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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

ポール・ベルナ「首なし馬」

2025-03-06 09:37:55 | 参考文献

 1955年発行のフランスの児童文学の古典です。
 戦後しばらくして(おそらく1950年前後)のフランスの下町を舞台に、首なし馬(馬の形をした大型三輪車だが、首も取れてガラクタ扱いだった物)で、坂を猛スピードで下る遊びを中心にして団結している10人の少年少女のお話です。
 ひょんなことから、列車強盗団の1億フランの隠し場所を知ることになった彼らは、犯人逮捕に大きく貢献します。
 この作品の一番すぐれている点は、列車強盗団の逮捕というミステリーの部分(エンターテインメント)と、子どもたちの遊びを中心にした生活(自分たちでお金を稼いで、時には煙草を吸ったりもします)をいきいきと描いた部分(リアリズム)が、無理なく有機的につながっていることです(遊びの中で犯人逮捕のきっかけをつかみます)。
 ご存じのように、フランスは第二次世界大戦中はナチスに侵略されて悲惨な状況でした。
 そこからの復興期には、貧しく荒廃しているところも残っていますが、みんなが生き生きとエネルギッシュに生きていました。
 大人たちは生活するのに精いっぱいで、子どもたちに干渉する暇はありません。
 子どもたちは、戦争後のベビーブームで、町にはたくさん溢れていました。
 このような状況では、子どもたちだけの社会が、今では全く想像できないほど大きなものでした。
 もちろん、当時からいじめもありましたが、子どもたちの社会が、今のような水平構造(同学年で輪切りにされています)ではなく、垂直構造(小学一年から六年、時には中学生も一緒に遊んでいました)であったために、自然と年長の子たちは年少の子たちを面倒を見るようになり、そこには自治と呼んでも差し支えないような世界があって、その中でいじめなどの問題も、多くは大人の手を借りることなく解決していました。
 このような作品を、今リアリズムの手法で描いても、全くリアリティを持たないでしょう(ファンタジーの手法を用いれば、ハリー・ポッターの魔法学校ような独自の世界を描けますが)。
 現在では、子どもたちの世界は、家庭、学校、塾、スポーツクラブなどの習い事など、大人たちによって支配され、搾取され、細分化されているからです。
 こうした子どもたちだけの世界が崩壊したのは、決して最近の事ではありません。
 私はこの本が出版される前年の1954年生まれですが、私が幼少のころ(小学校低学年ぐらい)まではこうした子どもたちだけの世界はありましたが、私が年長(小学校高学年)になるころ(ちょうど東京オリンピックが終わった後です)には、私の育った東京の下町ではすでに崩壊していました。
 子ども数の減少や、塾や習い事などの教育ブームなどがその背景にはあります。
 日本が高度成長期に差し掛かって、大人たちにゆとりができて、子どもたち(それまでは少なくとも四、五人いた子どもたちが、各家庭に二、三人になっていて、一人っ子も珍しくなくなっていました)に干渉するようになったからです。
 おそらく、地域によっては、もう少し長い間、子どもたちだけの世界はあったかもしれません。
 しかし、農村や漁村では、長い間、子どもたちは労働力としてみなされていましたから、東京の下町のような自由に遊ぶ時間はずっと少なかっただろうと思われます。
 ところで、私はこの作品を小学校低学年のころに初めて読んだのですが、その本は講談社版少年少女世界文学全集の第29巻で1961年2月の発行です。
 わずか5、6年前にフランスで出版された話題作がすぐに日本でも読めたわけですから、日本の児童書の出版状況は今よりもはるかに健全だったのでしょう。
 そこに載っていたのは紙数の関係(一巻に複数の作品を掲載するため)で抄訳でしたので、犯人逮捕の部分はややあっけなかったように記憶しています(今回全訳で読んで、初めてその部分はすっきり納得できました)が、子どもたちの遊びや生活の部分はほとんどカットがなく、私が子どもの時に魅了されたのはこちらの方でした。
 特に、日本と違って男の子も女の子も一緒に遊び、主人公のフェルナンに、仲良しのマリオン(犯人逮捕の時に大活躍する犬使い(町中の犬たちと友だちで、口笛一つで何十匹も呼び集めることができます)の少女)が別れ際にほっぺにキスをするのを、ドキドキしながら読んだ記憶があります。
 ちなみに、この作品は、1963年にディズニーで実写映画化されて日本でも封切られたので、私も見た記憶があります。


首なし馬 (偕成社文庫)
クリエーター情報なし
偕成社



 




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武田勝彦「グラドウォラ=コールドフィールド物語群」若者たち解説

2025-02-28 08:52:24 | 参考文献

 訳者である鈴木武樹が、ジョン・F・グラドウォラあるいはホールデン・モリス・コールフィールドを主人公にした短編を一つのグループにまとめたのに即して解説しています。
 これらの作品は、サリンジャーの代表作である「キャッチャー・イン・ザ・ライ」ないしは、自選短編集「九つの物語」のための習作あるいは下書き的な性格を持っています。
 そのため、これらの作品自体を論ずるよりは、完成形の作品との差異やなぜそのように変化していったかを考察すべきだと思うのですが、そのあたりが中途半端になっています。
 また、アメリカ文学の流れとしての「ロマンス」から「ノヴェル」への変化についても言及していますが、こうした大きな話は限られた紙数の「解説」という場にはふさわしくなく、中途半端に終わっています。
 以下に各短編の評について述べます。

<マディスンはずれの微かな反乱>
 この作品は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の第17章から第20章にかけての内容の、ごく断片的な下書きともいえます(その記事を参照してください)。
 しかし、著者は、それとの関連に対する考察は、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と「美しき口に、緑なりわが目は」とのあまり本質的ではない関連に触れただけで、この作品自体の評価としては、サリンジャーの巧妙なまとめ方は認めつつも完成度が低いとしています。
 この短編を読んで、ここから長編「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にどのように変化していったかを類推しようとしないのは、著者が実作経験に乏しいためと思われます。
 他の記事にも書きましたが、創作する立場から言うと、長編作品には、大きく分けると「長編構想の長編」と「短編構想の長編」があります。
 前者は、初めから長編として構想されて、全体を意識して創作される作品です。
 後者は、初めは短編構想で書きあげられて、そののちそれが膨らんだり、あるいはいくつかが組み合わさったりして、結果として長編になる作品です。
 サリンジャーは、自分自身も認めているように、本質的には短編作家です(長編は「キャッチャー・イン・ザ・ライ」しかありません)。
 そうした作家の長編の創作過程を考察するためには、こうした初期短編は絶好の材料です。
 その点について、もっと掘り下げた考察をするべきでしょう。
 また、五十年以上前の文章なので仕方がないのですが、著者のジェンダー観の古さと、アメリカ人と日本人のメンタリティの違いが理解できていないことも感じられました。

<最後の賜暇の最後の日>
 平和主義者のサリンジャーの戦争批判の仕方について論じて、「エスキモーとの戦争の直前に」(その記事を参照してください)との共通点を指摘しています。
 ただ、この作品が、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。

<フランスへ来た青年>
 戦争で精神的に傷ついた青年が、妹からの手紙で救済されたことについて、「エズメのために ― 愛と背徳とをこめて」との関連で述べています。
 ここにおいても、幾つかの点で「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(その記事を参照してください)のための習作の役割(詳しくはこの作品の記事を参照してください)を果たしていることが書かれていないので、物足りません。
 また、当時の翻訳者が、日本と外国(この場合はアメリカ)との風俗や人間関係の違いから、読者にわかりやすくするという名目で勝手に意訳したり設定を変えたりすることについて肯定的に考えていることがほのめかされていて、驚愕しました。
 そう言えば、最近は少なくなりましたが、外国の文学作品や映画の日本でのタイトルはかなり大胆に変えられていて、オリジナルのタイトルを知って驚かされることがあります。
 もちろん、そちらの方が優れている場合もあるので、一概に良くないとは言えないのですが。
 例えば、スティーブン・キングの有名な「スタンド・バイ・ミー」は本当は主題歌のタイトルなのですが、オリジナルの「ボディ(死体)」よりはこちらの方が内容的にもしっくりします。
 サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」も、初めの邦題は「危険な年頃」なんてすごい奴でしたし、日本で一番ポピュラーになっている「ライ麦畑でつかまえて」もなんだかしっくりきません。

<このサンドイッチ、マヨネーズがついていない>
 主として技巧面での解説をしていますが、この作品については「キャッチャー・イン・ザ・ライ」との関連が述べられています(詳しくはこの作品の記事を参照してください)。

<一面識もない男>
 サリンジャーの繊細な表現について肯定的な評価をしていますが、明らかな誤読か見落としがあって、この作品もまた「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型の一つであることに気づいていません(詳しくは、この作品の記事を参照してください)

<ぼくはいかれている>
 この短編が、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の原型であることは述べていますが(まあ、誰が読んでも明白なのですが)、それについての具体的な考察はなく将来の研究(他者の?)に委ねてしまっています(私見については、この作品の記事を参照してください)。

 

 

 

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色川武大「離婚」離婚所収

2025-02-12 09:15:26 | 参考文献

 昭和53年に直木賞を受賞した短編です。
 フリーライターとその妻の、不思議な結婚及び離婚の様子を描いています。
 自由気ままな暮らしをしている主人公と、それに輪をかけてフリーな妻は、六年間の結婚生活を解消して離婚しますが、その後もつかず離れずの関係で、半同棲のような暮らしをしています。
 結婚制度というある意味自由を縛り合う関係で暮らしている一般人(現代では生涯未婚の人も多いですが)から見ると、自由で無責任でうらやましいと思う面もあります。
 特に、主人公の妻は、傷ついた小動物のようなところとフラッパーな面を兼ね備えていて、なかなか魅力的に描けています。
 作者は、ペンネームの阿佐田哲也(「朝だ、徹夜」のシャレ)でたくさんの麻雀小説(代表作は「麻雀放浪記」)を書き、ギャンブラーとしても非常に有名で、当時は若い世代に人気がありました。
 この作品に、どこまで作者の実体験が生かされているかは分かりませんが、フリーランスの生活の魅力と危険性がよく表れています。
 作者は、ギャンブル小説のような好奇な風俗ものだけではなく、この作品のような一般的な小説の書き手としても一級です。

離婚 (文春文庫)
クリエーター情報なし
文藝春秋
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司馬遼太郎「国盗り物語」

2025-02-03 14:54:50 | 参考文献

戦国時代のたがいに関係の深かった三人の武将(一番年長の斎藤道三は、織田信長の舅(道三の娘の濃姫が信長の正室)であり、明智光秀の義理の叔父(光秀での叔母が道三の正室)でもあります。ご存じのように信長は本能寺で部下の光秀に討たれました)の生涯を描いています。

作者自身があとがきにも書いているように、もともとは道三だけを描く構想だったのが、好評により信長や光秀までが描かれました。

そのため、全体のタッチが統一されておらす、やや奇妙な感じを受けます。

道三の部分は、作者の作品としてはかなり通俗的に書かれていますが、後半は純文学的な歴史小説のタッチで描かれています。

私の印象では、信長の部分が一番良く書けているようで、光秀の部分は付けたし的な感じを受けました。

 

 

 

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司馬遼太郎「峠」

2025-01-30 09:08:00 | 参考文献

幕末に、弱小な越後長岡藩を率いて、強大な官軍に対して、一歩も引かずに対戦した家老河合継之助の生涯を描いた歴史小説です。

圧倒的な官軍に降伏しなかった河合継之助は、そうかといって幕府にも組せず、長岡藩を独立国家にすることを夢見て、他に先駆けて藩の近代化を推し進めたことが、作者のち密な筆で描かれています。

世間的には全く無名だった河合継之助を、一躍幕末の偉人として浮かび上がらせました。

 

 

 

 

 

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宮澤清六「兄のトランク」兄のトランク所収

2025-01-29 08:58:02 | 参考文献

 賢治の八歳年下の弟である清六氏が、1987年に出版したエッセイ集の表題作です。
 このエッセイ集は、清六氏が賢治の全集の月報や研究誌などに発表した賢治についての文章を集めたもので、発表時期は1939年から1984年まで長期にわたっています。
 賢治にいちばん近い肉親ならではの貴重な証言が数多く含まれていて、賢治の研究者やファンにとっては重要な本です。
 このエッセイでは、大正十年七月に賢治が神田で買ったという茶色のズックを張った巨大なトランクの思い出について書かれています。
 その年、二十六歳だった賢治は、正月から七か月間上京しています。
 その間に、賢治の童話の原型のほとんどすべてが書かれたといわれています。
 賢治の有名な伝説である「一か月に三千枚の原稿を書いた」という時期も、その間に含まれています。
 賢治は、この大トランクに膨大な原稿をつめて、花巻へ戻ったのです。
 1974年の3月14日に、賢治の生家で、私は大学の宮沢賢治研究会の仲間と一緒に、清六氏から賢治のお話をうかがいました。
 なぜそんな正確な日にちを覚えているかというと、その時に清六氏から賢治が生前唯一出版した童話集である「注文の多い料理店」を復刻した文庫本を署名入りでいただいたからです。
 宮沢賢治研究会の代表をしていた先輩は、どういうつてか当時の賢治研究の第一人者である続橋達雄先生に清六氏を紹介していただき、さらには続橋先生にも事前にお話をうかがってから、みんなで花巻旅行を行ったのです。
 賢治の生家だけでなく、賢治のお墓、宮沢賢治記念館、イギリス海岸、羅須地人協会、花巻温泉郷、花巻ユースホステル(全国の賢治ファンが泊まっていました)などをめぐる濃密な賢治の旅でした。
 私はスキー用具をかついでいって、帰りにみんなと別れて、なぜか同行していた高校時代の友人(宮沢賢治研究会のメンバーではなかった)と、鉛温泉スキー場でスキーまで楽しみました。
 その旅行の前に、代表だった先輩は、「清六氏にあったら賢治先生と言うように」とかたくメンバーに言い含めていましたが、当日はその先輩が真っ先に興奮してしまって、「賢治」、「賢治」と呼び捨てを連発してひやひやしたことが懐かしく思い出されます。
 清六氏は、37歳で夭逝した賢治とは対照的に、2001年に97歳の天寿をまっとうされました。
 その長い生涯を、賢治の遺稿を守り(空襲で生家も焼けましたが、遺稿は清六氏のおかげで焼失を免れました)、世の中に出すことに尽力されました。
 清六氏がいなければ、今のような形で賢治作品が世の中に広まることはなかったでしょう。

兄のトランク (ちくま文庫)
クリエーター情報なし
筑摩書房
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庄野潤三「静物」プールサイド小景・静物所収

2025-01-26 09:42:51 | 参考文献

 1960年6月号の「群像」に掲載されて、同じ年に、この作品を表題とした作品集にまとめられた中編です。
 作品集はその年の新潮社文学賞を受賞していますが、この作品が受賞理由の中心であったことは言うまでもありません。
 この作品は、作者の前期の代表作であるばかりでなく、戦後文学の代表作の一つであると評されています。
 実際の作者の家族をモデルにしたと思われる五人家族(主人公である父親、その細君(こう表記されている理由は後で述べます)と、女、男、男の三人兄弟)の一見平凡に見える日常些細なことを描きながら、それがいかに危うい均衡(あるいは男女としての関係の諦念)の上に成り立っているかが、浮かび上がってくる非常にテクニカルな作品です。
 文庫本にして70ページほどのこの中編は、18の断章から構成されています。
 その大半は、父親を中心にした穏やかな日常風景(部分的には子ども(特に長女)が小さかった頃が回想されます)が描かれています。
 しかし、1、2には、長女が1歳のころに妻が自殺未遂を図ったことがにおわされて、作品全体の通奏低音のように、この一見円満に見える家庭がもろくも崩壊してしまうかもしれない不安感を漂よわせます。
 さらに、3には新婚の時のあどけない女性だった頃の妻の追憶が挿入され、かつて彼らが父親とその細君でなく、愛し合う若い男女だったことが示されます。
 そして、後半になると、14には、娘が幼かった頃のあるクリスマスに、妻が唐突に彼の家の家計としてはかなり高価な贈り物を彼と娘にしたことが思い起こされたり、16には、二番目の子どもが赤ん坊の頃に、階下ですすり泣く妻の声を聞いたことが思い出されたりして、この一見平和な家庭が、いかに彼女の大きな犠牲(一人の独立した女性ではなく、家族の中心としての父親(民主的家父長制と呼べるかも知れません)である彼の「細君」としての役割を果たすことへの諦念といったほうがいいかも知れません)の上に成り立っているかを示しています。
 しかし、その後の作者の家庭小説(「夕べの雲」や「絵合わせ]など)の中では、こうした通奏低音はすっかり姿を消して、完全に父親とその細君(独立した一人の女性でも子どもたちの母親でもなく、あくまでも主人公からの相対的な位置づけなのです)としての役割を引き受けた姿が描かれています。
 こうした作者の作品世界を、「小市民的」と批判するのはたやすいのですが、作者が頑なまでにその姿勢を貫いている間に、世間ではこの民主的「家父長」とでも呼ぶような父親たちが完全に姿を消して、その作品世界は一種の古き佳き昔を懐かしむような読者の共同ノスタルジーに支えられて、一定の読者(私もその一人ですが)を獲得し続け、その老境小説が「いつも同じことを書いている」と揶揄されながらも、なくなる直前まで出版され続けたことにつながっていったものと思われます。


 

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ボブ・グリーン「チーズバーガーズ」

2025-01-24 09:47:43 | 参考文献

 1985年に出版された同名のコラム集から、訳者が選んだ31編を翻訳して、1986年に出版されました。

 その前年に「アメリカン・ビート」というコラム集が紹介されて、当時は日本でも作者のコラムは盛んに読まれていました(私の持っている本は1990年1月20日10刷です)。

 無名の人から有名人(例えば、モハメド・アリやメリル・ストリープなど)までの人生のある面を鮮やかに切り取って、その中に1980年代のアメリカの姿を浮かび上がらせる作者の腕前はさすがのものがあります。

 特に、この本では、1947年生まれの作者が30代の経験とフレッシュさが一番バランスの取れていた時期に書かれたものなので、数ある作者の本の中でも最も優れている作品の一つだと思われます。

 個人的な好みもありますが、有名人や彼自身の知人を書いたものより、全く無関係の無名の人々を書いたコラム(例えば、55歳にして初めてアルファベットを習うところから書くことを学び始めた男を描いた「男の中の男」(その記事を参照してください)や寂しさを紛らわすために自殺した夫が残した飛行機の格安(国内線だったら1フライト4ドルから8ドル)パス(夫がユナイテッド航空の従業員だったため)を使って飛行機を乗り継いでいる女性を描いた「飛行機のなかの他人」や亡くなった母の思い出を語る娘を描いた「母と娘」など)に優れたものが多いと思います。

 

 

 

 

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恩田 陸「蜜蜂と遠雷」

2025-01-21 11:17:08 | 参考文献

 直木賞と本屋大賞を同時に受賞して話題になったエンターテインメント作品です。
 読み始めてすぐに、懐かしい少女マンガの世界(例えば、くらもちふさこの「いつもポケットにショパン」など)だと思いましたが、読み進めていくうちに懐かしい少年マンガの要素も持った、より多くの読者を獲得できる作品だということがわかってきました。
 懐かしい(最近の作品は読んでいないので)少女マンガだと思った理由は、取り上げている素材(国際的なピアノコンクール)や登場人物(主なコンテスタント(コンクールへの参加者)四人のうち三人がタイプの違った天才(全く無名だが世界的な巨匠の最後の弟子で推薦状を持参した16歳の少年、アメリカのジュリアード音楽院を代表する大本命の19歳の青年、母の死とともに音楽界から姿を消したかつての天才少女(年齢は20歳と一番上だが、作者は繰り返し少女と表現して幼さを強調しています))の処理(特に男性陣は、天衣無縫の美少年と、身長188センチのイケメンで、女性読者へのサービス満点です)です。
 一方、懐かしい(一部を除いて最近の作品は読んでいないので)少年マンガだと思った理由は、コンクール出場のオーディション(16歳の無名少年だけ)、本大会の第一次予選、第二次予選、第三次予選、本選と勝ち抜いていく構成が、スポーツ物や戦闘物の少年マンガの形式を踏襲しているからです。
 そのため、この作品ではコンクールでの演奏シーンが非常に多いのですが、純粋な少女マンガファンにはやや退屈に感じられたかもしれません。
 しかし、これこそが少年マンガの大きな特徴で、他の記事にも書きましたが、こうしたマンガでは人気が落ちる(マンガ雑誌は、毎週の人気投票という過酷な手段で、掲載しているそれぞれのマンガの人気をチェックしています)と、試合のシーンや戦闘シーンを増やすそうです。
 これも他の記事にも書きましたが、登場人物の人間性をより深く描いたことで他のスポーツ物と一線を画したと言われる、ちばあきおの「キャプテン」(その記事を参照してください)や「プレイボール」(その記事を参照してください)でさえ、試合のシーンが圧倒的に多いことに驚かされます。
 そういった意味では、コンクールが深まっていくにつれて演奏シーンが盛り上がっていく書き方は、男性読者の方が読みやすかったかもしれません。
 音楽の魅力を文章で描くのは非常に困難な作業なのですが、作者は圧倒的な筆力で強引にねじ伏せてみせます。
 ここに書かれたクラシックの楽曲の解釈が、どれほど音楽的に正しいのかを判断する知識を持ち合わせていませんが、何曲かの知っている曲での表現はそれらしく感じられました。
 また、読んでいて無性にクラシック音楽(特にピアノ曲)が聴きたくなるのは、作品の持っている力でしょう(途中からは実際にバックに流しながら(作品に出てくる楽曲とは限りませんが)読みました)。
 作品の書き方は、典型的なエンターテインメントの書式(偶然の多用(桁外れの天才が三人も同じコンクールに参加する。天才のうち二人は実は幼なじみで、コンクールで奇跡的な再会を果たす。女性の天才は、もう一人の天才ともたびたび偶然出会う。外国人も含めて主な登場人物が全員日本語を話せるなど。)、スパイスとしてのロマンス(コンテスタント同士だけでなく、審査員同士やコンテスタントと取材者まで)、デフォルメされた登場人物設定(三人の天才だけでなく、四人目の主なコンテスタント(28歳の楽器店勤務の既婚男性。このコンクールを記念に音楽活動を退く予定で、そのために社会人生活や家庭生活や経済面もかなり犠牲にして一年以上準備してきた)、審査員や関係者まで)、強引なストーリー展開(三人の天才が上位入賞を果たすのは当然としても、途中敗退した四人目のコンテスタントにも十分に花を持たしている。敵役の有力コンテスタントの意外な敗退など)です。
 他の記事にも繰り返し書きましたが、こうしたことを非難しているのではありません。
 純文学とは書式が違うことを言っているだけです。
 むしろ、二段組み500ページを超える大作を、コモンリーダーと呼ばれる一般の読者に読んでもらうためには、こうしたエンターテインメントの書式は適していると思っています。
 最後に、これも他の記事にも書きましたが、「本屋大賞」は、あまり知られていない「書店員が売りたい本」をより多くの読者に読んでもらうためにスタートしたはずですが、最近はますます「売れる本」の人気投票と化しているようです。
 そのため、小川洋子の「博士の愛した数式」のような芥川賞タイプ(純文学寄り)の作品から、今回のような直木賞受賞作品(エンターテインメント)に、受賞作品が変化しているようで、存在意義が問われるところです。


蜜蜂と遠雷
クリエーター情報なし
幻冬舎
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吉川英治「三国志」

2025-01-19 14:53:25 | 参考文献

 言わずと知れた、古代中国の戦乱時代を描いた歴史ロマンです。
 三国志自体は、中国の三国時代の歴史書なのですが、古来さまざまに脚色された本が流通しています。
 日本でも様々な「三国志」が存在しますが、吉川英治の本が日本での決定版といっていいでしょう。
 また、三国志はマンガや様々なゲームになっていますが、それらも吉川英治版をベースにしています。
 三国志は、劉備、関羽、張飛の義兄弟が序盤の主役ですが、中盤は魏、呉、蜀の三国の成立が描かれ、終盤は劉備の軍師で蜀の丞相になった諸葛亮孔明が主役になります。
 夥しい登場人物の中には、劉備、関羽、張飛、呂布、曹操、司馬懿、周瑜、陸遜などの魅力的なキャラクターが描かれていますが、なんといっても最大のスターは孔明でしょう。
 歴史上天才と呼ばれる人はたくさんいますが、「千年に一人の大才」と言われているのは孔明だけです。
 この本を読んで、かつての私のように、自分は孔明の生まれ代わりだと信じている少年は今でもたくさんいるのではないでしょうか。
 この本は、私にとっては中学高校時代の最大の愛読書でした。
 不思議に、中間テストや期末テストの前になると読みたくなるので、この文庫本で八冊以上にもなる大著を何度読んだかわかりません。
 きっと、試験勉強という現実を逃避して、古代の歴史ロマンの世界に身を置きたかったのでしょう。
 「泣いて馬謖を斬る」とか「死せる孔明、生ける仲達を走らす」といった名文句はいつも心の中にあります。
 今回、久々に電子書籍で読みましたが、少しも古びることがなく著者の格調高い文章で語られる真のエンターテインメントを楽しむことができました。

三国志 (1) (吉川英治歴史時代文庫 33)
クリエーター情報なし
講談社

 

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庄野潤三「夕べの雲」

2025-01-17 08:48:20 | 参考文献

 昭和39年9月から昭和40年1月まで、日本経済新聞に連載され、昭和40年3月に講談社から出版されて、翌年の読売文学賞を受賞した作品です。

 作者の分身である主人公と、その妻、高校生の長姉、中学生の弟、小学生の末弟の五人家族のゆったりした暮らしが、開発(団地)で失われていく周囲の自然(神奈川県の小田急線生田の周辺のようです)への哀惜と共に、作者独特の滋味深い文章(一見、平易に見えますが、一言一言が詩心に裏付けされていて、とても真似できません)で描かれています。

 こうした一見平凡に見える日常を描いた作品を、新聞小説として受け入れる当時の新聞社の度量の大きさに驚かされます。

 もっとも、作者の場合は、その10年前にも、「ザボンの花」(登場する子どもたちが小学生と幼児なので、児童文学とも言えます)が同じ新聞社で連載されて好評だったせいもあるでしょう。

 各章は子どもたちのエピソードが中心ですが、その中に作者の子ども時代や両親や兄弟の思い出も描かれていて、家族の歴史に立体感を与えています。

 

 

 

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柏原兵三「徳山道助の帰郷」柏原兵三作品集1所収

2025-01-09 15:24:09 | 参考文献

 1968年に第58回芥川賞を受賞した作品です。
 柏原は、ドイツ文学の、特に教養小説の研究者なので、この作品にも多分に教養主義的なにおいは感じられますが、彼の特長である平易な文章で書かれているので、今の読者でも読みやすいと思われます。
 母方の祖父で陸軍中将まで上り詰めた人物の評伝を、特に晩年零落してからの最後の帰郷(大分県です)を中心に描いています。
 芥川賞の選評では、軍人であり多くの部下を死なせた責任者である主人公を、最終的には受け入れる形で描いている作者の姿勢を批判する意見もあったようですが、むしろ60年代後半の反戦的雰囲気の中で、こういった作品を一定以上の水準で書き上げた作者は、もっと評価されてもいいのではないのではないでしょうか?
 同じころ、児童文学の世界では、たんに反戦を取り扱っているだけのテーマ主義的な愚にもつかない作品群を高く評価していました。
 世の中のはやりや風潮に流されずに、文学性の高い作品を書くことは、どの時代でも、一般文学でも児童文学でも大切なことですが、現代ではあまりにも軽視されすぎています。

柏原兵三作品集〈第1巻〉 (1973年)
クリエーター情報なし
潮出版社
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ポール・ギャリコ「シャボン玉ピストル大騒動」

2025-01-07 10:46:14 | 参考文献

 1974年に発表された作者の最晩年(77歳の時です)の作品ですが、稀代のストーリーテラーの筆は少しも衰えを見せていません。
 9歳の男の子が、自分で発明したシャボン玉ピストルの特許を取るために、アメリカの西海岸の南のはずれであるサンディエゴから東海岸の首都ワシントンまで、大陸横断バスで向かう最中に、いろいろな事件に遭遇します。
 国防省の大佐、ソ連のスパイ、殺人狂のハイジャック犯、初めてのセックスのために家出した高校生カップル、ベトナム戦争からの帰還兵、イギリスから来た老姉妹などなど、当時の世相を反映した様々な個性豊かな登場人物たちを、ギュッと一台の長距離乗り合いバスの中に押し込め、次々と事件を起こさせます。
 もちろんストーリ展開にかなりご都合主義のところがあるエンターテインメント作品なのですが、その中に、父子の葛藤、年の差を超えた友情、大人の論理と子どもの論理、子どもの時代へのサヨナラなどのモチーフをうまく取り込んでいます。
 また、安易なハッピーエンドではないのに、将来に希望が持てる点も重要な特長です。
 一応、悪役といい役ははっきりしているのですが、あまり単純化しておらず、冷戦真っ只中のソ連側すらアメリカの国防省と同様にユーモラスに描いています。
 中でも、一番すぐれた点は、作者が徹頭徹尾子ども側に立っている点です。
 そういった意味では、この作品は優れた児童文学でもあるのですが、1977年に翻訳された時にあまり児童文学界で話題にならなかったのは、この作品がエンターテインメント作品だったからでしょう。
 日本の児童文学界においてエンターテインメント作品が市民権を得るようになったのは、1978年に発表された那須正幹のズッコケ三人組シリーズが大成功を収めてからでした。
 その後も、1990年代までは、評論の世界ではエンターテインメント作品は軽視されていました。
 逆に、現在の児童文学は、売れるエンターテインメント作品ばかりがもてはやされていて、それはそれで問題なのですが。


シャボン玉ピストル大騒動 (創元推理文庫)
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東京創元社
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竹内洋「教養主義の没落」

2025-01-05 08:57:07 | 参考文献

 大正時代の旧制高校を発祥地として、1970年前後までの半世紀の間、日本の大学に君臨した教養主義は、その後没落して見る影もなくってしまっています(別の記事に書きましたが、朝井リョウの「何者」には教養とは無縁の現代の大学生の様子が良く描かれています)。
 本書における教養主義とは、人格形成や社会改良のための読書によるものとされます。
 私は教養主義が終焉した後の1973年に大学に入学したのですが、そのころでさえ、理系の学生は専門以外の本はほとんど読まず、文系の学生も遊びに忙しくてあまり本を読んでいないことに愕然とした覚えがあります。
 また、そのころにまだ「教養主義」があったとすれば、それは読書だけではなく、名作映画や前衛的な演劇、最新の音楽などによっても培われるようになっていたと思います。
 今は本だけでなくそれらの分野も、商業主義や娯楽主義にとってかわられ、ほとんど「教養主義」は存在しなくなっているようです。
 幅広い教養を身につけるより、就職に有利な実務能力を身につけ、あとは商業ベースの娯楽に身をゆだねるのが、ほとんどの大学生の実態でしょう。
 それは、70年安保の挫折、高度経済成長、大学の大衆化(非エリート化)などが原因と思われます。
 この本では、教養主義の盛衰について、データを多用して詳しく説明されていますが、その社会背景などへの著者の考察が不足していて物足りませんでした。
 さて、この「教養主義」は、児童文学の世界では1990年ごろまでは続いていました。
 「教養主義」の洗礼を受けた大人たちが、創作活動や読書運動などを通して媒介者(子どもたちに本を手渡す人たち)として、「ためになる」本を子どもたちに啓蒙していたからです。
 このことは、「現代児童文学」が1990年代まで続いた要因ともなりました。
 なぜなら、「現代児童文学」は、いわゆる「世界名作児童文学」とならんで、「教養主義」的な要素を含んでいたからです。
 また、この本では、マルクス主義が繰り返し教養主義と並立したり衰退し(弾圧され)たりしている様子が書かれていますが、「現代児童文学」の出発にはマルクス主義の影響が濃厚に関わっていた点も類似しています。
 しかし、1980年ごろに確立された「子ども向けエンターテインメント」ビジネス(1978年にスタートした那須正幹の「ズッコケシリーズ」がその最初の大きな成功でしょう)が、さらに児童文庫の書き下ろしエンターテインメントやライトノベルなどに発展するにつれて、児童文学においても「教養主義」は没落していきます。
 岩波少年文庫などの世界名作や、いわゆる「現代児童文学」の売り上げの低迷がそれを端的に表しています。
 現代では、親(あるいは祖父母でも)の世代ですら、「教養主義」の洗礼を全く受けてない人たちが大半なのですから、子どもたちにそれを伝えることは不可能です。

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)
クリエーター情報なし
中央公論新社
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「「ちびくろサンボ」絶版を考える」径書房編

2025-01-04 08:34:30 | 参考文献

 1989年に、古典的な絵本である「ちびくろサンボ」が黒人を差別していると抗議され、すべての出版社が絶版にした事件の顛末と、この問題を巡る賛否両論を併記した本です。
 「ちびくろサンボ」は、日本だけでも22社49種類も発行されていた人気絵本であり、代表格の岩波書店版だけでも百二十万部以上を売り上げていた大ベストセラーだったのです。
 それがいっせいに書店から姿を消したのですから、大論争になりました。
 批判派のポイントを要約すると、「ちびくろという用語が差別的、サンボをはじめとした登場人物の名前が黒人の蔑称である、原作はインド系黒人を描いていたのにいつのまにか挿絵がアフリカ系黒人に変わりアメリカでの差別を助長した、描かれている黒人の絵が差別的に描かれるときの黒人のステレオタイプを誇張している、イギリスの植民地だったインドに対する白人の作者の優越感が感じられる、描かれている黒人の生活が未開で野蛮な印象を持たせる」などとなります。
 一方、擁護派の意見は、「子どもたちが喜んでいる、子どもたちは読んでも黒人差別など感じていない、自分も子どものころに読んだ時には差別を感じなかった、差別があるからと単純に絶版するのは表現の自由を侵している」などです。
 こうしてみると、反対意見は差別される側の立場に立ち、擁護意見は読者の立場に立っているように思われます。
 ここで私の意見を述べます。
 もう一度見直してみると、「ちびくろサンボ」は明らかに黒人を差別していると思いますし、それに気づかずに読んでいた自分自身にも、黒人に対する優越意識(白人に対するコンプレックスの裏返しとして)があったことを認めざるを得ません。
 しかし、一方で表現や出版の自由や作品の歴史的な価値を考えると、「ちびくろサンボ」をまったく抹殺してしまうことにも反対です。
 黒人差別に無頓着な既存の本の絶版は当然ですが、この作品や「黒人差別」の歴史的背景を十分に解説した文章をつけて、オリジナル版の挿絵と文章の完訳で復活させてはどうかと思います。
 そうすれば、子どもたちは、オリジナルストーリーの優れている点を味わえるとともに、「差別」について考える契機になると思うのですが、いかがでしょう?
 「ちびくろサンボ」の問題が、児童文学界に大きな衝撃を与えたのは、そのビジネス上のインパクトだけではありません。
 現代児童文学の成立に大きく寄与したといわれる、1960年に出版された石井桃子たちの「子どもと文学」において、「児童文学は「おもしろく、はっきりわかりやすく」なければならない」という彼らの主張の実例として、「ちびくろサンボ」を詳しく解説していたからです。
 そのため、「子どもと文学」に影響を受けた児童文学者(他の記事にも書きましたが、私自身も1971年の8月、高校二年の夏休みにこの本を読んで児童文学を志すようになりました)にとって、「ちびくろサンボ」は大きな意味を持っています。
 また、「子どもと文学」は、「ちびくろサンボ」と対比する形で、以下のように主張していました。
「時代によって価値のかわるイデオロギーは――たとえば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが――それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い、幼い子どもたちにとって意味のないことです。」
 この主張に対して、児童文学研究者の石井直人は、「現代児童文学の条件」(「研究 日本の児童文学 4 現代児童文学の可能性」所収、詳しくはその記事を参照してください)という論文において、以下のように批判しています。
「このくだりは、事後、プロレタリア児童文学は「人生経験」の十分でない子どもにとってほんとうに無意味なのか、また、「子どもと文学」が古典的価値をもつ典型とみなした「ちびくろ・サンボ」は人種差別ではないのかといった問題点を指摘された。プロレタリア児童文学は、子どもたちの「人生経験」の場にほかならない生活の過程をこそ思想化しようとしたのではなかったのか、また、イデオロギーではないはずの「古典的価値」が批判されたことは時代の変遷に関わらない思想などありえないことの証ではないかということである。」
 他の記事で書いたように、「子どもと文学」は、カナダのリリアン・H・スミスが1953年に書いた「児童文学論」の影響下にあって、当時の英米の児童文学の価値観を日本に持ち込んだものであり、白人(厳密に言えばアングロサクソン)の思想に基づいているという限界を持っていたのです。
 ただし、「子どもと文学」の出た1960年といえば、アメリカでは公民権運動がまだ勝利しておらず、もちろん南アフリカでのアパルトヘイトも続いていたわけで、当時の石井たちの黒人差別の認識は平均的な日本人の認識より劣っていたわけではないので、この点でも歴史的な背景を理解して批判しないとフェアではないと思います。

『ちびくろサンボ』絶版を考える
クリエーター情報なし
径書房
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