一般に、児童文学の作品を書く場合の時代設定は、特に歴史物や未来物として書く場合を除くと、漠然と「現在」に設定されることが多いと思われます。
この「現在」という概念は、人によって非常にバラつきがあって、今年だけに限定されている場合も、二十年ぐらい前までの長い期間を含む場合もあります。
私が二十代の時に児童文学を書き始めた時には、自分の「少年時代」は本当に地続きの「現在」、あるいはつい昨日のように近い「過去」の事として描くことができました。
ですから、自分の「少年時代」を「現在」であると称しても、そんなに不都合はありませんでした。
それが、三十代になって少年時代が過去へ遠ざかった時、作品の時代設定として取る道は二つありました。
ひとつは、自分の少年時代(私の場合1960年代から1970年代にかけてでした)を時代設定として採用する方法です。
もうひとつは、現在(1980年代でした)を舞台にして、自分の少年時代とは切り離して作品を描くことです。
結論から言うと、私は後者を選びました。
まだ子どもたちの新しい風俗についていけると思っていたことと、当時は子どもの成長が年々早くなっていると信じられていたので、自分の少年時代を少しアレンジして(中学時代の体験を小学生を主人公にして描くなど)書くと、現在の風俗によくマッチしたからです。
その後、自分の子どもたちを得てからは、彼らやその友達の少年時代(1990年代から2000年代にかけてでした)に取材して、作品を書くことができました。
その子どもたちも成人すると、なかなか「現在」にフィットした作品を描くのがつらくなってきました。
子どもたちの新しい風俗も、体感としてはつかめなくなっています。
この場合に、作品の「時代設定」として取る方法は二つあると思います。
まずひとつめは、「現在」という概念を広げて、20年ないしは30年間は通用する普遍的なテーマやモチーフを選ぶことです。
もうひとつは、自分自身もしくは子どもたちの少年時代に時代設定して、当時の風俗で作品を描くことです。
この二つの方法は二元論ではなく、テーマやモチーフに合わせて使い分けることができると思っています。
この「現在」という概念は、人によって非常にバラつきがあって、今年だけに限定されている場合も、二十年ぐらい前までの長い期間を含む場合もあります。
私が二十代の時に児童文学を書き始めた時には、自分の「少年時代」は本当に地続きの「現在」、あるいはつい昨日のように近い「過去」の事として描くことができました。
ですから、自分の「少年時代」を「現在」であると称しても、そんなに不都合はありませんでした。
それが、三十代になって少年時代が過去へ遠ざかった時、作品の時代設定として取る道は二つありました。
ひとつは、自分の少年時代(私の場合1960年代から1970年代にかけてでした)を時代設定として採用する方法です。
もうひとつは、現在(1980年代でした)を舞台にして、自分の少年時代とは切り離して作品を描くことです。
結論から言うと、私は後者を選びました。
まだ子どもたちの新しい風俗についていけると思っていたことと、当時は子どもの成長が年々早くなっていると信じられていたので、自分の少年時代を少しアレンジして(中学時代の体験を小学生を主人公にして描くなど)書くと、現在の風俗によくマッチしたからです。
その後、自分の子どもたちを得てからは、彼らやその友達の少年時代(1990年代から2000年代にかけてでした)に取材して、作品を書くことができました。
その子どもたちも成人すると、なかなか「現在」にフィットした作品を描くのがつらくなってきました。
子どもたちの新しい風俗も、体感としてはつかめなくなっています。
この場合に、作品の「時代設定」として取る方法は二つあると思います。
まずひとつめは、「現在」という概念を広げて、20年ないしは30年間は通用する普遍的なテーマやモチーフを選ぶことです。
もうひとつは、自分自身もしくは子どもたちの少年時代に時代設定して、当時の風俗で作品を描くことです。
この二つの方法は二元論ではなく、テーマやモチーフに合わせて使い分けることができると思っています。
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