とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

女性の悩みは具体的解決策を示さなくても良い

2018-05-13 20:52:06 | 雑感
女性の悩みは具体的解決策を示さなくても良い、と言うのを聞く。

もうかなり昔の話しになるが、cx系のテレビで「おそく起きた朝は…」と言うTV番組があった。

松居直美、森尾由美、磯野貴理子の三人がすごくいい感じのゆるいトークをやっていて、失礼な話しだが、一番左によく知らない感じのいいおっちゃんが座っていて、放映する日曜の午前中のまったりした時間をいい雰囲気に変えていたと思う。

そんな時、主婦の視聴者からの相談のハガキが番組内で読み上げられた。

「旦那が帰宅後、洗濯カゴに靴下を入れる時、いくら注意しても裏返しにして入れるんです。私はいつも怒りながらそれを裏返して元通りにします。どうすればいいんでしょうか。」と言う。

それを聞いた磯野貴理子さんが、「それは放っておけば二回目の選択の時にもとに戻るんだよ! 」と言って笑い話に変えていた。
が、その相談コーナーはそれで終了。

ん? 旦那を説得するとかそんなんじゃなくって、悩みを聞いて笑ってあげればよかったのか? 

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笑顔の行方

2018-05-13 20:15:15 | 会社での出来事
今仕事で悩んでいるのが、私が全く笑わないことだ。
面白い冗談を言うことはできるかもしれないが、コミュニケーションを円滑にするための手段として笑うことができないのは、そうした笑顔をつくるのにエネルギーが必要で、目に見えて体力が削れるのである(本当に)。

だから、周囲の人には笑顔をしないので無愛想な人だな、だとか扱いづらい人だな、と思われてしまっているかもしれない。
だがこれは仕方がない。私をそういうところに追い込んだ○○と言う会社組織と当時私の先輩であったSさんが悪い。

2006年4月から2008年5月までは、私はハキハキしていて笑顔を振りまく人間だったが、とある事件が起きて以降は全く笑わなくなった。
文章づらでは面白いことは書けるかもしれないが、普通の会話がもう全然ダメなのである。

フランス発リュック・ベッソン監督作品の映画「ニキータ」と言うものがある。
麻薬中毒の少年少女達の薬局襲撃と警官の制圧で一人生き残った少女が、政府の暗殺者として人生を再会する。
最初、「ニキータ」と呼ばれる少女は、笑顔の練習をする。だがなかなかできない。
中毒生活が長かったため、笑顔を普通に作れる人生を送ってこなかったことが原因だ。

私はこの映画を見た当時は「笑顔だなんてぱっとできるもんじゃないか」と半ば呆れて「リアル感がない」と見ていた。

こんなことを書いて「お前はそんな風にして被害者づらをするもんじゃない」と言われるかもしれないが、私の心情を素直に書くと、私の今の状況はニキータに似ていると思う。
笑顔はできないことはないのだが、本当に自分の体力が削れることを感じる。だから省エネのため、できるだけ笑顔を作らない。

もし仮に作ったところで、仕事が円滑にうまくいき、ろくろが高速に回転し出しても、そのさきにあるのは破滅と破綻だということは目に見えている。
2006年4月から2008年5月の間に何が起こっていたか? 
仕事をこれでもかと献身して頑張っていたが、ついぞどこからも認められることがなく、体力的限界を迎えた。

親会社に当たる会社の上長Oさんと面談した時に、体力的にボロボロになって仕事を積極的に引き受けなかった私をして、Oさんは「○○(私の名前)、仕事から逃げるな」と注意した。
ただ、そのとき、当時の事情を話して「これだけのことをやったのに全然認められない」と言ったところ、Oさんは「○○(私の名前)」と一言私に超えをかけたあと、「□□(当時の会社組織の略称)は悪くないよな? 」と言って逃げた。

「崖に向かって車を走らせ、先に車から脱出した方が負け」と言うチキンレースがある。
要は度胸試しなのだが、笑顔を作って仕事に邁進する、と言うのはこれに似ている。

一番最後まで行き着くところまで行くと、人生の破綻や破滅を招く。
私は幸いにして、人生の全壊ではなく、半壊程度で済んでいたのだが、笑顔を作って仕事に邁進すれば、今度こそ人生の全壊を招くだろう。

だから私は笑わない。
そして「そんな風にして被害者を気取るんじゃないよ」と言う人がいて、しかもそれが、私の破滅を招いた会社組織の人員だったとしよう。
そうすると、私にはその人が人生を半壊、ないしは全壊するような事態になっても、手を差し伸べる義務は無いように思う。
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マイナスがないと言う資産、マイナスがないと言う価値とインフラ

2018-05-13 14:38:52 | 哲学・社会
ローマ街道はまっすぐで平坦だ。それはなぜ? 
それは社会インフラを構築する上で、その必要があったからである。

下手に緩やかな坂道があればそれだけで手引き車などは疲れる。
道が開けていれば強盗の心配もない。
ローマ兵は土木工事要員でもあったので、必要があれば、せっせとそれを作った。
道路を作る場所に木の根っこがあればそれを掘り起こして石を敷き、道路を通す行き先に山があればそれを切り崩して、極力まっすぐで平坦な道にした。

こうして道路をまっすぐ平坦に整備すると言うかなり地味な作業を行い続けた結果、社会内部での流通がよくなり、人体で言う動脈が太くなり、血流がまわった結果、ローマは未曾有の繁栄を手にすることになる。
(それを逆手に、ハンニバルに攻め込まれてしまう要因ともなったが、しかしその多大なデメリットがあっても、流通網が存在するという圧倒的メリットは帝政後半まで変化しなかった。)

この時の本質は、流通は国家の繁栄につながるということである。
それはマイナス要因、つまり流通の中の勾配がなくなって輸送コストが低減したのと、輸送中の安全性が確保されたことにあろう。

センメルヴェイスが手洗い慣行を提唱する前まで、世界の病院では手を洗うことをしなかった。
よって感染症が広がっていったわけだが、手洗いをすることにより、それが激減した。
つまりウィルス感染という日常的コストを低減したのである。

現在、難民受け入れ、移民導入において、経済規模を維持することを世界各国は画策しているが、それは正しい選択だろうか? 
「移民を入れると治安が悪化する」「いや、数字上はたいしたことがない」と移民問題についてはまだ議論が盛んだ。
私は移民反対派なのだが、治安の悪化が多少とも起こるのであれば、それは防いでおいた方がいいというスタンスなのである。
「「マイナスがないという資産」がある」と言うことは多大なメリットなのだ。

移民を入れないと何が困るか? と言うと、経済規模が維持できないと言うことなのだが、しかしそれは総合的なGDPなのであって国民一人あたりのGDPが維持できるか、あるいは高くなるのか、というとそこには影響がない(イギリス・ドイツ・フランスの米ドル換算のGDPを見てみよう)。
各国、2007年のピークの後に2009年まで急落し、2014年まで2009年と同じレベルまで上昇、2016年まで反落、と言うパターンになっている。
移民導入による効果が認められるのであれば、これが右肩上がりの上昇を続けなければならないが、各国現状を維持したまま膠着している。

これは様々な意見があり、議論が必要だが、人口規模を維持することによってGDPを維持する、と言うのであれば、移民導入以外にも方策はある。

例えば、人口が減ることによって洗剤が売れない、テレビが売れない、スマホが売れない、と言うのであれば、「人口が増えている国に行ってそれを売ればいい」と言うことになる。
勿論、国ごとによって物価は全く異なるから、安易にこの選択は採れないが、ある程度の物価を見込め、人口が増えている国と言うのは探せば存在するし、市場規模もある程度まで見込める。

ここでメリットを享受できないのは地域密着型の例えば電力会社などになるが、日本の加工貿易体制を考えれば、結果的には輸出を推し進めれば良い。
特に欧州では食器用洗剤は洗わずに拭くだけという思想のために商品を変更せねばならないが、衣類用洗剤においてはまず洗剤粉末をお湯に溶かす必要があり、日本の「水だけでいい」という利便性がない。ここに商機がないだろうか。

あるいは環境対策を全面に出してもいい。
ゴミの流れる川からゴミを改修し、天日干しにした後、焼却する。
ゴミを川に流さないという教育と社会体制の整備、罰則を伴う法整備、(あと警官の賄賂禁止もできれば・・・)をする、と言うのだけでも全く異なる方式ができるだろう。

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資本主義に関するメモ

2018-05-13 09:07:28 | 貨幣・財政・会計・経済
メモ。
資本主義とは何か。

私が考えるに、私有財産を制限なく増殖させることを社会的に肯定した思想と、その社会体制のことであろうと考えている。
この場合、様々な派生する社会形態が、自然発生的にかつ、歴史的に累積した総体が資本主義である、とも言えよう。

この体制は、社会における商業体制、銀行体制のちょっと進んだ形からスタートし、次第に工業を巻き込み、経営手法を巻き込み、社会体制を巻き込み、科学・技術を巻き込み、学術と大学を巻き込んで、現在は情報産業とMBAを巻き込んでいる。

それまで商業における経営選択としては、「今までこうであったから、そのフィードバックとして今度はこうしよう」と言う過去志向であったものから、「将来的にはこうなるから、それを踏まえて先はこうしよう」と言う未来志向へ変化した。


「資本主義の世界史」(ミシェル・ボー)を読んでいる。
資本主義の総体と本質を追うために読んでいるのだが、少し失望している。

この本の前文においては、本当に大変な労力が必要になるほど機知に富んだ文章があったが、それではいざ本文を読み進めようとすると、中世欧州のことから記載しはじめている。

元々著者のミシェル・ボーはフランス人なので、フランス史観中心になってしまうのは仕方のないことなのかもしれないが、人類社会を通観するに当って、可能であればイタリアのジェノバ、あるいはデンマーク、あるいは私有財産の認められていたギリシャ・アテネから言及すべきなのではないか。あるいはその対比として、私有財産は無かったが、会計が始まった原初としてメソポタミアの小麦決済まで遡るべきなのではないか。

コメント (1)
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政策現実論 社会においては完全理論ではなく、場合によっては”中途半端”を部分選択的に採用した方が良い。

2018-05-13 08:55:21 | 哲学・社会
社会においては完全理論ではなく、場合によっては”中途半端”を部分選択的に採用した方が良い。
どういうことかを解説する。

現代社会とは何かと言うと、その解の一つとしては、歴史が継続してきた系譜の最新の状態である。
それでは歴史は何かと言うと、政治決定の累積である。
それでは更に深く掘り下げて、政治とは何かと言うと、社会集団の恣意的決定であある。

しつこいようだが続ける。
更に更に深く掘り下げて、社会集団の恣意的決定は何によってなされるか? 

答えは思想である。
例えば資本主義をベースに政治決定がなされたり、あるいは共産主義、もっと小さく言えば、その土地の風土やイデオロギーが何を許容し、何を志向するのかというのは、その地に住まう人の、集団が乗る船の航路を決定する、その船の船長たる代表者における思想であった。

移民や難民を迎え入れようと言うのも理念的・正義的な思想をベースとした政治決定である。
常温核融合の研究をし、肯定し、それを取り入れようというのは、先進的志向をベースとした政治決定である。
計画経済ではなく自由市場に任せよう、資本利益を肯定するため派遣を許容しよう(その代わり基礎国力は純減する)、etcetc・・・・

無論、普通の航海と異なり、民主主義社会という船においては、船長を選出するのは船員や乗客である。
よって、船員や乗客はきちんとそれなりに勉強していなければならないし、船長に立候補した人間の採ろうとしている決定が正しいかどうかを検査しなければならない。

この船長の採る航路、即ち制作決定は、未来にかけてどういうことをすべきか、と言う、頭の中で理解しうる理念を現出させるため(もっとも、官僚が提案したものを採択する形になると思うが)、その理念や理論は極端なものになりやすい。

過去には行き過ぎた資本主義は、アメリカにおいて労働者を困窮させてフーバーヒルを生み出したり、一方、行き過ぎた共産主義は、旧ソにおいて流通しない腐敗してパンパンになった牛乳パックを店頭に並べては倉庫に出すと言う、社会的には何も生み出さないノルマ作業に追われた。
銃は身を護る手段だろうと銃の所持を認めてきたアメリカでは銃の社会問題化が収まらない。旧ソでパンを無料支給したところ、しばらくしたらパンを使って靴を拭いたり、サッカーボール代わりにして子どもたちが遊び始めた。
はたまた、戦前の日本の時代における対米交戦における国家戦略失敗、精神論、北朝鮮における到達不可能なノルマの設定、中国におけるインフラ維持の失敗、治安形成の失敗・・・

元々、人間社会がこうした失敗を内包してしまうのはなぜなのかを考えれば、人間は完全に到達することがないからである。
完全とはいろいろな意味が付与されると思うが、私が考えるに、完全とは「人間が考える理念の実現のこと」だと思っている。
理念は現実にして”完全に”投影できない。よって欠損がどこかに生まれる。

しかし、人間社会は完全をなし得なくとも、完全に向かって歩いていくことができる。そして我々はそうすべきなのだ。
それはどうやって? よくある回答としては「歴史を学ぶこと」になるのだが、ここではもう少し具体的な方法を提案しておきたい。

それは部分選択的に、期限付きで実験することである。


日常の風景を見てみよう。

スーパーに行って買い物をする時、そのレジ会計ではここ30年で労務とスピードにおける効率化の一途を辿った。
大昔はレジなどはなく店員が商品の価格を覚えていて、それの対価を客に請求していた。
その次の時代にレジスターが登場し、店員は品物に貼ってある値札を見て、価格を手打ちし、その後に総合計の支払い会計をしていた。
その次の時代は、バーコードが登場し、店員はバーコード読み取りになり、自動で計算された総合計の金額を支払いしていた(つり計算は店員)。
その次の時代は、バーコードはそのまま、総合計の金額の会計時の釣り計算が自動化となった。

ここまではいい。その次に登場したのは、バーコード読み取りと支払いを全て客にやらせるセルフレジ形式である。
(その次にあるのは、会計すらも存在しないAmazonGoであるが、ここでは深く言及しない。しばらくしたら本稿で再登場します)。


さてこのセルフレジ形式であるが、セルフレジメーカーによっては撤退するところも出てきている。それはなぜか。
私の個人的意見の類推となるが、恐らくは客側の”ズル”即ちバーコードを通さないで会計してしまう形式の万引きが増えて損害が出たからなのではないか、と考えている。
スーパーの地域店でも、一旦セルフレジを採用したものの、そのあとに無くすところも出てき始めた。

それではそれらのメーカー、スーパーはその次に何を選択したのか? 
答えは「セミセルフレジ」である。

バーコード読み取りには店員がやり、会計は機械と客で行うと言う部分選択的な自動化を行って、それが次第に普及し始めつつある。

デカルトは、「困難は分割せよ」と言った。これは社会解決を図るための基本セオリーだ。
この場合は、問題が発生する箇所(会計品のごまかし)と会計そのものを分割し、信頼がおける場所には客に任せると言うスタイルである。

AmazonGOはどうだろう? そう、会計品の計算と会計が自動化になった。そこは全て信頼ある形で決済できるからだろう。


現代社会の問題を解決したり、あるいは社会利便性を高めるときには、私個人が考えるに、2つのアプローチがあると思われる。

一つは、その課題の中で内在する部品を、要素ごとに分類・分割し、それぞれ個別対応で適切に対処していくことだ。
単一の理念の中で、一括して複数の部品を対応させようとするからおかしくなる。ならば異なる部品ごとに対応を分ければいい。

もう一つは、実験として、部分選択的に社会に適用することである。
広島や名古屋で行われるテスト商品の先行発売のようなものだ。上手くいけば全国で売り、上手く行かなければそこで商品開発と販売をやめる。
一部の部分適用をテストし、上手く行けば拡大適用、上手く行かなければ停止、と言う手段だ。

これは政策に利用できる。これは現行の法制にもよく使われるところだろう。
例えば保守系であれば思い切った決断はなかなかできないものだ。
一旦決まった法案が失策とわかったならば、「その責任をどう取るのだ」だとかの追求をされやすく、進退問題にもつながりやすい。
しかし、「法案を十分検討した上で、試験的に○ヶ月運用し、上手く行けば継続、いかなければ停止」と言う期限付き更新付きの政策にすれば、ハードルは低くなる。

政治もコントロールしやすくなるし、民意も反映しやすい。

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