現代日本児童文学を研究するために大学院受験を検討したことは別の記事で書きましたが、その時にそれらの大学(大学院)が旧態依然だということが分かり、かなり失望しました。
ある大学の教授に言わせると、彼が学生だった30年前とあまり変わっていないとのことです。
私は理系の学部出身なので単純な比較はできませんが、息子たちは二人とも文系の大学生だったなので、彼らの話から判断しても、日本の大学(大学院)の、少なくとも文系の学部は、相変らず本当の意味での勉強をするには、あまり魅力のあるところではなさそうです。
1960年代の全共闘世代の大学民主化闘争は、結局なんの成果もあげられなかったようです。
例えば、いったん大学の教授になれば、研究成果に関わらず不祥事を起こさない限りは、終身雇用が保障されているようです(某大学では、教授だけでなく一般の職員まで最近まで70歳定年だったそうです)。
それに対して、非常勤講師は安い時間給と不安定な身分保障(いろいろな大学では五年間での雇止めの動きもあって、ますます彼らにとって不利になっています)で、安心して結婚すらできない状況です。
そういったポストですら年々減少していて、オーバードクターやポストドクターの若者たちは高学歴低収入にあえいでいます。
これでは、団塊の世代(皮肉にもかつての全共闘世代であった人たちです)が現代の若者たちから、大卒あるいは大学院卒という肩書を餌に、搾取しているようなものです。
つまり、大学そのものが、いわゆる世代間格差を象徴しているのです。
こんな状況ですから、大学院の研究環境についていくつかの大学に質問したのですが、質問の意味すらなかなか理解してもらえませんでした。
その時、私の研究環境の基準は、自分が勤めている外資系の会社の仕事環境でした。
そこでは、国内外の技術者や研究者と電話会議やネットミーティングで、シンクロして仕事を進めるのが、二十年以上前から日常的に行われています。
これが実現したのは、パソコンやインターネットの普及や通信費用の低価格化のおかげです。
電話会議やネットミーティングのことを繰り返し説明して、やっと大学側の担当者に質問の主旨を理解してもらったのですが、どの大学にもそういった環境はまるでありませんでした。
このインターネットが一般化した時代に、電話会議やネットミーティングなしに、どうやって他の大学の研究者たちと意見を交換するのでしょうか?
そう尋ねると、学会などで会ったときやメールなどでやっているとのことです。
そんなことでは、タイムリーな意見交換はとてもできないでしょう。
また、現代外国児童文学を研究する場合はどうするのでしょうか?
このグローバルな時代に、今でも国際会議などを除くとほとんど交流のチャンスはないそうです。
それに、入手した大学院の試験問題から察するに、英米児童文学を受験する人たちですら英語力についてあまり高いものを求められていないので、もしかすると翻訳された本の研究が中心で、海外の作品や研究書を原書で読む機会はあまりないのかもしれません。
ましてや、英会話や英文作成能力などのコミュニケーション能力は、試験さえ行われません。
こんな実力しかない大学院生が、どうやって最新の海外の児童文学の研究をできるのでしょうか。
さらに、児童文学専攻の大学院がある某女子大の場合は大学院専用の図書館が付属した研究センターがあるだけましでしたが、現代文芸の大学院がある某有名大学では大学院や教員専用のそういった施設はなく、一般学生と同じ大学や学部の図書室を利用するとのことでした。
たまたま、私はその大学の卒業生(理系の学部ですが)なので、もともとそれらの図書室を利用できるのです。
これでは、わざわざ大学院生になる意義はまったくありません。
また、授業にもパソコンやそれに接続するプロジェクター、コピーの取れる電子黒板などの設備も、教室にはほとんどないようです。
相変わらず先生が黒板に板書して学生はノートに写すか、もし許される場合は写メを撮るぐらいのようです。
教授が授業をパソコンに接続したプロジェクターで行い、レジュメをみんなにネットで配るということはほとんどないそうです。
学生側も、筆記の代わりにノートパソコンに入力している人は少ないようです。
ひどい場合には、スマホやノートパソコンの教室への持ち込みが禁止されているようです。
スマホやノートパソコンを持ち込ませたら、学生が授業中にゲームをやったりメールをしたりするのを恐れているみたいです。
話は変わりますが、大震災や原発事故などの重要な会議がテレビ中継されたときに、専門家、政治家、官僚たちがずらりと並んでいるのに、ノートパソコンを前に置いている人がほとんどいないのを、前から奇異に思っていました。
私の会社では、会議には全員がノートパソコンを持ち込み、説明する人は自分のパソコンにプロジェクターを繋いで、資料の説明を行います。
もちろん、全員のパソコンがイントラネットに繋がっているので、自宅や海外からでも会議に参加できます。
また、タイピングの速い人(特に外国人は速い人が多い)が書記役をかってでて、ミーティングが終了するとともに、使われた資料だけでなく議事録までが参加者にイントラネットで配布されます。
大震災の会議を見ていて、誰が議事録を取っているのだろうと思っていたら、案の定誰も議事録をとっていないことが判明して大騒ぎになりました。
それに対して、アメリカでは3000ページもの議事録がありました。
彼らはリアルタイムに議事録を取っているのですから、生々しく正確で量も多いのは当たり前です。
つまり遅れているのは、大学だけではなく日本全体が(特に公務員ないしはそれに類する人たちが関与しているところでは)、こんなにインターネットやパソコンが普及しても、仕事や講義の仕方はまるで進歩していないようです
もし、私が外国児童文学を専攻するのなら、日本の大学はさっさとあきらめて、外国の大学に留学すればいいのでしょう。
しかし、私は現代日本児童文学を研究したかったのですから、それもできません。
けっきょく、大学院受験はあきらめて、それにかかる費用を自宅の書庫や書斎の整備(アマゾンを使って研究に必要な内外の文献を購入、高性能ノートパソコンの導入、各種通信サービスへの加入、人間工学を応用したオフィス機器や環境機器の購入など)にあてて、それでもカバーできない部分は公立図書館(在住、在勤の市立図書館からの書籍の借り出し、県内/都内の公立図書館から地元の公立図書館へ取り寄せた書籍の借り出し、国際子ども図書館から取り寄せた書籍の地元の公立図書館内での閲覧など)を最大限に利用して、在野で研究をすることにしました。
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