前回の続きです。
ラコタ族の生まれであり、インディアン思想を研究しているA・C・ロスさんは、若いころ、自分の飲酒癖に悩み、メディスンマンに助けを求めました。
それらの経験から、彼は西洋と東洋どちらの良いところも取り入れる、独特の世界観を持つようになりました。
彼の著書「我らみな同胞・・インディアン宗教の深層世界」から抜粋してみます。
飲酒癖に苦しむ彼に、メディスンマンはこう助言しました。
*****
聖なる人はわたしにこう言った。
「偉大なる聖霊に祈りなさい。
「赤い道」を歩むことができるように祈り、祈願するのだ。」
そこでわたしはその「赤い道」というものを見出すことができるよう祈りを始めた。
そうは言っても、その「赤い道」というものがそもそもなにごとであるかなど、さっぱり分からないし理解していなかったのである。
ある日わたしは夢を見た。
「赤い道」が夢に現れ、空中に浮かんでいた。
そしてその上を歩いている自分が見えたのだった。
わたしの友人の誰彼、飲酒の悪癖に悩んでいない人々が左側にいて、わたしを呼んでいるのが見えた。
わたしは「いやだ」と叫んでいた。
するとわたしの右側に飲んだくれている友人の一群が現れた。
その人たちもわたしを呼び入れようと招いていた。
「おい、こっちに来ていっしょに飲めよ。」
わたしはそこで叫んでいた。「いやだ。」
「わたしは中立だ。
わたしはこの「赤い道」を歩き続けるのだ。」
しらふでいるために、この夢は非常に助けになった。
誘惑が来ると、わたしはそれに対し、「いやだ」とも「うん」とも言わず、「あとで」と言うようになったのである。
かくしてわたしは「赤い道」をその中心に向かってひたすら歩きはじめたのだった。
それは中道、つまり極端な両端のいずれにも属さない中立の道だった。
それはいずれの側にも、その存在を許す道なのである。
そしてこれが右脳の考え方、全体性の道だということを認識するようになった。
ユング心理学では、もし人が“良い方”に行きすぎたり、“悪い方”に行きすぎて平衡が乱れた時、「影」がその人の意識を貫き、その人をコントロールし始めると教えている。
ここで言う「影」とは人格の影の部分のことであるが、キリスト教で言うなら、悪魔に相当しよう。
ラコタの根本の教えの一つは、人はこの世ではある一定の生き方、「赤い道」か「黒い道」かのいずれかによって生きるというところにある。
「赤い道」に生きた人はその一生が終わって肉体の死が訪れた時、霊魂は宇宙の中心に戻ることができるが、「黒い道」に生きた人はその一生が終わって肉体の死が訪れた時、霊魂は再びこの世に還って、新しい肉体に戻る。
他の部族、たとえばウィネバーゴ族も“霊魂の蘇生”ということを信じている。
この人々の間にはメディシン会という組織があって、非常に複雑な神学体系を構成している。
ホピ族の信仰では、宇宙は上層(つまり人々の世界)と下層(霊魂の世界)に分かれている。
彼らは人が死ぬと、その霊魂は肉体を離れ霊魂の世界に旅して再び生まれ変わると信じている。
エスキモー、アリウト、トリンギット族などの人々も、“霊魂の蘇生”ということをその宗教の根本にしている。
ユング博士は、宗教的な象徴はもともと総合的な物事の象徴、サイキの象徴、そして平衡の象徴であると言っている。
その一つの例として、道教の陰陽の円形を挙げている。
そこには白黒の二つのデザインが均衡をなして並び、またそのデザインの中に他方を表す点が置いてあるのである。
ユング博士はこの円形を、意識と深層心理の間にある平衡として言及している。
ヒンズー教の象徴は曼荼羅とよばれる。
ユング博士は曼荼羅は統合性、均衡の象徴であると述べている。
わたしはこれをよく見てみたが、そこには我々ラコタ族が儀式に取り入れているメディスンホイールに使われているのと同じ四つの方角が示されている。
そこでわたしは考えた。
それならメディスンホイールはユング博士が言った平衡の象徴、統合性の象徴ではなかろうか?
ユング博士はキリスト教のもともとの教えはその中に、Xを含む円形だったが、後にそのXの部分が円の外側に突き出すようになって、結果として不均衡の象徴になってしまった、ということを言っている。
博士の言うところでは、そのためにこれは人間自らを自然の上に据え、自分を自然より優れた存在と考える妄想の象徴になってしまった。
そのキリスト教信念の下にある現代人を、彼は平衡を失った存在であるとしているのである。
統合性の象徴であるメディスンホイールは、今日でもラコタ族の儀式に使われている。
Xの字が交差するその中心はタンカシラ、ワカン・タンカ、あるいは神の家とされている。
ユング博士は精神生活における現代人の問題はみずからの意識の部分にばかり頼り、深層心理の部分を無視して生きていることであると言った。
精神の救済を内に求めるべき時に、外にばかり求めているというのである。
それはラコタ族の言う「黒い道」、つまり感覚にばかり頼る生き方なのである。
平衡は「赤い道」の中では表に出てこない。
あなたが「赤い道」を歩むとき、あなたは物事の中心にいる。
だから両極端のいずれにも属さず、それでいながらいずれの極端にもその存在を許すのである。
それは誘惑に対しては、その誘惑がなにごとであろうとも、それに負けることなく、しかも際限なく“後回し”にすることである。
「だめだ」と言う代わりに、「あとで」と言うことである。
さらにわたしは研究の過程で、トーマス・ブレイクスリーという人の「右脳による問題解決法」というものも知った。
その一つは“思考の培養”とでも言うべきものである。
彼は人がもし考えることがあって、しかもどうしてもその答えが意識に昇ってこない場合は、その考えを一度去ることだと言う。
つまり自分自身に「あとで」と言えば、考えに対する答えは後にあなたの下にやって来ると言うのである。
伝統のラコタの言葉には、「なにかをしたり言ったりする前に、かならず二度考えろ」というのがある。
これはわたしにはブレイクスリーの“思考の培養”と実に似ているように思われる。
*****
インディアンの進むべき「赤い道」すなわち人間としての生き方が、インディアン自らの手によって説明されています。
そしてそれが、西洋文明とどのような関係にあるのか書かれています。
物事に対して、イエスでもなく、ノーでもない態度を取り続けることが、物事の平衡を保つ秘訣であると言っていますが、これはきわめて東洋思想に近く、私たち日本人は、暗黙のうちに了解できるのではないでしょうか?
道教の陰陽や、曼荼羅は東洋人の心の底にずっと流れつづけている中庸の感性を表している図形だと思います。
彼はインディアンの世界と、それ以外の世界の両方に共通して見られる形や思想を比較することで、インディアンの思想を分かりやすく説明しています。
インディアンの世界では、円と4という数が聖なるものとされていますが、その意味するところも道教や仏教にみられるものと同じく、バランスと中庸と万物流転の精神であろうという彼の説は、納得いくものだと思います。
写真は
上・インディアンロンゲストウォークのマーク
中・タオの陰陽マーク
下・ケルト十字
ラコタ族の生まれであり、インディアン思想を研究しているA・C・ロスさんは、若いころ、自分の飲酒癖に悩み、メディスンマンに助けを求めました。
それらの経験から、彼は西洋と東洋どちらの良いところも取り入れる、独特の世界観を持つようになりました。
彼の著書「我らみな同胞・・インディアン宗教の深層世界」から抜粋してみます。
飲酒癖に苦しむ彼に、メディスンマンはこう助言しました。
*****
聖なる人はわたしにこう言った。
「偉大なる聖霊に祈りなさい。
「赤い道」を歩むことができるように祈り、祈願するのだ。」
そこでわたしはその「赤い道」というものを見出すことができるよう祈りを始めた。
そうは言っても、その「赤い道」というものがそもそもなにごとであるかなど、さっぱり分からないし理解していなかったのである。
ある日わたしは夢を見た。
「赤い道」が夢に現れ、空中に浮かんでいた。
そしてその上を歩いている自分が見えたのだった。
わたしの友人の誰彼、飲酒の悪癖に悩んでいない人々が左側にいて、わたしを呼んでいるのが見えた。
わたしは「いやだ」と叫んでいた。
するとわたしの右側に飲んだくれている友人の一群が現れた。
その人たちもわたしを呼び入れようと招いていた。
「おい、こっちに来ていっしょに飲めよ。」
わたしはそこで叫んでいた。「いやだ。」
「わたしは中立だ。
わたしはこの「赤い道」を歩き続けるのだ。」
しらふでいるために、この夢は非常に助けになった。
誘惑が来ると、わたしはそれに対し、「いやだ」とも「うん」とも言わず、「あとで」と言うようになったのである。
かくしてわたしは「赤い道」をその中心に向かってひたすら歩きはじめたのだった。
それは中道、つまり極端な両端のいずれにも属さない中立の道だった。
それはいずれの側にも、その存在を許す道なのである。
そしてこれが右脳の考え方、全体性の道だということを認識するようになった。
ユング心理学では、もし人が“良い方”に行きすぎたり、“悪い方”に行きすぎて平衡が乱れた時、「影」がその人の意識を貫き、その人をコントロールし始めると教えている。
ここで言う「影」とは人格の影の部分のことであるが、キリスト教で言うなら、悪魔に相当しよう。
ラコタの根本の教えの一つは、人はこの世ではある一定の生き方、「赤い道」か「黒い道」かのいずれかによって生きるというところにある。
「赤い道」に生きた人はその一生が終わって肉体の死が訪れた時、霊魂は宇宙の中心に戻ることができるが、「黒い道」に生きた人はその一生が終わって肉体の死が訪れた時、霊魂は再びこの世に還って、新しい肉体に戻る。
他の部族、たとえばウィネバーゴ族も“霊魂の蘇生”ということを信じている。
この人々の間にはメディシン会という組織があって、非常に複雑な神学体系を構成している。
ホピ族の信仰では、宇宙は上層(つまり人々の世界)と下層(霊魂の世界)に分かれている。
彼らは人が死ぬと、その霊魂は肉体を離れ霊魂の世界に旅して再び生まれ変わると信じている。
エスキモー、アリウト、トリンギット族などの人々も、“霊魂の蘇生”ということをその宗教の根本にしている。
ユング博士は、宗教的な象徴はもともと総合的な物事の象徴、サイキの象徴、そして平衡の象徴であると言っている。
その一つの例として、道教の陰陽の円形を挙げている。
そこには白黒の二つのデザインが均衡をなして並び、またそのデザインの中に他方を表す点が置いてあるのである。
ユング博士はこの円形を、意識と深層心理の間にある平衡として言及している。
ヒンズー教の象徴は曼荼羅とよばれる。
ユング博士は曼荼羅は統合性、均衡の象徴であると述べている。
わたしはこれをよく見てみたが、そこには我々ラコタ族が儀式に取り入れているメディスンホイールに使われているのと同じ四つの方角が示されている。
そこでわたしは考えた。
それならメディスンホイールはユング博士が言った平衡の象徴、統合性の象徴ではなかろうか?
ユング博士はキリスト教のもともとの教えはその中に、Xを含む円形だったが、後にそのXの部分が円の外側に突き出すようになって、結果として不均衡の象徴になってしまった、ということを言っている。
博士の言うところでは、そのためにこれは人間自らを自然の上に据え、自分を自然より優れた存在と考える妄想の象徴になってしまった。
そのキリスト教信念の下にある現代人を、彼は平衡を失った存在であるとしているのである。
統合性の象徴であるメディスンホイールは、今日でもラコタ族の儀式に使われている。
Xの字が交差するその中心はタンカシラ、ワカン・タンカ、あるいは神の家とされている。
ユング博士は精神生活における現代人の問題はみずからの意識の部分にばかり頼り、深層心理の部分を無視して生きていることであると言った。
精神の救済を内に求めるべき時に、外にばかり求めているというのである。
それはラコタ族の言う「黒い道」、つまり感覚にばかり頼る生き方なのである。
平衡は「赤い道」の中では表に出てこない。
あなたが「赤い道」を歩むとき、あなたは物事の中心にいる。
だから両極端のいずれにも属さず、それでいながらいずれの極端にもその存在を許すのである。
それは誘惑に対しては、その誘惑がなにごとであろうとも、それに負けることなく、しかも際限なく“後回し”にすることである。
「だめだ」と言う代わりに、「あとで」と言うことである。
さらにわたしは研究の過程で、トーマス・ブレイクスリーという人の「右脳による問題解決法」というものも知った。
その一つは“思考の培養”とでも言うべきものである。
彼は人がもし考えることがあって、しかもどうしてもその答えが意識に昇ってこない場合は、その考えを一度去ることだと言う。
つまり自分自身に「あとで」と言えば、考えに対する答えは後にあなたの下にやって来ると言うのである。
伝統のラコタの言葉には、「なにかをしたり言ったりする前に、かならず二度考えろ」というのがある。
これはわたしにはブレイクスリーの“思考の培養”と実に似ているように思われる。
*****
インディアンの進むべき「赤い道」すなわち人間としての生き方が、インディアン自らの手によって説明されています。
そしてそれが、西洋文明とどのような関係にあるのか書かれています。
物事に対して、イエスでもなく、ノーでもない態度を取り続けることが、物事の平衡を保つ秘訣であると言っていますが、これはきわめて東洋思想に近く、私たち日本人は、暗黙のうちに了解できるのではないでしょうか?
道教の陰陽や、曼荼羅は東洋人の心の底にずっと流れつづけている中庸の感性を表している図形だと思います。
彼はインディアンの世界と、それ以外の世界の両方に共通して見られる形や思想を比較することで、インディアンの思想を分かりやすく説明しています。
インディアンの世界では、円と4という数が聖なるものとされていますが、その意味するところも道教や仏教にみられるものと同じく、バランスと中庸と万物流転の精神であろうという彼の説は、納得いくものだと思います。
写真は
上・インディアンロンゲストウォークのマーク
中・タオの陰陽マーク
下・ケルト十字
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