1996年公開のアメリカ映画です。
一種のクライム映画で、警察映画でもありますが、謎解きをメインにしたものではありません。
妻の狂言誘拐を企てる夫側(夫、息子、妻の父、その経理士)も、二人の実行犯も、捜査する警察側も、すべてがいきあたりばったりで、偶然殺人事件が起こり、偶然さらなる殺人事件が起こり、偶然それらが解決されます。
メインのストーリーに関係ないエピソード(主役の女性警察署長と、その絵かき(?)の夫、彼女の大学時代の友人のノイローゼの男性、犯人が買った娼婦たち、無責任な情報提供者たち、やる気のない警察関係者との他愛のない会話や、頻繁に登場する暴力シーンやセックスシーンやジャンクフードによる食事シーンなど)が積み重ねられ、どんな凶悪事件でも、実際の犯罪捜査中の捜査官や犯人の生活なんかこんなものなんだろうなあと思わせる、妙なリアリティが魅力です。
さらに、一人として、イケメンも美人も登場しなくて、どこにでもいそうな(どちらかと言うと容姿が劣る)出演者たちが、作品のリアリティをアップさせています。
妊娠七ヶ月の大きなお腹を抱えて、凶悪事件をさり気なく解決させてみせるという難役を演じたフランシス・マクドーマンドがアカデミー主演女優賞を獲得しています。
彼女は、「スリー・ビルボード」でも再びアカデミー主演女優賞を獲得しているので、典型的なアメリカ女性を演じるにはうってつけの女優なのでしょう。
2019年公開のイスラエル映画です。
1990年に、崩壊間近のソ連からイスラエルに移住した初老の声優夫婦が、新しい生活に悪戦苦闘しながら順応していく姿をユーモラスに描いています。
当時は、大勢のユダヤ人がソ連圏からイスラエルに移住していたようで、ロシア語を使ったコミュニティが成立していたようです。
二人がありついた、そんな環境ならではの仕事が、興味深かったです。
妻の仕事は、そうしたロシア人相手のテレフォン・セックスの相手役です。
彼女は62才なのですが、声優ならではの声色を自在に使い分けられる能力を発揮して、22才の娘から人妻まで、相手の要望に合わせて演じ分けて、人気を博します。
夫はやっとありついたビラ配りの仕事にねをあげて、映画の違法ダビングの犯罪に荷担します。
映画館で、上映されている映像をこっそり撮影して、ロシア語に吹き替えて、レンタルします。
最後には、それぞれの仕事が破綻するのですが、それをきっかけに、仲たがいして別居していた二人は再び絆を確認します。
個人的に興味深かったのは、二人(おそらく監督も)がイタリアの映画監督のフェデリコ・フェリーニ(関連する記事を参照してください)を敬愛していて、彼の作品に対するオマージュが語られていたことです。
特に、妻の方は、フェリーニ作品でジュリエッタ・マシーナ(「道」を始めとした彼の主要作品の主演女優で、彼の妻でもあります)の吹き替えを担当していたという設定にはしびれました。
たしかに、彼女は風貌も声も、ジュリエッタ・マシーナを彷彿とさせるところがあります。
私の最も好きな女優に思いがけず再会できたようで、感動しました。
1991年に公開されたサスペンス映画です。
サイコホラーというジャンルを確立したと言われる、トマス・ハリスの小説の映画化です。
映画には上映時間(この映画の場合は118分)の縛りがあるので、有名な原作がある映画はどうしてもあらすじ風になってしまいます。
この映画でも原作の凝った細部はだいぶ失われていますが、かなり正確に原作の雰囲気を出すことに成功しています。
特に、主役のジョディ・フォスター演じるFBIのクラリス・スターリングと、アンソニー・ホプキンス演じるハンニバル(人食い)・レクター博士が対面するシーンは、圧倒的な臨場感がありました。
この映画は第64回アカデミー賞で、主要五部門(作品賞、監督賞、主演女優賞、主演男優賞、脚本賞)を独占しました。
主要五部門を独占したのは、「或る夜の出来事」、「カッコーの巣の上で」に次いで三作品目です。
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非常に記憶力のいい主人公の少女が、しだいに大がかりなカンニング事件に巻き込まれていく姿を描いています。
初めは、仲のいいクラスメイトの女の子が、成績が悪くて演劇部の芝居に出られないのに同情して、彼女にカンニングをさせて、芝居に出演できる成績レベルをクリアさせます。
しかし、そのことを友だちの彼氏の、金持ちのぼんぼんに知られて、有料でカンニングを請け負う組織に発展してしまいます。
背景としては、主人公があまり裕福ではなく、彼女たちが通う私立の名門校(校長へのわいろが横行していて、成績の悪い裕福な家庭の子女もたくさんいます)の授業料免除の特待生だということがあります(主人公の父親は教師なのですが、給料が安くてそれが原因なのか母親と離婚しています)。
もう一人の特待生の男の子(彼もまた、母親一人でやっている洗濯屋を手伝っている苦学生です)も巻き込んで、ついには、全世界を対象としたアメリカの大学を受けるための資格試験を、世界で一番初めに実施されるシドニーとタイの時差(四時間)を利用して、事前に主人公たち特待生がシドニーで受験した答えをタイへ送って、高額な参加料を出させた大勢の受験生に伝えるという大がかりな犯罪にまで発展します。
ピアノのコードやバーコードやスマホを利用した現代的なカンニング方法や、いろいろなハプニングに見舞われる資格試験当日をサスペンスタッチで描いたところが一番の見せ場です。
また、背景として、日本以上に格差社会であるタイの現状や、貧しい子どもたちがそれを打破するためには、アメリカなどの海外の大学に留学するしかないことなどが描かれている点も、優れていると思いました。
主役を演じた富永愛似の女の子(やはりモデルだそうです)を初めとして、タイの若い出演者たちがなかなか魅力的でした。
ただ、ジーニアスとか、天才という惹句はかなり大げさで、特待生たちは記憶力の良い秀才にすぎませんし、年長者(ここでは主人公の父親)をたてるタイらしいモラーリッシュなラストにも不満が残りました。
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2003年公開のアメリカ映画です。
63歳の独身プレイボーイと53歳のバツイチの劇作家の、おいらくの恋を描いたロマンチック・コメディです。
ジャック・ニコルソンとダイアン・キートンの両名優の演技が楽しめます。
ラストのハッピーエンドは、ややご都合主義に感じられますが、ベッドシーンやヌードも含めて二人の体当たりの演技が光ります。
2023年公開のイギリス・アメリカ合作映画です。
ロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」の世界は下敷きにしていますが、ダールの遺族の了解を得たオリジナル・ストーリーです。
そのため、大ヒットしたジョニー・ディップ主役の「チャーリーとチョコレート工場」(その記事を参照してください)とはかなり設定が違っています。
この作品では、ティモシー・シャラメ演ずる主人公のウィリー・ウォンカは、生い立ちの影はあるもの明るい好青年として描かれていて、あの奇妙な魅力にあふれたジョニー・ディップのウォンカとはまるで別人のようです。
映画自体も、前作のおどろおどろしさはぜんぜんなく、楽しいミュージカル・ファンタジーに仕上がっています。
前作の魅力の一部である小さな人、ウンパルンパも、今作では、イギリスの名優ヒュー・グラント(「パディントン2」や「ブリジット・ジョーンズの日記」などの記事を参照してください)が演じていて、さすがの演技力を発揮しています。
2009年公開の日本映画です。
京大に二浪して入学した主人公が、青竜会という謎のサークルに入ったことで、ホルモーという小鬼を操って戦う謎の競技に参加することになります。
全編、馬鹿馬鹿しいギャグのオンパレードなのですが、まだ若手だった山田孝之や栗山千明たちが生き生きと演じていて、青春ファンタジー映画として楽しめます。
また、映画のあちこちに京都の風物が描かれていて、観光映画の趣もあります。
2005年公開のアメリカのファンタジー映画です。
原作は、ロアルド・ダールの児童文学の古典「チョコレート工場の秘密」ですが、ダール独特のブラックなファンタジー世界に、こうした作品を得意とするティム・バートン監督が彼独自のファンタジー観を加味して、めくるめく官能的な世界を展開しています。
監督とコンビを組むことの多いジョニー・デップの怪演を中心に、ファンタジー世界を彩るにふさわしい出演者たちが、この不思議な世界を違和感なく再現してくれています。
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1994年に公開されて、一躍、監督のウォン・カーウァイを有名(特に日本で)にした非常にスタイリッシュな映画です。
失恋した二人の警官の、それぞれの新しい出会いを、疾走するカメラワークとしゃれた会話(モノローグも含む)で、香港の猥雑だが魅力的な雰囲気の中で描いています。
トニー・レオン、フェイ・ウォン、金城武たちの若々しい魅力が全編に溢れています。
バックに流れるママス・アンド・パパスの「夢のカリフォルニア」やクランベリーズの「ドリームス」(作品中ではフェイ・ウォンがカバーしていますが、これもまた魅力的です)などが、作品の雰囲気によくマッチしていて気分を高揚させてくれます。
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2023年公開のパロディー映画の第二作です。
今度は、舞台を関西に移して、権力者を東京の代わりに大阪に、ディスられるのが埼玉の代わりに滋賀に設定されています。
相変わらず強引な展開なのですが、そこそこ楽しめます。
オリジナルメンバーのGACKTや二階堂ふみ(あまり登場しませんが)などに加えて、杏、片岡愛之助、藤原紀香などの面々が、大真面目にパロディを演じていて、楽しいです。
2019年に公開されたパロディ映画です。
1982年から1983年にかけて、「花とゆめ」の別冊に連載された、パタリロで有名な魔夜峰央のパロディ漫画を実写化しました。
埼玉を徹底的にディスることで、逆に埼玉愛を喚起するとともに、極端な東京集中の現代日本を強烈に風刺しています。
原作がベルばら調をデフォルメしたタッチなので、映画は宝塚調をデフォルメしています。
二階堂ふみ、GACKT、伊勢谷友介などの人気タレントが、真面目に馬鹿馬鹿しいシーンを熱演しているだけでも結構おかしいのですが、現代の埼玉県民がこの話を都市伝説としてNAC5で聴いているという設定や、GACKTならではの格付けのシーンなどの映画オリジナルシーンも良くできています。
しかし、日本アカデミー賞の優秀作品賞を受賞するほどの作品なのかというと、少々疑問も感じます。
それだけ、現在の日本映画には、賞に値するような作品が少ないということなのでしょうか。
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翔んで埼玉 |
徳永友一,若松央樹,古郡真也 | |
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2023年公開の日本・ドイツ合作の映画です。
役所広司演じる、東京の公衆トイレの掃除人の日常を描いた作品です。
小津安二郎を尊敬するヴィム・ヴェンダース監督らしく、淡々と日常を描く中に、人生の哀歓を浮かび上がらせます。
主人公はスカイツリーの近くの古い木造アパートで暮らし、テレビ、冷蔵庫、洗濯機といった電気製品はありません。
起床、朝のルーチン、車の中でのカセットテープによる古い洋楽、渋谷区の公衆トイレでの丁寧な仕事、神社の境内でのサンドウィッチの昼食、白黒のフィルムカメラでの撮影、仕事終わりの銭湯、浅草の地下街の大衆酒場での一杯、古本屋で買った文庫本による読書、就寝などが毎日繰り返されます。
休日は、部屋の掃除やコインランドリーでの洗濯や居酒屋(どうもここの女将が好きなようです)ですごします。
こうした主人公に、調子のいい後輩の男、後輩が通い詰めているガールズ・バーの女、踊るホームレスの老人、家出してきた姪、その母親(主人公の妹)、居酒屋の女将、女将の元夫(癌に侵されている)などの個性的な人物たちが関わってきます。
これらを、柄本時生、田中泯(当然ですが、踊りがうますぎるのが難です)、石川さゆり(当然ですが、歌がうますぎるのが難です)、三浦友和などの芸達者たちが演じています。
とはいっても、この映画は、役所広司による一人芝居といった趣で、セリフは極端に少ないのですが、表情や身振りで雄弁に主人公の人生を語っていて、カンヌ映画祭主演男優賞を受賞したのも当然といった感じです。
2001年に公開されたトールキンの指輪物語の実写版映画の第一部です。
あの長大なファンタジーを、できるだけ原作に忠実に作ろうとした労作です。
公開版も178分とすごく長いのですが、未公開部分を追加したエクステンデッド版で見直したのですが、なんと208分もあって、トールキンの世界観にどっぷりと浸ることができます。
冥王サウロンが、自分の作ったすべての指輪を統べる魔力を持つ指輪を、再び手に入れようとしていることを知り、ホビット族のビルボ・バギンスが持つその指輪を処分する使命を持って、ビルボの甥のフロドが旅立ちます。
エルフの森で開かれた会議によって、各種族の代表がモルドールの滅びの山まで廃棄しに行くことになります。
この危険な「旅の仲間」は、ホビットのビルボ、サム、ピピン、メリー、人間のアラゴルン、ボロミア、ドワーフのギムリ、エルフのレゴラス(イケメンのオーランド・ブルームが演じて一躍人気スターになりました)、そして、魔法使いのガンダルフの合計9人です。
様々な冒険をしますが、途中のモリアの坑道で、ガンダルフは悪鬼バルログと戦って行方不明になってしまいます。
さらに、ウルク・ハイに率いられたオーク鬼の大群に襲われ、ピピンとメリーは拐われ、ボロミアは戦死してしまいます。
その戦いのさなかに、フロドは仲間と離れて一人で滅びの山へ向かいますが、サムだけは後を追ってきて一緒に旅することになります。
つまり、ロード・オブ・ザ・リングは三部作に渡る大長編なので、これからは、フロドの旅、メリーとピピンの救出、ガンダルフの復活などの物語を経て、大団円に至るのですが、第一部「旅の仲間」はここまでです。
オリジナルの英語のタイトルでは、きちんと第一部のタイトルである「旅の仲間」が付いているのですが、日本語のタイトルではなぜか(おそらくわざと)削ってあります。
それは、欧米とは違って、原作を読んでいない人が大半の日本の観客を欺こうという姑息な手段だったのかもしれません。
そのため、公開時に見たときには、一番盛り上がったときのいきなりのエンディングに、戸惑いのどよめきが起こったのを覚えています。
しかも、彼らが続きの「二つの塔」を見られたのは、一年以上経ってからなのです。
それはともかく、映画の出来自体は素晴らしく、トールキンが作り出し、多くの追随者(一番わかりやすいのはドラクエでしょう)を生み出した「剣と魔法の世界」のオリジナル世界(トールキン自身も、欧米の神話や伝承を元にしていますが)は、ほぼ理想的な形で映画化されました。
私が20歳のころ(1974年頃)に、実現してほしいけれど、生きている間は無理だろうなと思っていたことが2つありました。
一つは日本のサッカー・ワールドカップ出場で、これは1998年のフランス・ワールドカップで実現(出場チームが24から32に水増しされていましたが)して、さらに2002年には日本で開催されました(これも韓国と共催という水増しですが)。
もう一つが、トールキンの「指輪物語の映画化」でした。
その時は、映画化されてもアニメだろうと思っていた(当時人気のあったファンタジー作品の「ウォーターシップダウンのうさぎたち」の一部分がアニメ化されたのですが、あまりいい出来ではありませんでした)のですが、CGの出現により実写版でこのように実現したのは、原作のファンとしては夢のようなことです。
とある2DKのアパートに、スーツケースを抱えた母親のけい子と息子の明が引越ししてきます。
アパートの大家には「主人が長期出張中の母子2人だ」とあいさつをしますが、実はけい子には明以外の子どもが3人もおり、スーツケースの中には次男の茂、次女のゆきが入っていました。
長女の京子も人目をはばかり、こっそり家にたどり着きます。
子ども4人の母子家庭――事実を告白すれば家を追い出されかねないと、嘘を付くのはけい子の考え出した苦肉の策でした。
けい子は、大家にも周辺住民にも事が明らかにならないように子どもたちに厳しく注意しています。
子どもたちはそれぞれ父親が違い、出生届すら出されておらず、学校に通ったことさえありません。
当面はけい子が百貨店でパートタイマーとして働き、母の留守中は明が弟妹の世話をして暮らしていましたが、新たに恋人ができたけい子は留守がちになり、やがて生活費を現金書留で渡すだけでほとんど帰宅しなくなってしまいます。
そして、兄弟だけの「誰も知らない」生活が始まります。
けい子が姿を消して数か月がたちました。
渡された生活費も底をついて、子どもだけの生活に限界が近づき、料金滞納から電気・ガス・水道も止められてしまいます。
そんな中、4人は遊びに行った公園で不登校の女子高生の紗希と知り合います。
兄弟の惨めな暮らしぶりを見た紗希は協力を申し出て、援助交際で手に入れた現金を明に手渡そうとしますが、その行動に嫌悪感を抱いた明は現金を受け取りません。
だが、食料はなくなって、明は知り合いのコンビニ店員から賞味期限切れの弁当をもらい、公園から水を汲んでくるなどして、兄弟たちは一日一日を必死に生きのびることになります。
ある日、言うことを聞かない妹弟たちとけんかをして、うっぷんの爆発した明は衝動的に家を飛び出してしまいます。
飛び出した先で、ひょんなことから少年野球チームの助っ人を頼まれ、日常を忘れて野球を楽しみますが、家に戻った明が目にしたのは、倒れているゆきと、それを見つめながら呆然と座り込んでいる京子と茂の姿でした。
ゆきは椅子から落ち、そのまま目が覚めないといいます。
病院に連れて行く金も薬を買う金もないので、明は薬を万引きします。
兄弟は必死で看病しますが、翌日ゆきは息絶えていました。
明は紗希を訪ね、ゆきに飛行機を見せたいのだと、そして、あのとき渡されるのを断った現金を貸して欲しいと伝えます。
兄弟たちと紗希は、スーツケースの中にゆきの遺体と大量に買い込んだゆきの好きだったアポロチョコを入れます。
明と紗希は2人でゆきの遺体が入ったスーツケースを運びながら電車に乗って、羽田空港の近くの空き地に運びだして、敷地内に土を掘って作った穴に旅行ケースを埋めました。
そして、2人は無言でマンションに戻りました。
ゆきがいなくなった明と京子と茂と紗希の、「誰も知らない」生活が、これからも続いていきます。
他の記事で、現在の児童文学が今日的な問題を描かないことへの批判の引き合いにこの映画を出しましたので、久しぶりに見てみました。
驚いたのは、この作品が作られたのが2003年で元になった事件は1988年ともう30年以上も前だったことです。
今回、「誰も知らない」を見直して、母親による単なるネグレクトだけではなく、父性や母性の欠如(彼らの生育過程にも問題があったと思われます)、行政の怠慢及び不備(主人公の少年は前に行政によって兄弟がバラバラにされた経験があったので、今回は行政に頼りませんでした)、公教育の欠陥(不就学児童への対応の不徹底など)、周囲の大人たちの無関心、子どもたちの万引き、いじめ、援助交際など、さまざまな今日的問題が描かれているのに気づきました。
確かに、見ていて息苦しさを覚えるような悲しい作品ですが、時々、子どもらしい遊びをする場面で流れる明るい音楽が、それでも彼らは生きていくことを象徴しているようでせめてもの救いになっていました。
確かにこういう映画は見ていて楽しくないでしょうが、いつも楽しさや面白さばかりを求めるのではなく、時にはこのような見続けることが困難なシリアスな作品も必要です。
そして、児童文学の世界でも、売れ線だけをねらうのではなく、こういった作品も世に出す社会的な義務を負っていると思います。
現在の子どもたちや若者たちを取り巻く環境は、「だれも知らない」が描いた時代よりもさらに悪くなっています。
他の記事にも書きましたが、かつて子どもたちの今日的な問題をシノプシスにまとめる作業を半年間続けました。
いつまで続けられるかと危惧していましたが、新聞、テレビ、ネットニュースを見るだけで毎日題材には困りませんでした。
その時は、それらを作品化するには旧来の現代児童文学の方法論ではだめだということに気がつき、創作することは断念しました。
それが、現代児童文学の終焉ないしは衰退と社会の変化の関係を研究しようというきっかけになったのです。
そして、二年間の研究の末に自分がたどりついた結論は、子どもたちや若い世代を取り巻く問題を描くには、児童文学ではもうだめだということです。
こういった作品の読者はほとんいませんし、出版や流通もそういった本には全く対応していません。
そのため、一般文学の形で現在の子どもたちや若い世代の困難な状況を描くことが、「ポスト現代児童文学」の現実的な創作理論だと思っています。
しかし、この「ポスト現代児童文学」は、出版や流通の問題があって、読者(大人が中心になると思われます)の手に届けるのは困難ですし、あまりお金にもならないでしょう。
こういった「ポスト児童文学」の創作は、児童文学の創作で生活の資を得ている人や、自分の作品が本になるのを夢見ている新人たちにはすすめられません。
自分自身で創作もして、その出版や流通の方法についても、自力で開拓していかなければならないと思っています。
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誰も知らない [DVD] |
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1969年公開のアメリカ映画です。
当時アメリカン・ニューシネマと呼ばれた、低予算の新しい感覚を持った映画群の代表作の一つです。
アカデミー賞の作品賞、監督賞、脚色賞を受賞しました。
テキサスから、女性相手の売春を目当てに長距離バスでニューヨークに出てきたカウボーイ姿の青年と、都会のどん底で暮らすネズミというあだ名をった足の悪い男との奇妙な友情を描いています。
極寒のニューヨークで体調を崩したネズミは、暖かいフロリダへ行くことを夢見ます。
カウボーイは、売春相手(男性)を殺す(?)までして、フロリダ(マイアミ)行きのバス賃を手に入れます。
あれほど夢見たフロリダ(マイアミ)に到着する一歩手前で、ネズミは亡くなります。
目を開いたままで死んだネズミの目を閉じてやって、彼の体を支えながら、バスに乗ったまま終点のマイアミに向かうカウボーイの、放心したような表情が忘れられません。
この作品では、二人芝居と言ってもいいほど、ジョン・ボイト(カウボーイ)とダスティン・ホフマン(ネズミ)の二人の名優(この映画では残念ながらノミネートだけだったのですが、その後アカデミー賞主演男優賞をそれぞれ受賞しています)の演技が、全編にわたって繰り広げられます。
特に、ダスティン・ホフマンの演技は、あざといとさえ言えるほど上手く、こすっからしい小男を演じていて、見ていて圧倒されます。
一方、ジョン・ボイトの方は、少しマヌケなお人よしの大男を、まるで本当の彼自身かのように、すごく自然に演じています。
ニューヨークの廃墟ビルに暮らす二人の底辺での生活が、これらの演技によって恐ろしいほどのリアリティをもって描かれています。
全編に流れるニルソンの「うわさの男」も、作品の雰囲気にピッタリで、心に残ります。