社会においては完全理論ではなく、場合によっては”中途半端”を部分選択的に採用した方が良い。
どういうことかを解説する。
現代社会とは何かと言うと、その解の一つとしては、歴史が継続してきた系譜の最新の状態である。
それでは歴史は何かと言うと、政治決定の累積である。
それでは更に深く掘り下げて、政治とは何かと言うと、社会集団の恣意的決定であある。
しつこいようだが続ける。
更に更に深く掘り下げて、社会集団の恣意的決定は何によってなされるか?
答えは思想である。
例えば資本主義をベースに政治決定がなされたり、あるいは共産主義、もっと小さく言えば、その土地の風土やイデオロギーが何を許容し、何を志向するのかというのは、その地に住まう人の、集団が乗る船の航路を決定する、その船の船長たる代表者における思想であった。
移民や難民を迎え入れようと言うのも理念的・正義的な思想をベースとした政治決定である。
常温核融合の研究をし、肯定し、それを取り入れようというのは、先進的志向をベースとした政治決定である。
計画経済ではなく自由市場に任せよう、資本利益を肯定するため派遣を許容しよう(その代わり基礎国力は純減する)、etcetc・・・・
無論、普通の航海と異なり、民主主義社会という船においては、船長を選出するのは船員や乗客である。
よって、船員や乗客はきちんとそれなりに勉強していなければならないし、船長に立候補した人間の採ろうとしている決定が正しいかどうかを検査しなければならない。
この船長の採る航路、即ち制作決定は、未来にかけてどういうことをすべきか、と言う、頭の中で理解しうる理念を現出させるため(もっとも、官僚が提案したものを採択する形になると思うが)、その理念や理論は極端なものになりやすい。
過去には行き過ぎた資本主義は、アメリカにおいて労働者を困窮させてフーバーヒルを生み出したり、一方、行き過ぎた共産主義は、旧ソにおいて流通しない腐敗してパンパンになった牛乳パックを店頭に並べては倉庫に出すと言う、社会的には何も生み出さないノルマ作業に追われた。
銃は身を護る手段だろうと銃の所持を認めてきたアメリカでは銃の社会問題化が収まらない。旧ソでパンを無料支給したところ、しばらくしたらパンを使って靴を拭いたり、サッカーボール代わりにして子どもたちが遊び始めた。
はたまた、戦前の日本の時代における対米交戦における国家戦略失敗、精神論、北朝鮮における到達不可能なノルマの設定、中国におけるインフラ維持の失敗、治安形成の失敗・・・
元々、人間社会がこうした失敗を内包してしまうのはなぜなのかを考えれば、人間は完全に到達することがないからである。
完全とはいろいろな意味が付与されると思うが、私が考えるに、完全とは「人間が考える理念の実現のこと」だと思っている。
理念は現実にして”完全に”投影できない。よって欠損がどこかに生まれる。
しかし、人間社会は完全をなし得なくとも、完全に向かって歩いていくことができる。そして我々はそうすべきなのだ。
それはどうやって? よくある回答としては「歴史を学ぶこと」になるのだが、ここではもう少し具体的な方法を提案しておきたい。
それは部分選択的に、期限付きで実験することである。
日常の風景を見てみよう。
スーパーに行って買い物をする時、そのレジ会計ではここ30年で労務とスピードにおける効率化の一途を辿った。
大昔はレジなどはなく店員が商品の価格を覚えていて、それの対価を客に請求していた。
その次の時代にレジスターが登場し、店員は品物に貼ってある値札を見て、価格を手打ちし、その後に総合計の支払い会計をしていた。
その次の時代は、バーコードが登場し、店員はバーコード読み取りになり、自動で計算された総合計の金額を支払いしていた(つり計算は店員)。
その次の時代は、バーコードはそのまま、総合計の金額の会計時の釣り計算が自動化となった。
ここまではいい。その次に登場したのは、バーコード読み取りと支払いを全て客にやらせるセルフレジ形式である。
(その次にあるのは、会計すらも存在しないAmazonGoであるが、ここでは深く言及しない。しばらくしたら本稿で再登場します)。
さてこのセルフレジ形式であるが、セルフレジメーカーによっては撤退するところも出てきている。それはなぜか。
私の個人的意見の類推となるが、恐らくは客側の”ズル”即ちバーコードを通さないで会計してしまう形式の万引きが増えて損害が出たからなのではないか、と考えている。
スーパーの地域店でも、一旦セルフレジを採用したものの、そのあとに無くすところも出てき始めた。
それではそれらのメーカー、スーパーはその次に何を選択したのか?
答えは「セミセルフレジ」である。
バーコード読み取りには店員がやり、会計は機械と客で行うと言う部分選択的な自動化を行って、それが次第に普及し始めつつある。
デカルトは、「困難は分割せよ」と言った。これは社会解決を図るための基本セオリーだ。
この場合は、問題が発生する箇所(会計品のごまかし)と会計そのものを分割し、信頼がおける場所には客に任せると言うスタイルである。
AmazonGOはどうだろう? そう、会計品の計算と会計が自動化になった。そこは全て信頼ある形で決済できるからだろう。
現代社会の問題を解決したり、あるいは社会利便性を高めるときには、私個人が考えるに、2つのアプローチがあると思われる。
一つは、その課題の中で内在する部品を、要素ごとに分類・分割し、それぞれ個別対応で適切に対処していくことだ。
単一の理念の中で、一括して複数の部品を対応させようとするからおかしくなる。ならば異なる部品ごとに対応を分ければいい。
もう一つは、実験として、部分選択的に社会に適用することである。
広島や名古屋で行われるテスト商品の先行発売のようなものだ。上手くいけば全国で売り、上手く行かなければそこで商品開発と販売をやめる。
一部の部分適用をテストし、上手く行けば拡大適用、上手く行かなければ停止、と言う手段だ。
これは政策に利用できる。これは現行の法制にもよく使われるところだろう。
例えば保守系であれば思い切った決断はなかなかできないものだ。
一旦決まった法案が失策とわかったならば、「その責任をどう取るのだ」だとかの追求をされやすく、進退問題にもつながりやすい。
しかし、「法案を十分検討した上で、試験的に○ヶ月運用し、上手く行けば継続、いかなければ停止」と言う期限付き更新付きの政策にすれば、ハードルは低くなる。
政治もコントロールしやすくなるし、民意も反映しやすい。
どういうことかを解説する。
現代社会とは何かと言うと、その解の一つとしては、歴史が継続してきた系譜の最新の状態である。
それでは歴史は何かと言うと、政治決定の累積である。
それでは更に深く掘り下げて、政治とは何かと言うと、社会集団の恣意的決定であある。
しつこいようだが続ける。
更に更に深く掘り下げて、社会集団の恣意的決定は何によってなされるか?
答えは思想である。
例えば資本主義をベースに政治決定がなされたり、あるいは共産主義、もっと小さく言えば、その土地の風土やイデオロギーが何を許容し、何を志向するのかというのは、その地に住まう人の、集団が乗る船の航路を決定する、その船の船長たる代表者における思想であった。
移民や難民を迎え入れようと言うのも理念的・正義的な思想をベースとした政治決定である。
常温核融合の研究をし、肯定し、それを取り入れようというのは、先進的志向をベースとした政治決定である。
計画経済ではなく自由市場に任せよう、資本利益を肯定するため派遣を許容しよう(その代わり基礎国力は純減する)、etcetc・・・・
無論、普通の航海と異なり、民主主義社会という船においては、船長を選出するのは船員や乗客である。
よって、船員や乗客はきちんとそれなりに勉強していなければならないし、船長に立候補した人間の採ろうとしている決定が正しいかどうかを検査しなければならない。
この船長の採る航路、即ち制作決定は、未来にかけてどういうことをすべきか、と言う、頭の中で理解しうる理念を現出させるため(もっとも、官僚が提案したものを採択する形になると思うが)、その理念や理論は極端なものになりやすい。
過去には行き過ぎた資本主義は、アメリカにおいて労働者を困窮させてフーバーヒルを生み出したり、一方、行き過ぎた共産主義は、旧ソにおいて流通しない腐敗してパンパンになった牛乳パックを店頭に並べては倉庫に出すと言う、社会的には何も生み出さないノルマ作業に追われた。
銃は身を護る手段だろうと銃の所持を認めてきたアメリカでは銃の社会問題化が収まらない。旧ソでパンを無料支給したところ、しばらくしたらパンを使って靴を拭いたり、サッカーボール代わりにして子どもたちが遊び始めた。
はたまた、戦前の日本の時代における対米交戦における国家戦略失敗、精神論、北朝鮮における到達不可能なノルマの設定、中国におけるインフラ維持の失敗、治安形成の失敗・・・
元々、人間社会がこうした失敗を内包してしまうのはなぜなのかを考えれば、人間は完全に到達することがないからである。
完全とはいろいろな意味が付与されると思うが、私が考えるに、完全とは「人間が考える理念の実現のこと」だと思っている。
理念は現実にして”完全に”投影できない。よって欠損がどこかに生まれる。
しかし、人間社会は完全をなし得なくとも、完全に向かって歩いていくことができる。そして我々はそうすべきなのだ。
それはどうやって? よくある回答としては「歴史を学ぶこと」になるのだが、ここではもう少し具体的な方法を提案しておきたい。
それは部分選択的に、期限付きで実験することである。
日常の風景を見てみよう。
スーパーに行って買い物をする時、そのレジ会計ではここ30年で労務とスピードにおける効率化の一途を辿った。
大昔はレジなどはなく店員が商品の価格を覚えていて、それの対価を客に請求していた。
その次の時代にレジスターが登場し、店員は品物に貼ってある値札を見て、価格を手打ちし、その後に総合計の支払い会計をしていた。
その次の時代は、バーコードが登場し、店員はバーコード読み取りになり、自動で計算された総合計の金額を支払いしていた(つり計算は店員)。
その次の時代は、バーコードはそのまま、総合計の金額の会計時の釣り計算が自動化となった。
ここまではいい。その次に登場したのは、バーコード読み取りと支払いを全て客にやらせるセルフレジ形式である。
(その次にあるのは、会計すらも存在しないAmazonGoであるが、ここでは深く言及しない。しばらくしたら本稿で再登場します)。
さてこのセルフレジ形式であるが、セルフレジメーカーによっては撤退するところも出てきている。それはなぜか。
私の個人的意見の類推となるが、恐らくは客側の”ズル”即ちバーコードを通さないで会計してしまう形式の万引きが増えて損害が出たからなのではないか、と考えている。
スーパーの地域店でも、一旦セルフレジを採用したものの、そのあとに無くすところも出てき始めた。
それではそれらのメーカー、スーパーはその次に何を選択したのか?
答えは「セミセルフレジ」である。
バーコード読み取りには店員がやり、会計は機械と客で行うと言う部分選択的な自動化を行って、それが次第に普及し始めつつある。
デカルトは、「困難は分割せよ」と言った。これは社会解決を図るための基本セオリーだ。
この場合は、問題が発生する箇所(会計品のごまかし)と会計そのものを分割し、信頼がおける場所には客に任せると言うスタイルである。
AmazonGOはどうだろう? そう、会計品の計算と会計が自動化になった。そこは全て信頼ある形で決済できるからだろう。
現代社会の問題を解決したり、あるいは社会利便性を高めるときには、私個人が考えるに、2つのアプローチがあると思われる。
一つは、その課題の中で内在する部品を、要素ごとに分類・分割し、それぞれ個別対応で適切に対処していくことだ。
単一の理念の中で、一括して複数の部品を対応させようとするからおかしくなる。ならば異なる部品ごとに対応を分ければいい。
もう一つは、実験として、部分選択的に社会に適用することである。
広島や名古屋で行われるテスト商品の先行発売のようなものだ。上手くいけば全国で売り、上手く行かなければそこで商品開発と販売をやめる。
一部の部分適用をテストし、上手く行けば拡大適用、上手く行かなければ停止、と言う手段だ。
これは政策に利用できる。これは現行の法制にもよく使われるところだろう。
例えば保守系であれば思い切った決断はなかなかできないものだ。
一旦決まった法案が失策とわかったならば、「その責任をどう取るのだ」だとかの追求をされやすく、進退問題にもつながりやすい。
しかし、「法案を十分検討した上で、試験的に○ヶ月運用し、上手く行けば継続、いかなければ停止」と言う期限付き更新付きの政策にすれば、ハードルは低くなる。
政治もコントロールしやすくなるし、民意も反映しやすい。
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