの本を書くようになり、彼らの哲学をもるのに非現実の世界が向いているので、ファンタジーが生み出される原動力になったとしています。
 また、ファンタジーの定義として、リリアン・スミスの「児童文学論」に書かれている「「目に見えるようにすること」という意味のギリシャ語」を紹介し、日本では、辞書までが「とりとめのない想像」「幻想」「幻覚」「空想」「幻想」などとなっていて、誤解されているとしています(今でも、こういった基本的な定義も知らずに、「メルフェン」などとごっちゃにしている児童文学関係者はたくさんいます)。
 ファンタジーがなぜ「子どもの文学」に適しているかの理由として、まず、子どもは小さいときは「想像の世界と現実の境めを、毎日、なんのむりもなく、出たりはいったりしながら、大きくなっていきます」と、小さな子どもほど意識と無意識の世界が不分明であることをあげています(詳しくは本田和子の論文についての記事を参照してください)。
 そして、「その世界に身をおくことが、だんだんに少なくなり、すでに得た知識や、経験からくる判断力を武器にして現実にとりくむようになると、人間はおとなになります。」としています。
 そのため、「ファンタジーが、ファンタジーとしての最高の美しさ、高さに達することができるのは、子どもが子どもとして一番大きくなった一時期(彼女の定義では小学校高学年あたりを指していると思われますが、繰り返し書いていますが子ども読者の本に対する受容力が著しく低下している現在では、その年齢は中学生あたりだと思われます)を対象としたもの」とし、「それより一歩成長して、おとなになってしまえば、たいていの場合、その読者にとって、ファンタジーの魅力は失われます。」としています。
 ご存知のように、現在ではファンタジーの主な読者は、かつてのメインであった子どもや若い女性たちだけでなく、女性全体に広がっています。
 良く言えば「いつまでも子どもの心を失わない」女性が増えているということですし、悪く言えば「いつまでも精神的に成熟しない」女性が増えているせいかもしれません。
 これは、かつて女性の通過儀礼であった結婚、出産のタイミングが高年齢化し、さらに結婚も出産も生涯経験しない女性が増えていることも一因でしょう。
 著者は、ファンタジーの分類やいわゆる「通路」の問題にも触れていますが、今から見ると中途半端なものなので、論評は避けます。
 著者は「たとえ話」や「アレゴリー」に陥る危険性に触れながらも、表面的な面白さだけでなく、「表現も思想も、ファンタジーのなかで、子どもの文学で達しうるかぎりの高さに到達することができます」と、その可能性に期待しています。
 最後に、「今後の日本児童文学が、この方面(ファンタジーのこと)にもよい作品をどしどし生んでゆくことが熱望されます。」と締めくくっています。
 2008年にお亡くなりになった著者は、ファンタジー花盛りの現在の日本の児童文学の状況を喜んでおられることと思いますが、はたして著者の眼鏡にかなう「表現も思想も子どもの文学で達しうるかぎりの高さに到達した」作品がいくつあるかというと、いささか心もとない気もします。
 著者に限らず、「子どもと文学」のメンバーの日本の児童文学に対する最大の貢献は、優れたファンタジーの普及にあると思われます。
 石井桃子(ケネス・グレアム「たのしい川辺」、ミルン「クマのプーさん」などの翻訳)、瀬田貞二(トールキン「指輪物語」、「ホビットの冒険」などの翻訳)、渡辺茂男(マージェリー・シャープ「ミス・ビアンカ」シリーズ、ガネット「エルマーの冒険」シリーズなどの翻訳)、いぬいとみこ(「ながいながいペンギンの話」、「木かげの家の小人たち」などの創作)たちの本は、今でも子ども読者(大人読者も)に広く読まれていますし、松井直や鈴木晋一も出版や普及の面で大きな貢献をしました。

「子どもたちは何を読んでいる?」
 著者は、子どもたちがよく読んでいる本を、伝承文学と創作児童文学の両方について、年齢別、外来か日本か、に分けてリストアップしていますが、データの出所が不明(おそらく著者が1958年から主宰している私設の児童文庫の「かつら文庫」と思われます)ですし、定量的でないので、論評は避けます。
 ただし、少し古いデータですが、2011年の学校読者調査によると、小学校四年から六年までの男女のリストには、「伝記(これは昔も今も圧倒的に強いです)、ゾロリ・シリーズ(何冊も入っています)、ハリー・ポッター・シリーズ(これも何冊も入っています)、怪談物、児童文庫の書き下ろしのエンターテインメントシリーズ、大人の女性向けエンターテインメント(小学校六年の女子)が上位を占めていて、著者がリストアップしたような伝承文学やエンターテインメント以外の創作児童文学はほとんど姿を消しています(かろうじて「クマのプーさん」(ディズニーの影響でしょう)、モンゴメリー「赤毛のアン」シリーズ(母子で愛読しているのでしょうか)、森絵都「カラフル」(小学六年の男女)、あさのあつこ「バッテリー」(小学六年の男子)などが下位の方に入っています)。


子どもと文学
クリエーター情報なし
福音館書店







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