現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ウォーレン・フレンチ「いんちきな世界ときれいな世界」サリンジャー研究所収

2019-09-24 10:45:53 | 参考文献
 タイトルの「いんちきな」は原文ではphonyであり、「きれいな」はniceです。
 日本語訳は、著者の意図通りに訳しているようなので問題ないのですが、niceに関しては、サリンジャーが使っている本来の意味では、客観的な「きれいな」ではなく、主観的な「(自分の)好きな」の方が適切だと思われます。
 そのため、著者は、この論文において、客観と主観を混同していて、サリンジャー作品を論理的に読んでいるようで、実はかなり間違った読み方をしています。
 つまり、サリンジャーの描くniceな世界は、あくまでもサリンジャー及び登場人物の主観によるもので、そのために社会における既成の(経済活動や国家や宗教などが求め、サリンジャーや登場人物にとってはphonyな)価値観と対立して(多くの場合は敗れて)しまうのです。
 そして、それがゆえに、サリンジャー作品は、同じ問題(niceな自分の世界とphonyな社会との対立)に悩む多くの若い世代に共感を得たのです。
 これは、現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きていることのリアリティの希薄さ、社会への不適合など)に直面した高度成長期(アメリカでは戦後から1950年代にかけて、日本では1960年代から1970年代にかけて、発展途上国では現在も)以降の若い世代にとっては非常に深刻な問題であり、それゆえ現在でもサリンジャー作品が世界中で読まれているのです。
 このniceな世界とphonyな世界の対立は、児童文学にとっても重要なテーマです。
 児童文学のことばに直すと、「子どもの論理」と「大人の論理」の対立ということになります。
 本来の児童文学者は、つねに「子どもの論理」の側に立っていなければならないのですが、この基本的な事柄ですら全く忘れられてしまっている(あるいは知らない)児童文学作家が大半なのが現状です。
 この論文では、サリンジャー論をどの作品からスタートするについて、著者の独自性を主張しています。
 つまり、一般的な「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(代表作であり、唯一の長編)、「バナナ魚にはもってこいの日」(グラス家サーガの第一作であり、その中心人物のシーモァがいきなり自殺してしまいます)、「若い人」(デビュー作の短編)、「エズメのために ― 愛と背徳をこめて」(一番の傑作と言われ、人気が高い)ではなく、「コネチカットのグラグラカカ父さん」を選んだことです。
 その一番の理由として、niceな世界がphonyな世界に敗れた後の作品だからだとしています。
 やや奇をてらいすぎている感じがしますが、この作品がサリンジャーの唯一の映画化された作品であり、その脚本が商業的成功(まさにphonyな世界ですね)のために、いかに改悪されたかが詳述されていて、その後サリンジャーがいかなる映画化の話も断固として拒絶した理由が分かって、参考になりました。
 それにしても、映画化の話に飛びついて、どんなに改悪されても唯々諾々と受け入れて、さらには喜んでチョイ役で出演までしてしまうphonyな児童文学作家がいることを考えると、サリンジャーの姿勢には清々しささえ感じます。




 




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