とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

疲労とは何か、体力とは何か 言葉の再定義と日本の悪癖の是正

2018-05-27 09:35:49 | 哲学・社会

疲労(ひろう)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/188821/meaning/m0u/

1 筋肉・神経などが、使いすぎのためにその機能を低下し、本来の働きをなしえなくなる状態。つかれ。「疲労が重なる」「心身ともに疲労する」

2 金属などの材料に、弾性限界より小さい外力であっても繰り返し作用すると、材料の強度が低下する現象。ついには破壊することが多い。弾性疲労。つかれ。「金属疲労」

3 貧しくなること。貧乏。

「―し貧なる者は、眉も伸びず、目をも見開かぬぞ」〈文明本人天眼目抄・一〉



体力(たいりょく)の意味 - goo国語辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/134887/meaning/m0u/

1 労働や運動に耐える身体の力。また、病気に対する抵抗力。「若いだけに体力がある」「体力の限界」「体力測定」

2 (比喩的に)組織が活動するための力。特に、企業の経営において、収益性・生産性・資金力・安定性・成長の可能性などのこと。「会社に体力があるうちに新商品を開発する」


と言うことで、辞書は相変わらずものごとの表面しか表現していない。なので私から補足を行う。

現代社会(特に日本)におけるそれぞれに「疲労」「体力」の社会的な実際の語用としては次のようになる。

まずは「体力」から行こう。

体力とは、日本社会においては、与えられた仕事、遂行すべき仕事に対して、長時間活動し続けることのできる能力、あるいは長時間集中し続けることのできる能力を指す。
辞書の説明には、「長時間の継続的活動」と、「慢性的疲弊に耐えうる能力」と言う具体的観点が抜けている。


少年漫画「機動警察パトレイバー」では、登場人物の南雲隊長が後藤隊長と次の会話をする。

「まったく感心しちゃうわね。」「なにが?」「後藤さんのタフさ加減よ。いつ寝てるの?」「普段。」

と言うことで、後藤さんはいつも普段から寝てるから、事件が連続して発生し、夜の出動が続いても活動できるんだよ、と言う笑いの描写だったが、これが体力があるかないかと言うセリフでも通用するし、むしろ語義的には同一だ。



そして「疲労」とは何かというと、その継続活動するスタミナが目減りし、活動能力が徐々に低下、それに伴って身体的に動かす能動性が失われ、心理的な倦厭感に到達するのが「疲労」の正体である、と私は考えている。


定義は以上だが、それではここから何が導かれるか。

日本語においては、こうした言葉に対する語義が正確に定義されたり議論されていたりすることがないため、認識があいまいなまま社会運用が決定してしまう。
努力と根性ですべてはなんとかなるんだ、と言うような精神論が当然のように背景として存在してしまい、それはあまつさえは、親会社と子会社の間で決められた○人月でいくらもらう、と言う契約をしていたが、それに満たないことが分かり(2007年上期)、誰か一人長時間残業をすればそれを満たせることが分かったので、それをとある人間に振り出す、と言う事態などが平然として発生する。そこに誰も問題意識などを考えない。

ちなみにその仕事においては途中工期が膨れることが分かったが、人数を増やすわけにもいかずに上長は作業者にそのまま頑張れと命令し、作業者がそのままプロジェクトを進めたところ、作業者の残業時間が100時間を超え、作業者が翌月そのまま残業時間を提出したら「ノルマは達成できたんだが、労働の方で問題になるから100時間は超えないようにつけてくれ」と言われたりするのである(2007年9月)。そしてその仕事を振られた人間は、そのプロジェクト終了の翌月から翌々月にかけて8kg体重が減り、言葉がしゃべれなくなったりしたが、組織は何ら責任を負うことはなかった。

これは組織運用の理論的破綻が原因だとは思うのだが、しかしその事業体の中では何ら問題にはなっていないらしい。
そうして潰れた人間に関しては、組織が悪いと言うのではなく、個人の事情として片付けられているようだ。
とにかく個人が悪い、個人が悪い、個人が悪いと、個人による個人的事情にすべてを押し付けているように見える。


辞書に記載のあった「労働や運動に耐える身体の力」では悪用されてしまう。
継続する時間的概念が明確に指摘されていないため、「その瞬間の労働に耐えられるか耐えられないか」で仕事の振り出しが決定してしまう。

「長時間の継続的活動」「慢性的疲弊に耐えうる能力」と言う意味においては、体力と言うものは生物である限り限界が存在する。
子供の頃、バッタを捉えてきて虫かごに入れ、その個体に対して、指でちょっかいを出すと、最初の内はバッタがびっくりしてそこから逃れようとしたりするときには、勢いよくジャンプしているのだが、次第にジャンプの高さが低くなってくる。
これは慣れではない。明確に疲労しているのだ。逃避するだけのスタミナが最初はあったが、その内、燃料が無くなっていく。

無論、人間には無限の体力に近い形態を出すこともあろうが、それには回復を定期的に測った形での体力の行使など、計画性が必要となってくる。今の日本の労働社会がそうした計画性を兼ね備えているとは考えがたい。

スクーターを除く殆どのバイクには、燃料計(ガソリンが燃料タンクにどれくらい残っているかを示すメーター)がついていない。
何km走ったらどれくらいのガソリンが目減りしていて、あと何リットル残っていて、何km走れるかがバイク乗りにはわかるからだ。

しかし企業経営は、配下の兵隊を動かす時にそんなことを微塵も考えないようだ(正確には、おそらく脳細胞の2・3個は動かしているものと思われる)。
この人員を何時間働かせたから、あとどれくらいの体力が残っていて・・・そのようなことを考えない企業は、そのバイクを走行するときにガス欠するはずであるのだが、しかしそうはならない。それはなぜか。

それは、「1.思った以上に構成部品がタフであり、燃料の底をつくギリギリの走行をしている。」「2.バイクはたくさんあるので、どれかガス欠になって、エンジンがダメになって、そのバイクが使えなくなったら、他に乗り換えればいいという思想である」ためである。

現在の日本企業は、働いている人員と、その人生を破壊する。
我々が改善すべきは、まず、「人はどれだけ無計画に働いても大丈夫なんだ」と言う、脳細胞の2・3個働かせた上で出した結論をやめ、きちんと理論的に、計画的に動かすべきという話なのである。
コメント
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