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別冊宝島「日朝古代史・嘘の起源」室谷克実氏監修・・古代東アジア世界を捉えなおそう

2017-05-25 | アジア



朝鮮半島の歴史を学びたく思い、いろいろな本を見ています。今回は、前回と同じ室谷克実氏が監修された「別冊宝島「日朝古代史・嘘の起源」」という本の中にある、室谷氏と長浜浩明氏の対談です。

長浜氏は「渡来人が大挙して日本にやってきて、現代日本人の祖先となり、日本文化の原型をつくった」という定説を否定する研究者でいらっしゃいます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

        *****

       (引用ここから)

特別対談「日朝古代史の定説は覆っている」


〇長浜

わたしの著書を読んだ考古学関係の方から、

「平城の考古学博物館で、「縄文土器」を見たことがある。韓国の国立博物館にも、「縄文土器」が陳列されていた。「九州の「縄文土器」と類似している」と書かれていました」

という手紙をもらったことがあります。

その方は、なぜ朝鮮半島から「縄文土器」が出るのか疑問に思っていたけれど、私の本を読んで納得した、と言ってくださいました。


●室谷

考古学者も、朝鮮半島から「日本の土器」が出ることは認識しているようですが、定説が覆るので、「日本人が朝鮮半島に進出していた」とは、口が裂けても言えないのですね(笑)。


〇長浜

考古学的に見ると、朝鮮半島には、旧石器時代の遺跡は50点~60点しかありません。

日本は10000点以上で、桁が違います。

紀元前10000年から5000年間は、半島は無遺跡時代であり、半島からほとんど人がいなくなっていました。

ところが無遺跡時代の直後から、半島各地で「縄文土器」が出土し始めます。

このことから、日本から半島へ縄文人が移り住んでいった、と考えられます。

そう理解せざるをえない。 


●室谷 

そうですね。しかし、定説はそうではない。

誰のために「日本人と日本文化のルーツを朝鮮半島とする定説」を守っているのかわからない。
おかしな伝統です。 



〇長浜 

今の直接の韓国人の祖先は、紀元前2000年頃に半島に移り住んできたと考えられます。

これは韓国の学者も言っています。 


●室谷

朝鮮半島には、後に「扶余系民族」も南下して来ますからね。

つまりその頃、朝鮮半島には韓国人の直接の祖先はいなかったと認めているわけですね? 


〇長浜 

そうです。さらに釜山にある「東三洞貝塚」からは、「縄文土器」と「黒曜石」もみつかっています。

これは佐賀県の腰岳山のものでした。

韓国は当時、彼らの言う「櫛文(せつもん)土器」の時代でしたから、みつかった縄文土器は、明らかに九州から運ばれたものでしょう。


●室谷 

邪馬台国の時代は、朝鮮半島の南部は「倭」が支配していました。

「魏志倭人伝」には「倭にいたるには・・その北岸狗邪韓国に至るまで7千里」とあり、〝その″は、明らかに「倭」を指している。

つまり「倭の北岸にある狗邪韓国」と読むのが素直な読み方だと思うのですが、歴史学者はそうは読まない。 


〇長浜 

縄文時代からの状況と考えあわせれば、3世紀の中国人が「狗邪韓国」を「倭」が支配している国と認識していたのは間違いないと思います。

朝鮮の正史「三国史記」には、「辰韓の習俗は「倭」に近く、ときどき文身(入れ墨)する者がいる」と書かれています。

出土品から半島南部と九州の文化が共通していること、DNA鑑定ではほぼ同じ型を持っていることもわかっています。 


●室谷 

日朝の文化交流という以上に、日本から進出している度合いが大きいのですね。



〇長浜 

ところで、韓国から「前方後円墳」が出土しています。

韓国では、当初は「ほら見ろ、日本の古墳は韓国由来だ」として、はにわなども博物館に陳列していたのです。

ところが、日本の3世紀のものより時代が下がった5~6世紀のものと分かって、撤去してしまいました。 


●室谷 

さらには「前方後円墳」を、ブルドーザーで削って円墳にしてしまった。

韓国の歴史学者は、ブルドーザーも運転できないといけない(笑) 


〇長浜 

今でもどんどん壊しています。
 

●室谷 

新羅の第4代王・「脱解(タレ)」は倭種(日本系)でしたね? 


〇長浜 

朝鮮の正史「三国史記」には、「脱解(タレ)が倭国の東北1千里から来た」と書かれています。

わたしは「邪馬台国・北部九州説」ですから、「脱解(タレ)」は但馬のあたりから新羅へ漂着した、と考えています。 


●室谷

新羅の倭種(日本系)の王権は、「脱解(タレ)」一人では終わっていません。

第9代から第12代、第14代から第16代の王は、「脱解(タレ)」の子孫ですね。


縄文・弥生時代の話に戻りますが、最近まで九州で人骨が出ると、

「朝鮮半島南部の骨と似ている。やはり渡来人は来ていた」という話になっていた。 


〇長浜 

マスメディアまでも加担して作られた既成概念は、なかなか打ち崩せないですね。

釜山近郊の「礼安里古墳群」から、4~7世紀の人骨が発見されました。

この人骨の形態人類学的な分析の結果、現在の韓国人とは全く違う数値が出ました。

むしろ同時代の北部九州、山口地方に近いものだったんです。

このことからも、日本人の半島進出が裏付けられると思います。
 


●室谷 

長浜さんは、「稲作」について、考古学者と論争したそうですね? 


〇長浜 

稲の伝来について、論争しました。

定説では、「中国南部で始まった水稲耕作が、朝鮮半島を経由して日本に伝来した」ことになっています。

ところが稲づくりには、畑作もある。

考古学者は、水田がなければ稲が作れないと思っています。

「縄文人」が畑作または焼き畑で稲を作っていたことを、植物遺伝学者の佐藤洋一郎氏らが主張しておられます。 

●室谷
 
歴史学者では、分子生物学を認めない人もいますが。。 


〇長浜 

論拠は、分子生物学的成果だけではありません。

稲には、ガラス質でおおわれた、特有の形をした細胞があります。

プラントオパールと呼ばれるこの物質は強靭で、稲が腐食しても焼かれても残留します。

これが「縄文稲作」の証拠で、日本全国の「縄文遺跡」からみつかっています。

2005年には岡山県で、大量のプラントオパールがみつかりました。 


●室谷 

朝鮮半島からは、3000年前のプラントオパールが出ていますが、たったの1粒です。 


〇長浜 

「縄文遺跡」からみつかる稲は、「熱帯ジャポニカ米」という稲で、中国大陸にはない種類のものです。

つまり「日本人の祖先は、稲を携えて黒潮に乗って日本にやって来た」、と考えるのが妥当です。


●室谷 

柳田国男が「海上の道」で主張した、「黒潮渡来」そのものですね。

弥生時代に渡来した水稲(=温帯ジャポニカ)はいかがでしょう? 


〇長浜 

1980年に佐賀県の唐津で、紀元前10世紀の畦畔を伴った水田遺跡が発見されています。

水田稲作も、「縄文人」が始めていたのです。

実は、「温帯ジャポニカ米」がいつ、どこで生まれたのか、分かっていません。

1万年以上の稲作の歴史を持つ日本で生まれた可能性も、否定できません。

弥生時代になっても、縄文時代以来の「熱帯ジャポニカ米」は受け継がれ、「熱帯ジャポニカ米」と「温帯ジャポニカ米」の自然交配によって、「早生品種」ができたと考えられます。

つまり水田が広がる農村風景は、近世になって現れたのです。 


●室谷 

ここまでお話を伺って、しがらみに縛られずに、定説をくつがえす、在野の調査・研究の重要性を改めて感じます。

今の学者の見解は、戦後生まれの見解です。

「皇国史観の否定」からスタートし、さらに韓国・朝鮮人の歴史観におもねるような動きが今も続いています。 


〇長浜 

大学の先生たちは、教職追放と検閲に脅かされましたからね。

日本の歴史を肯定的に書く人々はすべて追放され、検閲に引っかかると、沖縄での3年間の重労働が待っていた。 


●室谷 

「「皇国史観」からの離脱を誓ったはずなのに、反動的なことを書いている」と、在日朝鮮人系の学者に批判された歴史学者もいます。 


〇長浜 

古代史は日本人のルーツにかかわる大事な問題なのに、「歴史隠ぺい」に近いことが行われていると感じます。 


●室谷 

韓国では、正史である「三国史記」を歴史資料にしません。

彼らにとって不都合なことが、多々出てきますからね。

「三国遺事」は資料にしていますが。。 


〇長浜

「天皇は渡来人だった」という韓国人の主張の根拠は、日本、中国、朝鮮半島の文献に出てきませんが、「新羅の王族が日本出身だった」ということは「三国史記」に出てきます。 


●室谷 

韓国には、歴史学者以外で漢字を読める人がいなくなっているから、人々はこのことに気づきません。

学者は右派民族主義学閥を気にして、定説と違うことをうかつに言えない。 


〇長浜 

戦後、日本は「古事記」・「日本書紀」を否定するところから始めましたが、韓国は大事な自国の正史を否定しました。

その上で、歴史ねつ造に近いことをやって、我々に提示しようとします。 


●室谷 

自説に都合のいい情報だけを提示しようとする傾向は、日本も変わりませんね。 


〇長浜 

痛感しています。

先人が残してくれた日本の文献、中国の史書、朝鮮の正史を、虚心坦懐に読むことが基本だと思います。

イデオロギー先行の歴史観、都合のよい情報だけを拾う姿勢が問題です。

まず自国の健全な歴史認識を確立することから始めたいですね。

          (引用ここまで・写真(下)は同誌より高句麗王の「広開土王碑」)

            *****


wikipedia「櫛文土器時代」より

櫛目文土器時代(くしめもんどきじだい)または櫛文土器時代(せつもんどきじだい)とは朝鮮の考古学的な時代区分で、紀元前8000年から1500年の頃に及ぶ。

前期から中期にかけての土器に櫛の歯のようなもので模様がつけられたこと(櫛目文土器)から命名されている。

土器が作られ始めた時代で、朝鮮における新石器時代ともされるが、日本の縄文時代と同様、農業はまだ小規模で、狩猟や採集が中心であった。

櫛目文土器文化のあとには、北方に起源を持つと思われる大規模な農耕を伴う無文土器文化が広まる。


コトバンク 「東三洞貝塚」より

韓国釜山影島の東岸にある貝塚。

朝鮮南部における新石器時代の代表的貝塚である。

第2次世界大戦前から多くの人によって調査された。

櫛目文土器に属するいくつかの型式の土器が出土するが,その編年についてはまったく逆の2つの考え方がある。

1970年の調査では,日本の縄文土器の出土が報告されている。

                ・・・


本の見出し文が、週刊誌のようにけばけばしいので、ちょっとためらわれるのですが、室谷氏が、前回までの考えを、別の研究者と共有している対談の部分を、ご紹介しようと思いました。

たしかに、「任那」「対馬」「古代日本の歴史」、どれをとっても、日本の歴史学者たちは、著者たちが言うように、日本の資料をあまりにも恣意的に用いないという傾向はあると思いました。

わたしとしては、大和朝廷が成立する前も、してからも、朝鮮半島との交流抜きに日本の歴史は考えられない、という気持ちがいっそう強くなりました。


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