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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

幸福になる権利・・「ピープル・ファースト」(3・終)

2016-11-13 | 心身障がい


引き続き、ジョセフ・P・さんの「哀れみはいらない。全米障がい者解放運動の軌跡」のご紹介を
続けます。

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          *****

        (引用ここから)



マイクを握ると、心からの声を伝えるパワーが湧き出てくるようだった。

また聴衆は一心に発表を聞きながら、意見や感情を共感し、まったく新しい物の見方を吸収した。

人の話を聞き、共感すること。

時には意見の違う相手と交渉し、怒らずに相手の意見に反対すること。

参加者はこれらを学んだ、と 彼は回想する。

「オレゴン・ピープル・ファースト」という名は、1974年に開催された会議の準備段階で、一人のセルフ・アドボケーターが意見したことに由来する。

彼は「知恵遅れ、障がい者、ハンデキャップ」といった言葉遣いに反対して、こう言ったのだ。

「まず、人間として、扱われたいのです(I want to be treated like a person first)」



〇「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」の、アメリカでの成長

このような歴史を持つ「セルフ・アドボカシーだが、その主張を広めていくことは、黎明期の人々が思ったほどには容易くはなかった。

それはこの時代が、ちょうど施設閉鎖の努力が始まったばかりの時期であったことにも関連する。

つまりそれまで施設で暮らしてきた人たちは、自分の意見を主張しようにも意見を決める材料を持ち得ていなかったし、

持ち得たとしても、選択できなかったのである。

当時の「障がい者」にとっては、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、あまりにも新しすぎるアイデアで、親たちは脅かされさえしていた。

法律も、依然、「障がい者」たちの基本的な生活上の権利を制約していた。

たとえば1980年になっても、33州では「知的障がい者」の結婚を禁じていた。

連邦地方裁が、連邦政府の「障がい者断種手術目的補助金」を禁止したのは、1974年が初めてだ。

このような全体状況から、70年代中盤以降にならないと、当事者による「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」運動は始まらなかった。

その後15年間は、ちょうど「障がい者」の権利運動全体も大きく成長した時期だ。

この運動の象徴とも言える「自立生活センター」は、それ以前から年とともに各地に設立されるようになったが、「知的障がい」を持つ人々へのサービスはほとんどなかった。

当時はまだ、「知的障がい者」の運動は、「障がい者権利運動」の輪に入っていなかったのである。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」は、この運動の模倣であったと同時に、権利運動の輪に加わろうとする取り組みでもあった。

社会の対応が変化したことも、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利を主張する)」の成長を促した。

今までずっと施設で育ち、生活してきた「知的障がい者」たちが、地域のグループホームやアパートに引っ越すようになり、「障害を持つ児童」は施設でなく、家族と暮らして育ち、地域の学校に通うようになったのである。

地域での生活を通し、彼らには、自分で決める練習の機会がたくさんできた。

自分でどうしたいいかを決められるようになれば、政治的な権利を主張するようになるまでは、あと一歩と言えるかもしれない。



ホプキンスが高校を卒業した時に、身についていたのは、最低限の読み書きだけだった。

彼は大工仕事に必要な技能を身につけたいと期待して、慈善団体経営の作業所に入ったが、そこではめったに仕事もなかった。

たまに小さなネジの数を数えて、ビニール袋に入れ、雀の涙ほどの賃金が支払われただけだった。

ホプキンスは、大工仕事の「だ」の字も教わることなく4年半、作業所に通ったが、結局辞めた。

「あの作業所は、要するに、成人のためのデイケアと同じなんです。それだけの場所です。

「ピープル・ファースト」に関わり合い出して、分かったんです。

同じようにひどい目に遭っているのは、自分だけではなく、福祉の制度は私たちのような人間の価値を卑しめ、搾取し、奴隷扱いしてきました」と、彼は説明する。

「作業所は、社会から隔離されていました。

どうしてこんなに分けられなければならなかったのでしょう?

どうしていつも僻地に住まわされてきたんでしょうか?

他の人たちは、町で働いているのに、なぜ私たちは障がいのない人達と交流できなかったんでしょう?」

ホプキンスは、こういった状況を作り出す福祉制度を「遅れを招く環境」と呼ぶ。

彼が持っている障がいを、更に助長するかのように、制度が彼の足を引っ張っている、という意味だ。


〇真心をこめて

1985年、ホプキンスと仲間の「セルフ・アドボケーター(自分で自分の権利や意見を主張する人)」は、当時の副大統領ジョージ・ブッシュに会見した。

会見は30分に及んだ。

彼らが「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」の活動について、とうとうと説明したのだ。

ホプキンスは、自分がいかに作業所に落胆したかを語り、ダウン症のジャンセンは「IQ30の娘だったら施設以外のにどこにも住めないだろう」と両親が回りに言われた経験を話した。

しかし彼女はこの時、立派に地域で暮らしていた。

会見に同席した「障がい者運動家」は言う。

「この時ほど、ブッシュ氏の先入観がガラッと変わったことはありませんでした」。

数年後の1990年、ブッシュは、もう一人の人物から、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」についての説明を受けることとなった。

「ADA(障害を持つアメリカ人法)署名式」で、活動の立役者モンローから手紙を渡されたのだ。

大統領は、彼に感謝し、その手紙を後で読むと約束すると、ジャケットの内ポケットにしまった。


            ・・・

「親愛なる大統領へ」

私は「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」について、あなたに説明したいと思い、筆をとりました。

私の名前はモンローと言います。

コネチカット州の「ピープル・ファースト」の代表です。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」って、何でしょうか?

それは、自分の持っている権利と、自分の責任を自覚している、ということです。

自分の権利のために、立ち上がれるということです。

自分が言いたいことを言い、自分で自分のために決定し、もっと自立できるということです。

二本の足で立って、「セルフ・アドボケーター(自分で権利・意見を主張する人)」として、権利を押し出すのです。

私たちには、幸福になる権利があります。

他の人と比べて、私たちに遜色があるわけではありません。

立ち上がりましょう。

そして、他の障がいを持った人たちにも伝えるのです。

私たちは、あなたたちの助けになることができる。

大切な問題について、一緒に立ち上がれる。

「障がいを持つ人々」は、自分たちによいことについては、一生懸命頑張れます。

真心こめて T・J・モンロー

          ・・・



1993年、モンローは自立に向けて更なる一歩を踏み出した。

今までずっと暮らしてきたコネチカット州を離れ、テネシー州に移ったのだ。

テネシー州の「ピープル・ファースト」を組織化する仕事を受けたからだった。

「私は今度から机の向こう側に座って、人を使うボスになったんです」。

彼は言った。

「今まではボランティアの組織運動家だったが、今度からはそれを、フルタイムで有給の仕事として行う。

「だけどなにも変わっちゃいませんよ。前と同じように〝雷を鳴らして″皆に、なぜ?どうして?って考えさせ続けますからね」。


          (引用ここまで)

            *****

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私たちは人間なんです!・・「ピープル・ファースト」運動の軌跡(2)

2016-11-11 | 心身障がい



引き続き、ジョセフ・Pさんの「哀れみはいらない。全米障がい者解放運動の軌跡」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

障がい者の自立の問題が考えられるようになったのは、世界的にごく最近のことなのだと知り、とても驚いています。

             *****

           (引用ここから)


この会議でもっとも感動を呼んだのは、モンローが参加者の自由な発言を促したフリートークの約2時間だった。

「知的障がい者」たちが次々と登場して語り、2本のマイクが空く暇はなかった。


発言者の大半は、今まで人前で話した経験がない。

だから発言するだけでも相当の勇気が必要だったし、神経がすりへる経験だったと言える。

が、その経験を経たことで、大きな自信もついたようだ。

たとえばある男性は不安のあまり、ものすごいスピードで話し始め、もともと英語でしゃべっていたのが、出身のイタリア・シシリー島の方言に変わってしまったが、話す内容が誰にも分らなくても、聴衆は彼が発言したこと自体に敬意を払い、盛大な拍手を送った。

友達や恋人、家族、結婚したいという自分の気持ちについて、給料が十分でないことや、仕事に対するプライドについて、「セルフ・アドボケーター」たちは語った。

皆が次々に語るうちに、多くが、「異常者」「劣等者」とみなされて、苦しんできたと分かった。


「私たちは人間であって、動物ではないのです」。

参加者の一人は言った。

彼女は45才だが、今まで母親の家に暮らしていた。

つい最近、自分のアパートに移り、独立しはじめたという。


〇「知的障害を持つ人々」に、いったいどう対応したらよいのか?

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」を突き詰めて考える時、私たちはこの問いに触れざるを得ない。

もうすこし具体的に言おう。

〇「知的障がい者」には、どれだけの保護が必要なのか?

そしてその保護は、ただ私たちがよく言うところの「保護」でありさえすればよいのか?

「保護」というのは、いつも必ず善意にあふれ、進歩的と言えるのだろうか?


19世紀の改革者たちは、か弱い人たちを助けるという目的で、大規模収容施設を建てた。

ところが今日では、「知的障がい者」を地域社会から隔離するのは間違っているという考えが台頭し、これには専門家の多くも同意している。

このため施設に住む「障がい者」も減り、閉鎖するところも増えてきた。


いわゆる「保護」の名の下で施設収容するのは「パターナリズム」の象徴とさえ言われる。

それは「障がい者」を依存の泥沼に陥らせ、自立の成功を妨害する。

社会が「障がい者」をずっと面倒みるのは経済的なロス、という見方もされるようになった。


一方、どんなに時代が変わっても、「知的障がい者」には「障がい」があることは変わらない。

学習の仕方や意思決定には、支障がある。

たとえばコネチカットの「セルフ・アドボケーター」たちは成人だが、「障がい」があるため、非常に傷つきやすい立場に置かれていることがある。


〇尊厳ある個人としての「知的障がい者」にどう対応するか?

このことは一つの課題としてある。


が、これと「知的障がい」があることによって生じる支障にどう対応するかは全く別の問題である。

「セルフ・アドボケーター」は、「障がい」の無い他の成人と同じように生きることを主張する。

言葉を変えれば、それは、リスクもいとわないということだ。

「障がい」のための援助は必要だが、それは従来の「保護」とは違うということでもある。

「保護」によって他から尊敬を得られなくなったり、経験を積むことで自信をつけることが否定されてはいけないのである。




「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」という運動は、スウェーデンから輸入された。

1968年に、スウェーデンの「精神発達遅滞者をもつ親の会」の事務局長が、「知的障がい」を持つ若い成人たちとなにげなく会話をしたときから始まったという。

彼は「知的障がい」を持つ人が、持たない人と同じ日々の行動(仕事に出かけるとかリラックスする時間を持つなど)をするべきと考え、そのためのプログラム作りに取り組んだ。

これは「ノーマライゼーション」という考え方に基づいており、シンプルでありながら急進的な取り組みとして知られた。

このプログラム策定の過程で、「知的障がい」を持つ人々にいろいろな質問をするうちに、彼は気づいた。

好き嫌いの理解に関しては、当事者の方がソーシャルワーカーや他の専門家たちよりよっぽど優れている、ということに。

突然の理解だった。


そして彼は、「障がい者」自身が人生の選択に関して、もっと関わるべきだと自覚した。

今ではこの考え方は、当たり前だと受け止められるかもしれない。

だが当時、「知的障がい者」は、「自己」という感覚が持てない、したがって意思決定など絶対無理だ、と心理学者たちに決めつけられていたし、その理論が世にまかり通っていた。

このため「知的障がい者」と分かれば、自動的に施設に収容され、医師や他の職員らが決定を代行していた。

自宅に家族と住んでいる場合もあったが、意思決定を下すのは母親や父親だった。


しかし事務局長は、今までとは全く違う考え方を実践したのである。

適切な支援と指導さえあれば、「知的障がい者」も〝決定する″ことができるのである、と。



彼は「障がい者」の人々を引き入れ、世界で初めて、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利)」のグループを作った。

治療や訓練について、自分たちが何をどう選択できるかについて話し合ったのが最初の活動だ。

アメリカでこの運動を広めた一人、ダイブワット教授は言う。

「適材と言える人物が時期を得て変革の歴史をつくる。これがやはり世の常なのです」。

モンローは最適の人材だったと言えよう。



〇「まず人間として=ピープル・ファースト」

1969年、スウェーデンから大西洋を越え、アメリカでは「ノーマライゼーション」という考えは、まずホワイトハウスの会議で紹介され、その後「発達障がい者」のサービスにおける革命をもたらした。

施設閉鎖の推進や、「知的障がい」を持つ人を地域の学校に来させること、家で暮らすことや地域で仕事につくメインストリーミングを支える支柱となった。

当初この「ノーマライゼーション」を積極的に推したのは、親や専門家たちだった。

さらに数年たち、「知的障がい者」たち自身が、自分たちで権利を主張しはじめた。


その発端は1973年だ。

スウェーデンでの「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」に触発されてできたカナダのグループが、バンクーバー島で「ピープル・ファースト会議」を開催したのである。

オレゴン州の州最大規模収容施設の施設医療訓練センター局長は、州規模で義務付けられた施設の小規模化を実践する立場にいた。

そこで彼は会議に参加し、大いに触発されて帰国した。

その結果、彼とこの施設に住んでいた3人の「知的障がい者」たちは、翌年の秋にはオレゴンで最初の「ピープル・ファースト会議」を開催してしまった。

当時200名も来ればよいと予想していたのに、560人も集まり、分科会では、地域で暮らしていくためにはどうしたらよいか、「知恵遅れ」と呼ばれたらどうしたらよいか、などのテーマで話し合いも持たれた。

最も感動的だったのは、誰もが何でも言える「フリートーク」の時間だ。

彼ら一人一人が、スーパースター、そしてリーダーになれたのです。

          (引用ここまで)

            *****


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「胸が さける・・肉体はたましい」

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ピープル・ファースト運動(1)・・独立宣言「障がい者自らが、決める」

2016-11-09 | 心身障がい



横浜で開かれた「ピープル・ファースト」運動が、世界でどのようにして始まったのかが書かれている「ジョセフ・P・シャピロ著「哀れみはいらない・・全米障がい者運動の軌跡」という本を読んでみました。

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            *****

          (引用ここから)


「ピープル・ファースト」

「私たちはこれから決議について投票します」。

約300人の聴衆は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」という運動の草分けである。

どこに住みたいかから、他人からどう呼ばれたいかまで、あらゆることを「知的障がい者」自らが決定する、この原則を元にした、新しい運動である。

「今日は皆さんに、二つのことを是認していただきたいと思います。

まず皆さん一人一人が、〝雷を鳴らして″ください。

それから皆さん一人一人が、自分の権利をしっかり主張してください」。


集まった聴衆の多くにとっては、会議に参加することだけでもかなり思い切った、反逆行為とさえ言えた。

それまでずっと自分以外の誰かによって、人生をどうするかを決められ、何をどうするか言われ続けてきたからだ。


その日、「ピープル・ファースト」の会議が終わる頃、「知的障がい」を持つ人々にとっての重要な課題を掲げた「独立宣言」が採択された。

混沌とした雰囲気の会場には大きな喜びが溢れ、まさに人々が〝雷を鳴らして″いるかに見えた。

宣言にはこんなことが書いてあった。

1・州の大規模収容施設を閉鎖することを望む

2・職場や作業所での有給の病気休暇を望む

3・これらの場所での休暇、祭日には休めることを望む

4・自分たちは男女交際の権利がある

  グループホームや施設においても、自分が選んだ相手とセックスする権利がある

5・「知恵遅れ」、「精神薄弱者」という言葉は邪悪だ。
  私たちがまるで子供で、他人に依存する存在 で   あるかのように見せかける。
  この言葉をこれ以上使わないことを望む
  どうしても言わなければならない場合は、「知的遅滞のある人」と言うこと

6・とにかく私たちのことを、まず人間として(people first ピープル・ファースト)見てほしい。


「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利・意見を主張する)」は、「知的障がい」を持つ人々による新しい権利運動だ。

周りに過少評価され、自分で選ぶ機会も奪われ、「永遠のこども」として扱われ、人より劣った人生を送るのも当たり前と思われてきたことに対して起こした「自己決定の運動」である。

「障がい者権利運動」の一つとしても位置付けられるし、「知的障がい者」に特化された問題に焦点を当てた運動とも言える。

この活動は全米各地で見られる。

カリフォルニア州では、州議事堂の前で集会を開き、社会サービス(「障がい者」、高齢者、低所得者、少数民族などに対するサービス)全般の予算削減に反対した。

デンバーでは、出来高払いの賃金しか払っていなかった作業所で働いていた「知的障がい者」たちがストライキを起こし、障がいを持たない同僚と同等の給料を要求した。

またコネチカット州では、州会長モンローが州立施設に住んでいる「障がい当事者」のために記者会見を開き、たくさんの人を集めた。

彼らが地域のグループホームに移行する一助となったらしい。

「全米知的遅滞者協会」が行った1990年非公式の調査によれば、現在アメリカには374の「ピープル・ファースト」の支部、および同様の団体があるという。

この数は1985,87年には200だったことを考えれば、著しく増加している。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、参加者が多く、発想の新しさにおいて、大きな影響を残した。

中でも意義深かったのは、専門家や親たちが、「知的障がい者」を意思決定の過程に参加させた点だ。

この概念自体は以前から言われ、なにも新しくはなかったが、今までは申し訳程度にしか努力されなかった。

「障がい」を持つ者には、持たない者と同等の決定権が与えられなかったのだ。

しかし今回は違う。


たとえば「全米知的遅滞者協会」は、「ピープル・ファースト独立宣言」にある「精神薄弱という呼び方をやめて」という要求に応えて1991年、名称を「The Ark(アーク)」に変更した。

この「セルフ・アドボカシー」は、「知的障がい者」対象のサービスを担う専門家への、第二の革命と言えた。

それでは第一の革命は?というと、それは第2次世界大戦後、「知的障がい者」を子に持つ親たちが始めた。

親たちは当時、「知的障害」を持つ子供にもっとサービスを提供してほしいと訴えたが、同時に、医師や専門家が人を見下したような態度をとっていることにも不満をつのらせていた。

親たちは元々、「障害を持った子供」がいることに対して、後ろめたさを感じていたが、医師はそんな気持ちも解せずに親に接し、彼らに子供に関する意思決定などできっこない、能力がないと決めつけていたのである。

この不満は、いくつもの団体設立につながった。

一つは1950年代に創立された「全米精神薄弱児の親と友の会」で、さきほどの「アーク」の前身だ。

これらの団体は親に対する専門家の見方を変革させ、最終的には両者が対等なパートナーとしてアドボカシーを行うまでに持って行った。

今日の「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)は、この「第一の革命」の功績を一回り大きくさせたと言える。


「アーク」の創立者の一人は説明する。

「親たちの運動は、当初とは違って疲労困憊してしまい、「知的障がい者」の生活を向上させる新鮮なアイデアが、今度は、「障がい者」自身から生まれたのです」。

コネチカット州の「ピープル・ファースト」の顧問は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)の方が親たちよりも力強い権利の闘士だと感じる。

「息子や娘にほとんど期待するな、と言われ続けてきたのが親です。

だから親は自分たちの要求する水準以下でも喜んで受け入れてしまう傾向がありました。

が、当事者の運動=「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」は、「障がい者」自らの選択が良い、という信念を決して譲らない。

当事者の「障がい」がどんなに重くても、この信念は絶対に譲らないのだ。

ここは自由の国です。言いたいことを言っていいのです」。


専門家や「障がい」のない世界に対する反乱である「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」。



しかしこの反乱は、逆説的にも「知的障がい」を持たない人々に頼って成り立っている。

「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」の核心である「自己主張」をするためには、複雑な情報を得、その中から選択をし、最終的な判断を下さなければならない。

しかし「知的障がい者」は、このプロセスで困難が生じる。

自己主張のためには、どうしても周囲の助けが必要になるのだ。

もう一つの逆説は、「セルフ・アドボカシー(自分で自分の権利や意見を主張する)」が、挑戦の対象である専門家や「知的障がい」の無い世界から奨励されてきたことである。

たとえば「第1回コネチカット・ピープル・ファースト会議」では、州の「知的障がい局」のコミッショナーが挨拶に立った。

「すべての人々が対等に存在する、全く新しい世界。皆さんはこういった世界を作ろうとなさっています。新しい時代を担う皆様方に脱帽します」。


「知的障がい者」と呼ばれる人々の能力と経験は、決して一様ではない。

コネチカット州の会議に参加した「セルフ・アドボケイト」を見れば、このことはよく理解できる。

参加者の大半はグループホームに住むか、親と一緒に住んでおり、ごく少数は一人で暮らしている。

けれども中には会議終了後に、大規模収容施設の自分の部屋に戻る人たちもいた。

彼らはそこで人生の大半を過ごしてきた。

参加者の大半は、軽度の「知的障がい者」である。

「アーク」によれば、アメリカには750万人の「知的障がい者」がいるが、その89%は軽度と判定されている。

この意味でコネチカット州の参加者は平均的だ。

ただ一口に「軽度」と言っても、読み書きがしっかりできる人もいれば、他の人に自分の言いたいことを理解させられない人もいる。

また大半は仕事を持っているが、他の「障がい者」と一緒に隔離された施設で生活している人もいる。


          (引用ここまで)

            *****


とても西洋的な文章で、読むのに少し苦労しましたが、このような世界的な障がい者運動の歴史を知ることは、大切なことではないかと思いました。

わたしの子供時代には、学校で障がいのある子どもと友達になった記憶がありません。

わたしの子供たちの学校時代には、数人の障がいのあるお子さまの姿を見かけたように思います。

わたしは全然歴史を知らなかったのだと、改めて思っています。

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行ってきました、1000人の追悼集会「ピープルファースト大会」・・やまゆり園殺傷事件(6)

2016-11-04 | 心身障がい



先月新聞の予告記事をご紹介した、9月の「ピープルファースト大会in横浜」の催しに9月21日・22日、ボランティアとして参加してきました。

だいぶ時間が過ぎてしまいましたが、今も心にはっきりと残る印象的な催しでした。

「ピープルファースト大会in横浜」HP

「相模原やまゆり園殺傷事件(2)・・人権感がる動き広がる・追悼集会やライブ企画」

「1000人集会と言っても、まさかほんとうに1000人?」と思っていたわたしの考えは、大きく覆されました。

実に、本当に全国から1041名の方がたが集結して、それはみごとな大規模な催しが開催されました。

NHKの「テレビニュース」でも放送され、朝日・毎日・読売・東京・神奈川新聞が翌朝、写真入りで記事を出していました。

なんとかして「やまゆり園」の犠牲者の方々を追悼したいと願っていたわたしは、このようにしっかりとした追悼の催しが、障がい者の方々自身の主催で行われたという事実に、とても深い感動を覚えました。

なんのお役にもたてませんでしたが、自分もボランティアとして関わることができて、とても多くのことを学ばせていただきました。



全国大会の会場は、横浜・大さん橋ホール。

正午、全国から皆さん方がやってきました。

わたしもお手伝い。。

昼食が済むとパネルディスカッションがあり、優生思想による大量殺人だ、匿名報道は不可解、やまゆり園の友人が生きているのかどうかも分からない、死んでも名前も呼んでもらえないのか、施設に閉じ込めないで町で安心して暮らしたい、などなど、各自の考えを述べられました。

神奈川県知事は訪れ、菅官房長官はビデオメッセージで、弔辞を述べていました。










その後、参加者全員が、折り鶴を献花に見立てて供え、長い時間をかけて、追悼会が行われました。









当日夜のNHKの「テレビニュース」の時間に、会場でインタビューを受けていた方々の声を流す放送がありました。

翌日の各紙朝刊にも、記事が載っていました。








                ・・・・・

「相模原殺傷 障害者ら議論「同じ人間、名前で報道を」」
                 東京新聞 2016・09・22


相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件を受け、全国の知的障害者ら約千人が参加し、事件について議論する集会が二十一日、横浜市中区であった。

「(植松聖(さとし))容疑者が語った『障害者はいらない』という言葉は、子どものころからわれわれに向けられている」。

参加者たちは事件を痛みとともに受け止める。

事件の犠牲者が匿名となっていることには、参加者から疑問の声も上がった。

集会は、知的障害者の当事者がつくる「ピープルファーストジャパン」(事務局・奈良県三宅町)が年に一度、各地の持ち回りで全国大会を開催。

今年は横浜での準備中に事件が発生、テーマを差し替えて「匿名報道」「入所施設の立地」の問題について、各地代表の知的障害者ら四人が意見交換するなどした。

大会の実行委員長、小西勉さん(51・神奈川)は神奈川県警が「プライバシーへの配慮」などを理由に被害者を匿名発表した点について「仲間として言いたい。誰が亡くなったか分からない」と発言。

「せっかく付けてもらった名前を出してほしい。みんな同じ人間なのに…」と続けた。

土本秋夫さん(60・札幌)も「亡くなっても人間とは扱われず、名前を隠すのは差別だ」と強調した。
 
参加者からは、全国で施設に入所する知的障害者が約十三万人いるのに、やまゆり園をはじめ、施設が山あいなど不便な場所に多いことへの疑問も出た。

中山千秋さん(49・大阪)は「地域で邪魔にされ、行政や親の都合で入所させられることもある」と課題を挙げた。

小田島栄一さん(東京)は「あなたは何もできないんだから、施設に行かないと仕方ないでしょうと言われたこともあった」と振り返り、「障害者は地域に『いらない』と言われる」風潮があると指摘。

「知的障害者も地域でのびのび暮らしたい」と求めた。

一方で会場から「施設にもいい点はある」という意見も出た。

集会の最後に、参加者が花束や折り鶴を犠牲者に手向けた。

大会は二十二日に、障害者施設での虐待事件などをテーマにした分科会を開いて閉幕する。

         (新聞ここまで)
         
           ・・・・・




2日目は大雨の中を、別会場に分かれて、テーマ別のディスカッションが行われました。

「自分の人生を人に伝える」というテーマの会場では、参加者全員に「自分の人生を人に伝える」という課題が出され、短い時間でまとめて、それを一人一人発表していました。

発表者のお一人が「私はみじめでも、哀れでもありません。生きたくて生きているんだ、ということを知ってほしいです」とはっきりと語っておられたことがとても心に残りました。

その後、大さん橋の大ホールに戻り、1000人による神奈川宣言。

「私たちは、障がい者である前に、人間だ。津久井やまゆり園の事件を忘れない。」

という宣言を採択し、閉幕しました。



(写真・一番下は「ピープルジャパン北海道」のチラシで、大会宣言ではありません)。



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施設を出ると行き場が無い・・「みいちゃんの挽歌」施設で焼き殺された自閉症の女の子(2)

2016-11-01 | 心身障がい



「みいちゃんの挽歌」のご紹介を続けます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


行方不明となった瑞穂さんは、13日後に、なんと施設の焼却ボイラーの煙突の中から黒焦げになって発見されたのです。

焦げた片足がボイラーの下に垂れ下がってきたのを、13日もたってから職員が発見したというのです。

しかも瑞穂さんのタンスの中の服や持ち物など計10キログラム以上のものも一緒に発見されました。

瑞穂さんは、入れないように仕切りがしてある、高熱を発しているボイラーの煙突に、ひとりで10キログラムの自分の持ち物を持ってよじ登り、その中に落ち込んだ、というのが警察の捜査の結論でした。

そんな理不尽なことがあるわけがありません。

ネットで調べたかぎりでは、裁判のその後の経過は分かりませんでした。

筆者であるお母さまの筆致は、とても節度があり、またお父さまも、常に冷静に現実に対応しておられることがよくわかりました。

なんらかのことが明らかになったのかもしれませんが、それよりも、地域の同じ障がい者の保護者の皆さんがやっとの思いで作った施設の存続を優先して行動されたのではないかと、わたしは思いました。

「目次」は次のように書かれていました。


           *****


         (引用ここから)


第1章 「行方不明」の知らせ

第2章 無残な遺体で園内に

第3章 真相を知りたい

第4章 陳述=亡くなるまでの1年間

第5章 残された多くの疑問点


        (引用ここまで)

          *****

聡明なご両親が、どんな気持ちでこの痛ましい事件に立ち向かわれたのかと思うと、胸が張り裂けそうです。

最後の「後書き」の部分をご紹介します。


          *****

        (引用ここから)

「後書き」

本書によって、娘・瑞穂の生前および亡き後の傷つけられた人権と、人間としての誇りをよみがえらせることが、私に課せられた使命のように感じられました。

またそのことを記すことは、全国の一部の心無い知的障がい者施設の、入所者やこれから入所使用する人たちの、人権を守ることにもつながるのではないかと思われました。


私の娘が自閉症者ではなく、健常者だったらどうだったのだろうか?

わたしは、ずっとそのことを自問自答し続けました。

障がい者であったがために、このように簡単に片づけられてしまったのだろうか?

知的障がい者施設の入所者の生命が、こんなにも軽んじられてしまっていいのだろうか?

そうした自らの問いかけに答えるのが、亡き娘・瑞穂に対して私に課せられた義務と責任であると思いました。

そしてわたしが出した結論は、こうでした。


「すべてを障がいのせいにされて、口をつぐんでいる訳にはいかない」


メモ書き記録を頼りに綴り始めたものの、私にとってこれを書くことは、魂の救済であると同時につらい体験を再現させる作業でもありました。

しかしそんな時には、亡き娘が一生懸命に製作した、壁にかけられたビーズの手芸作品が私を鼓舞してくれていました。

また、私が原稿を書いていることを知った、知的障がい者が身内におられるという女性の、次の言葉も私を勇気づけてくれました。

「知的障がい者施設に子供を預けている親は、施設内で心無い指導員が入所者いじめをしているのを見聞きしても、施設を出されてしまうと他に行き場所がないから、言いたくても言えないんです。

だから、あなたが、そういう人たちの代表だと思ってぜひ書いてください」。


そのような励ましによってなんとか書き終えたものの、浅学の私には到底、自分だけの力では書けなかったことと思います。

この原稿を書いていた間中、後ろから背中を突き動かしている何かを感じていました。

本当に不思議な力を与えられていたようでした。

それは瑞穂の魂であったように思います。

瑞穂の魂が私に書かせたに違いありません。


瑞穂は、これから先もまだまだ生き続けられたはずです。

せめてペンネームの中で、生き返らせてあげようと思いました。

なお、本書で娘・瑞穂が入園していた施設の名称などをはっきり書きませんでしたが、それは、地元の知的障がい者の親の方々が、大変な苦労をして作った施設であることが判っているだけに、あえてしませんでした。

それに、瑞穂が亡くなって7年あまり経っていますので、S園もいい方向に向かっているかもしれませんので。。

瑞穂のようなことが、知的障がい者施設で二度と再びあってはならない。

瑞穂の凄惨な死を無駄にしてはならない。

それを願うばかりです。

4年あまり続いた裁判の一審判決が「棄却」という形で終わったことは本文で述べましたが、裁判はまだ続きます。

今後の審理の中で少しでも真実が明らかにされることを期待するのみです。

謹んでこの本を、亡き瑞穂の霊に捧げます。

1999年夏  瑞木志穂


           (引用ここまで)

            *****


謹んで、瑞穂さんの霊と、ご家族の皆様に、哀悼の気持ちをお捧げいたします。


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「みいちゃんの挽歌」施設で焼き殺された自閉症の女の子(1)・・軽んじられた命

2016-10-25 | 心身障がい




やまゆり園のことはまだ続けますが、「みいちゃんの挽歌・・知的障がい者施設の中で何があったのか」という本を読んでみました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

著者は、殺された自閉症の「みいちゃん」のお母さまで、ペンネームは「瑞木志穂」となっており、その文字の中に、娘さんの本名=「瑞穂」(みずほ)という文字が埋め込まれています。

なぜこんな事件が起きたのか?
その後、解明されたのか?

悲しいことに、なにもわからないのです。

こんな理不尽なことがあるでしょうか?

暗澹たる気持ちで読み終えました。

ここでは、「前書き」と「目次」と「後書き」だけを載せます。

重い問題です。

まずは「前書き」をご紹介します。


         *****

       (引用ここから)


1992年3月14日、私の娘・瑞穂は千葉県内にある知的障がい者施設S園で、行方不明になりました。

瑞穂は3才10か月頃に、大学病院で自閉的傾向児と診断されました。

中肉中背だった瑞穂は、一般の人のような普通の会話はできなかったものの、人から話しかけられたことはほとんど理解できました。

19才の時からS園で生活していて、24才になっていました。

そのころには幼い時からの試行錯誤の教育がようやく実を結び、また手先の器用さも手伝って、一般に販売できるほどの手芸作品も製作していました。

私はそうした瑞穂のこれからの成長を楽しみに、そして期待もしていました。

それなのに、、。

「園の中はすみずみまで捜しましたが、いません」

というS園側の説明で、私たちは文字通り必死の思いで園の外部を捜索しました。

ところが、行方不明になってから13日目に、瑞穂は園の中から無残な焼死体となって発見されたのです。

瑞穂のその死は、どう見てもどう考えても、不可解としか言いようがありませんでした。

そのため夫と私は、情報を集められるだけ集め、瑞穂の死から3年近く経ってから、民事事件としてS園を提訴しました。

娘の死の真相を知るには、その裁判を通して知るしか方法がなかったからです。


この本は、娘・瑞穂が行方不明になった当初から、1999年3月29日にあった一審の判決までを、事実に基づいてドキュメントとして綴ったものです。

その間、世間では福祉を目的にうたった福祉工場の社長による知的障碍者への犯罪(水戸事件)や、福島にある知的障害者施設での園長による暴力や薬漬け事件などが、マスコミで大きく報道されました。

しかし、この種の問題が表面化するのは氷山の一角で、多くの場合は世間に知られることもなく、片付けられているのが現状です。


福島県の事件報道から数か月後、東京都社会福祉協議会が知的障碍者施設での暴力事件をまとめた小冊子を、施設関係者以外の一般の人々にも配布することを新聞で知りました。

さっそく注文したのですが、長い間待たされた挙句、「どこの施設か分かってしまうので、施設関係者以外には配りません」という理由で、ついにわたしの手元には届けられませんでした。

こうして、知的障碍者施設という密室の中の出来事は、世に問われることなく葬り去られてしまうことを、私は改めて思い知らされました。


とはいうものの、知的障碍者施設の入所者にたいして、献身的に接している施設職員が数多くいることも私は知っています。

実際に、この本に登場する施設の中にも、何人かはおられました。

その一方で、声なき声で叫んでいる入所者がいることもまた、確かな事実なのです。

娘・瑞穂の死を無駄にしたくない思いから綴り始めた私のつたない文章が、そうした人々のために、いくばくかのお役にたつことを願ってやみません。

もしそうなれば、瑞穂の魂も少しは救われるのではないかと思います。

と同時に、この本を書かずにいられなかった、私自身も。。


          (引用ここまで・続く)


           *****




wikipedia「水戸事件」より

「水戸事件」は、1995年に茨城県水戸市で発覚した知的障害者に対する暴行・強姦事件。

裁判の過程で、行政・司法当局の知的障害者に対する無理解が明るみに出ることとなったと被害者側の支援者が主張している。

事件の概要

茨城県水戸市の段ボール加工会社の有限会社アカス紙器(有限会社水戸パッケージを経て現・有限会社クリーン水戸)は積極的に知的障害者を従業員として雇用し、従業員全員を会社の寮に住まわせていた。

アカス紙器の赤須正夫社長は、障害者雇用に熱心な名士として地元では尊敬されていた。

しかし1995年10月、アカス紙器が障害者雇用により国から交付される特定求職者雇用開発助成金を受け取っていながら、実際には知的障害者の従業員に対してほとんど賃金を支払っていないことが発覚し、翌年社長は詐欺容疑で逮捕された。

詐欺容疑で赤須正夫社長の近辺を捜査する過程、彼が長年にわたり、従業員の知的障害者に対して虐待を行っていたことが判明した。

その内容は、角材や野球のバットで殴る・両膝の裏にジュースの缶や角材を挟んで正座させ、膝の上に漬物石を乗せて長時間座らせておくといった拷問ともいうべきものであった。

知的障害者の従業員たちは満足に食事を与えられておらず、時にはタバスコをふりかけた飯や腐ったバナナなどを食べさせられることもあったという。

さらに知的障害者の女性従業員に対する強姦も頻繁に行われ、被害者は10人近くにのぼると言われている。

水戸警察署は、詐欺事件だけでなく知的障害者に対する暴行・強姦事件に関しても捜査を開始したが、被害を受けた日時や状況を正確に証言出来る被害者が少なく、「公判を維持できない」という理由で警察も水戸地方検察庁も立件に消極的であった。

結局、社長は詐欺罪および暴行2件・傷害1件で起訴され、それ以外の暴行・強姦事件はすべて不起訴となった。

(テレビドラマ作家・野島伸司氏により「聖者の行進」というテレビドラマが作られています。)


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野田聖子議員、息子を語る。障がいを憎悪する社会とは?・・やまゆり園殺傷事件(5)

2016-10-20 | 心身障がい


 


「相模原殺傷事件 感じた嫌悪「いつか起きる…」 長男が障害を持つ野田聖子衆院議員インタビュー」
                     毎日新聞2016・08・17 



社会に与えた衝撃はあまりにも大きい。

19人の命が奪われた相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」殺傷事件。

殺人容疑で逮捕された容疑者の常軌を逸した言い分に、絶句した人も多い。

重い障害を持つ長男真輝(まさき)ちゃん(5)を育てながら国政で活動する自民党の野田聖子衆院議員は何を語るのだろう。


「相模原殺傷 憎悪犯罪、全力で闘おう」

〇 植松聖容疑者(26)は、事件前の同僚らとの会話や逮捕後の供述で「障害者は安楽死できるようにすべきだ」などと、障害者を大量虐殺したナチスに通じる差別的発言をしていると報じられています。

● 野田氏

思うことがあり過ぎて、考えをまとめられていませんが……。

率直に言うと、通り魔のような無差別殺人と比べて、私は意外性を感じなかった。

「いつかこんなことが起きる」って。

なぜなら息子を通じて、社会の全てとは言いませんが、相当数の人々が障害者に対するある種の嫌悪を持っていると日々感じてきましたから。


〇社会の嫌悪、ですか?

● 野田氏 

息子は、心臓疾患や脳梗塞などで11回もの手術を小さな体で乗り越え、来年からは小学生になります。

その息子の治療について、インターネット上にはこんな声もあります。

ある人は「野田聖子は国家公務員だ。今、財政赤字で税金を無駄遣いしてはいけない、と言われている。

公務員であるなら、医療費がかかる息子を見殺しにすべきじゃないか」と。

これを書いた人は、作家の曽野綾子さんの文章に触発されたようです。


〇確かに曽野さんは著書「人間にとって成熟とは何か」で、野田さんについて、<自分の息子が、こんな高額医療を、国民の負担において受けさせてもらっていることに対する、一抹の申し訳なさ、か、感謝が全くない>などと指摘していますが……。


● 野田氏 

私、曽野さんを尊敬していたから、読んだ後に頭が真っ白になって。

要は障害があると分かっている子供を産んだ、その医療費は国民が負担する、ならば一生感謝すべきだ、と。

私は何を言われても平気ですが、私が死んだ後、一体息子はどうなるのか、と慄然(りつぜん)としました。

健常者と呼ばれる人たちの中には、「障害者の存在は無駄で、国に負荷をかける」と信じている人がいる。

この国から障害者がいなくなることはあり得ないし、高齢化やら何やらで、今は誰もが障害者になる可能性があるのに。

障害者は「可哀そうな存在」ではなく、将来「なるかもしれない自分を引き受けてくれている存在」だ、ぐらいの気持ちになってくれたらな。


「命ってすごいんだぞ」

〇それにしても私たちが税金や国民健康保険料などを納めるのは、お金を納められない人も含めて「誰もが安心して治療や介護を受ける権利」を守り、享受するための当然の行為です。

ある人に感謝されたり、肩身の狭い思いをさせたりする理由はない。

日本は、そんな「成熟した民主国家」になっていた、と信じていました。


● 野田氏

明治時代からなのか、小さい島国で資源もないせいか、日本人は「強さ」への憧れが強い。

「強い何々」という言葉が大好きでしょ?

これだけ高齢化して人口も減っているのに。

コンプレックスの裏返しというか、自分たちが本当は強くないからこそ強くありたい、と。

だから、生まれながらに強くあることができない人への「線引き」があるのかも。

私も当事者になって初めて気づいた。


〇植松容疑者のような考えの人に、野田さんだったらどう語りかけますか?


● 野田氏

うーん。容疑者だけを悪者にして済ませればいい話ではない。

病気に例えれば免疫力が低下した時に菌が入って病気に感染するように、誰もがそうなり得る。

自分が幸せじゃない時に、しゅっとそんな思想が入り込んだりして……。

でも私が嫌なのは、容疑者が大麻を使っていた、タトゥーを入れていた、病院に入っていた、という話ばかりが注目されること。

措置入院のあり方などが議論されていますが、焦点は「手前の段階」と思います。


〇違和感があるわけですね?


● 野田氏

逆にお聞きしますが、この事件でなぜ被害者の名前が報道されないのでしょうか?

被害者が生きてきた何十年という人生が、ないことになっているのでは?

その人生を失った悲しみは、これで分かち合えるのでしょうか?


〇「遺族が公表を望んでおられない」と警察が説明していることもあります。


● 野田氏

「優生思想」的な考えを持つ人たちから、家族が2次被害に遭うからでしょう。

変ですよね。

だからこそ私は逆を行きたい。

息子の障害や写真を公表したのも、その思いから。

国会議員にも家族の障害を隠す人がいるんじゃないかな?

でも隠す必要はない。息子に誇りを持ってほしいとの思いもある。

でも、本音を言えば私も息子も、いつ襲われるか分からないジャングルの中を歩いているような気分ですが。


〇このジャングル、なくならないのでしょうか?


● 野田氏

そんなことはない。

考えてみてください。セクハラは昔は当たり前のように横行していた。そして女性は泣き寝入り。

それが今は「それセクハラ!」って言えるでしょう?

男の本音は昔と同じかもしれないけど、建前は変わりました。そこに意味がある。

4月に障害を理由にした権利や利益の侵害、差別を禁じる「障害者差別解消法」が施行されました。

これも社会を変えるために、ようやく動き出したと感じています。


〇政治にはまだまだできることがある、と?


● 野田氏

そうです。私も嫌いな人はいます。誰しも心に毒はある。

でも大人になるというのは、心の毒を見せないことだと思う。

毒を隠し、建前を大切にできる。それが成熟した大人、国家です。


〇野田さんのブログに登場する真輝ちゃん、相当なワンパクですね?


● 野田氏

家ではわがままなくせに、保育園の女の子にはいいとこを見せたりね。

安倍晋三首相のモノマネをするんです。安倍さんが朝、首相官邸に入る時に報道陣に手を上げる仕草をまねるだけですが。

詳細は控えますが、石破茂さんのモノマネ、これは相当完成度が高いんです、アッハッハ。


〇ぜひ見せてもらいたいです。

● 野田氏

容疑者にも知ってほしかった。命ってすごいんだぞって。

ちょっと前まで体に17本ものチューブをつながれて生きていた子が、今は2本に減って、安倍さんや石破さんのモノマネして悦に入っているんですから。

命の可能性の醍醐味(だいごみ)を、もっと知ってほしかったと思っています。

           (引用ここまで)

            *****



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生きていること自体が尊さである・朝日新聞「耕論」・・相模原やまゆり園殺傷事件(4)

2016-10-18 | 心身障がい



「(耕論)障害があったとしても 奈良崎真弓さん、浅野史郎さん、雨宮処凛さん」
                         朝日新聞2016・08・26


事件に関する3人の方々へのインタビュー記事です。

             ・・・・・

          (引用ここから)


障害があるゆえに命が奪われる社会とは何なのか?

施設で暮らしていた19人が刺殺された事件。

当事者の思い、私たちの心の底にある意識と、どう向き合えばいいのか?


              ・・・


「障害者でよかった、今思う」 奈良崎真弓さん(「本人会サンフラワー会」代表)


事件はテレビのニュースで知りました。

「障がい者なんていなくなればいい」と植松聖容疑者が話していると知り、心が壊れました。

小学5年の時のことを思い出しました。

授業についていけなくなった私に、友だちは「死ね」「障害者はいらない」と言い、離れていきました。

とてもショックでした。

二十数年忘れていた言葉が心にグサッときて、2日間、嘔吐と寒気に襲われました。

家族と暮らす自宅から週に4日働いている花屋へ行く途中、誰かから同じことを言われるのではと。

怖い。

今も夜中に目が覚める。

事件が起きた施設にいたらどうなっていたのか?

「助けて」と言えただろうか? 妄想してしまう。

植松容疑者が障害者の命を否定したことは許せません。

でも、事件を予告した時、なぜ周りの人が注意しなかったのでしょうか?

植松容疑者の人生がダメになったのは、もったいない。

怒りというより悲しいです。

障害者がいなくなればいいと思うことはたぶん、みんなにあると思います。

でも障害者が本当にいなくなったら、どんな社会になるんだろう? 

みんな年をとると体が動かないことがありますよね?

事故で体が不自由になるかもしれない。

その時、「あなたはいらない」と言われたらどう思いますか? 

ピンピン元気な人ばかりだったらロボットの世界のようだと思いませんか? 

街や駅のバリアフリーもないかもしれません。


月に一度、知的障害者の本人が集う会を開いています。

仕事や年金、住居、恋愛といった悩みを話し合ってアドバイスしたり、法律を勉強したり。

家に閉じこもりがちな人には「怖くても飛び出してみようよ。誰かが君を支えてくれる」と励まします。

街に出て、障害のない人と私たちが出会う機会が増えれば、お互いを大事にできると思う。

障害があるとかないとか関係なく、一緒に笑ったり感動したり、時には泣いたり怒ったり。

それだけで、人は生きている価値があるんじゃないでしょうか?

あるがままの命の重さを感じられるんじゃないかと思うんです。

がんばらなくていい。笑ったり泣いたり、できない人には「どうしたの?」と寄り添えばいい。

専門用語や長い文章はわかりづらいし、難しい漢字は書けません。

頭の中で計算するのも苦手。

障害がない自分になりたいと思ったことは何度もあります。

でも、親身に支えてくれる人や、顔の筋肉は動かないけれど目を開けて「きょうも生きている!」と感動させてくれる知的障がいと身体障がいのある男性など、さまざまな人と出会い、人は一人ひとり違っていいと実感できた。

だから今、こう思うんです。「障害者でよかった」、と。

     *

ならざきまゆみ 78年生まれ。知的障害があり、当事者の視点から発信を続ける。自治体の施策作りに関わり、海外で活動も。



              ・・・

「地域での生活で、偏見をなくす」 浅野史郎さん(神奈川大学特別招聘教授)

1970年に厚生省(現・厚生労働省)に入省してすぐの初任者研修で、重症心身障害児施設を見学しました。

生まれて初めて大勢の重症心身障害児を見てショックを受けました。

「この子たちはこうして生きていく意味があるのだろうか」。これが率直な気持ちでした。

「いなくなればいい」とまで考えなくても、「かわいそう」と思う人は少なくないと思います。
 
「かわいそう」と思うのは、ひとえに私たちが障害者に対して「無知・無理解」だからです。

障害者を知ることで、社会からそんな偏見はなくなっていくと思います。

私の考えが変わったのは、福祉課長として北海道庁に赴任し、施設を訪ねて話を聞いて回ってからです。

どんなに重度の障害者でも、昨日できなかったことが今日できるようになることがある。

そんな進歩があれば、生きていて良かったと思う。

その積み重ねが生きていくということなんだと。

障害者の声なき声に耳を傾けているうちに、彼らは施設での生活を望んでいるのだろうかと疑問を持つようになりました。

当時は「収容施設」という言い方をしましたが、施設に死ぬまでいるのが彼らの望みとは思えなかった。

普通の生活は地域の中にある。

それで厚生省の障害福祉課長の時に始めたのが、少人数で一緒に暮らす「グループホーム(GH)制度」です。

制度が始まった89年は100カ所でしたが、今では7000カ所ぐらいになり、着実に地域移行は進んでいます。

在宅や通所のサービスも充実してきました。

2006年に施行された「障害者自立支援法」では、地域生活支援が明確にうたわれた。

30年近くが経ち、「施設から地域へ」という流れは大きく前進しています。

その一方、事件が起きた「津久井やまゆり園」のように、百数十人の障害者が一緒に暮らしている施設がいまだにある。

一気には変われないと思いますが、10年後も今のままでいいのか、真剣に考えなければいけません。

今回の事件を受けて、施設に防犯カメラを増やしたり、塀を設けたりといった警備の強化を進める動きがあります。

しかし、これはまったく反対の方向だと思います。

施設を一種の「要塞」にしてしまえば、「特異な場所に住む特異な人」という認識を再生産しかねません。

なぜ、40人以上もの人が、わずか1時間足らずで傷つけられたのか?

施設によって確保される安全もあると思うが、グループホームでばらばらに暮らしていれば、いっぺんに襲われることはなかったはずです。

集団的で、ともすれば閉鎖的になりがちな施設の住まい方を変えるため、入所者の地域移行を今後も着実に進めていく必要があると思います。

     *

あさのしろう 48年生まれ。93年から3期務めた宮城県知事時代に大規模施設に入所する知的障害者の地域移行を進めた。

             ・・・

「「命よりお金」、私たちにも」 雨宮処凛さん(作家・活動家)

植松容疑者の行為は、期待通りの経済的な利益を生まない者は生きる価値がないという、この国の津々浦々にうっすらとはびこる価値観が露骨に表れた最悪の結末です。

介護や医療などの社会保障費は財源がないからと削減され、本来は長寿をことほぐべき高齢者が社会のお荷物のように扱われる。

労働者は過労死寸前まで働かされ、企業の都合で使い捨て。

リストラされた人は時に自殺に追い込まれ、生活保護費も切り下げられています。

経済至上主義の中で、障害者だけでなく、そうでない人の命も、常にお金とてんびんにかけられ、値踏みされているのです。

こうした価値観は1990年代後半以降、グローバル化に伴い国際競争が進むにつれて顕著になった。

99年に障害者施設を訪ねた石原慎太郎東京都知事は「ああいう人ってのは人格あるのかね」と述べました。

麻生太郎財務相は今年6月、高齢者の老後に言及して「いつまで生きてるつもりだよ」と発言。

でも、この社会は本気で怒らなかった。

「かけがえのない命」と言われる一方、経済が人の命よりも優先される「命のダブルスタンダード(二重基準)」が、まかり通ってきたのです。

植松容疑者が犯行前、衆院議長あてに「日本国と世界のため」と書いたとされるのは、自身の行為の理解者がいると思ったのではないでしょうか?

人の生存は本来、無条件に肯定されるのが大原則。

2歳児は「年収いくら?」などと聞かないし、障害者を差別もしない。

他者をあるがまま承認する価値観は生まれながら持っているのに、成長する過程で奪われていく。

今大切なのは、私たち一人ひとりが意図的に経済的な価値とは異なる視点に立ち返ることです。

自分の中にも弱い立場の人に対する差別の芽があると自覚し、極端な考えにつながらないよう自己チェックする。

少し弱っていたり、生きづらさを感じている誰かへの優しいまなざしを忘れない。

ふだんから命を大切にする実践を積み重ねることでしか、「利益を創出する者だけに価値がある」という暴力的な価値観にあらがえないと思うのです。

かつては私自身も年収で人を見るような人間でした。

でも「反貧困」の運動を通して、障がいのある人が「生きさせろ」と叫んでいるのを見て、働けるかどうかと個人の存在価値は関係ないのだと、人間観が変わりました。

ある集会で出会った難病の女性の姿が忘れられません。

車いすで眠っているように見えた女性は、わずかな筋肉の動きで介助者にこう伝えたのです。

「まだ死んでない」。

会場は笑いに包まれました。

荘厳な儀式のような豊かなコミュニケーションの作法。

ここに生きていること自体の尊さ。

こうした世界をご存じですか?

     *

 あまみやかりん 75年生まれ。貧困、非正規労働などの問題に取り組む。著書に「14歳からわかる生命倫理」など。

              (引用ここまで)

                *****

雨宮処凛さんの最後の一言、

>荘厳な儀式のような豊かなコミュニケーションの作法。
>ここに生きていること自体の尊さ。
>こうした世界をご存じですか?

まさにそうだと思います。

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実名で理不尽さ訴える、匿名報道、障害の有無関係ない・・やまゆり園殺傷事件(3)

2016-10-16 | 心身障がい

「やまゆり園殺傷事件」で、わたしが一番気になったのは、テレビなどで、被害者の方々の名前が一切報道されなかったことでした。

心からお悔やみ申し上げたい、と思ったのですが、どんな方々なのか、見当もつかないことに戸惑いました。

下の記事は、実名を出してお話をしてくださったご一家の記事です。





             ・・・・・

「障害の有無関係ない、実名公表で理不尽さ訴え」
                    読売新聞 2016・08・26


神奈川県相模原市の知的障碍者福祉施設「津久井やまゆり園」で46人が殺傷された事件は26日で発生から1か月となる。

逮捕された元職員は「重度障がい者は周囲を不幸にする。いなくなればいい」との供述を続けており、県警は、異常な差別意識を募らせた末の犯行とみて事件の全容解明を目指す。

標的とされた入所者やその家族は悲しみと怒りを抱えながら、日常を懸命に取り戻そうとしている。

「かんちゃん、元気?」
やまゆり園の家族会「みどり会」前会長の尾野剛志さん(72)と妻のチキ子(74)さんは19日、腹部を深く刺された長男一矢さん(43)の病室を見舞った。

容体が安定したため、園近くの医療機関に転院してきた。

「園に戻れると思っていたのにね」。両親は息子の手を握り、頭をなでた。


成長の思い出

丸々としてよく笑う赤ちゃんだったが、言葉を覚えるのが遅かった。

「精神薄弱児、自閉症」と診断されたのは、3歳児検診だった。

その年、一矢さんは実の父親を水難事故で亡くしている。

剛志さんが、チキ子さんと出会ったのはその1年半後。

自宅の3畳間にちょこんと立っていた一矢さんを見て「なんてかわいい子だろう」と思った。

チキ子さんとクリーニング店を営みながら、新たな家族の暮らしが始まった。

一矢さんは水が嫌いだったから、お風呂はいつも大騒ぎ。それを克服させようと、雨の日にこそ公園に連れ出し、親子でずぶぬれになって遊んだ。

洋服のボタンをとめるのも苦手で、「ぱちん、ぱちん」と口では言うものの、手が動かない。

半年後、初めてうまくできた時はみんなで大喜びした。

一矢さんの日常の歩みが、大切な思い出として家族の記憶に刻まれた。



世間の目

「手がかかる分、かわいさも人一倍」。

そう家族に映った一矢さんに対し、世間の目は違った。

小学生の時、通学路の小川に葉っぱを流して遊んでいると「なにか捨てていましたよ」と電話がきた。

近所の家の前でアリを捕まえれば「なにか盗んでいきました」。

電話はすべて匿名で、「野放しにせず、施設に入れろ」と吐き捨てられたこともあった。


中学生の途中から支援施設に入所した。

一時帰宅すると、抱き着いて喜びを表してくれたが、両親の体はアザだらけになった。

施設から「自宅に戻るのは難しいのでは」と提案され、「正直ホッとした部分もあった」と剛志さんは明かした。

23才でやまゆり園に移ると、少しずつ環境に慣れ、園を我が家と思うようになった。

安心と少しの寂しさが交錯し、「できるだけたくさん会いに行こう。帰ってくる日はずっとかまってあげよう」と、チキ子さんと約束しあった。

そんな暮らしを続けて20年。

理不尽な事件が家族を襲った。


笑顔に頬ずり

一命を取り留めた一矢さんは病室で「お父さん、お父さん」と笑顔を見せた。

剛志さんは抱きしめて頬ずりしながら「一矢は一矢。障害の有無なんて関係ない。

お父さん、お母さんと言ってくれるだけでいい」と改めて思った。

剛志さんは「容疑者への怒りは煮えたぎっているが、憎しみ合いに引きずりこまれてたまるかという思いもある」と語る。

今はまず、一矢さんに安息の場を見つけてやりたいと願っている。





実名公表で理不尽さ訴え


尾野さん夫婦は「かわいい息子が理不尽な被害に遭ったことを訴えたい」と取材に応じた。

夫婦は実名を明かした上で、一矢さんについて語ることで傷がい者差別をなくしたいと願った。

一方、神奈川県警は、犠牲者の実名を公表していない。

知的障がい者が暮らす施設が現場となり、遺族が公表を望んでいないことを理由としているが、異例の対応だ。

実際、遺族も取材に口を閉ざしている。

やまゆり園に36年勤務した元職員の太田さんは「被害者が、どんな人だったかを伝えるためにも実名を公表すべきだ」と訴える。

20年近く園にボランティアとして携わった80代の女性は、入所者の安否が今も分からない。

「障がい者だから匿名とは、人権を軽く見ているのではないか」と感じるが、障がい者が好奇の目にさらされることも知っており、胸中は複雑だ。

諸沢英道・常盤大元学長(被害者学)は「実名報道で死者の尊厳が傷つけられる恐れはないが、遺族らが強く望むなら尊重すべきだろう」と指摘。

「警察が氏名を伏せると報道機関との接触が困難になり、遺族の選択枝を狭めてしまう。

警察発表は実名で、報道機関が遺族らに配慮しつつ、匿名か実名かを判断すべきではないか」と話している。

           ・・・・・

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相模原やまゆり園殺傷事件(2)・・人権考える動き広がる・追悼集会やライブ企画

2016-10-13 | 心身障がい


               ・・・・・

「相模原殺傷1か月 命、人権考える動き広がる・・追悼集会やライブ企画」
                        読売新聞 2016・08・27


19人が死亡、27人が重軽傷を負った相模原市緑区の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」の殺傷事件。

26日で発生1か月を迎えたが、犠牲者の死を悼む献花は絶えない。

障害者の団体による追悼集会やライブイベントも企画され、事件を機にあらためて、命の大切さや人権を考える動きが広がっている。

知的障害を持つ当事者らが1000人規模で集まり、課題などを話し合う「ピープルファースト大会in横浜」(9月21、22日)では、一部のプログラムを変更。

横浜市中区の大さん橋ホールで開く全体会(同21日)で事件概要を報告し、花と折り鶴をささげて犠牲者を追悼する。

会場では、匿名報道などをテーマにディスカッションも実施。

障害者が希望を持って生きることができる社会の実現に向けた宣言も行う予定だ。

「第22回 ピープルファースト大会 in 横浜」HP
http://p1styokohama.wixsite.com/people-first


      ・・・

22年前に秦野市で誕生し、障害者と健常者のメンバーでつくるロックバンド「サルサガムテープ」は9月4日、東京都渋谷区のライブハウス「渋谷ラ・ママ」で、追悼ライブを開催する。

同バンドは事件を受け、ホームページで緊急メッセージを発表。

「平和とほほえみを生みだす人たちが、なぜ惨殺されなければならないのか」と憤り、「犠牲になられた方々の無念に、深い傷を負われた方々の苦しみに、祈りとロックンロールをささげましょう」と訴えた。



バンドリーダーのかしわ哲さん(66)は「障害を持った人たちの人生が、どうして不幸だと言えるのか。

他人が決めつけるのは間違っている。

今だからこそ、ロックで前向きなメッセージを送りたい」と思いを語る。

「サルサガムテープ」HP
https://salsagumtape.tumblr.com/


         ・・・

事件発生1か月となった26日、やまゆり園の正門前に設けられた献花台では、花を手向けて犠牲者を悼む人の姿が見られた。

NPO法人・自立生活センター立川(東京都立川市)の理事長を務める奥山葉月さん(46)は、自身も
骨形成不全症を患って車いす生活を続けている。

「障害を持つ仲間がこんな目に遭って、怖かっただろうなと思う。家族もつらいだろう」と悔しさをにじませた。

障害者を支援する立場としても「障害者が生きづらくならないか、影響を心配している」と言い、

「障害者が社会に不利益をもたらすという考えを持つ人は、見方を変えるべき。私たちが発信していかなくては」と力を込めた。


黒岩神奈川県知事は同日、「引き続き入所者やご家族、職員への支援に全力をあげていく。園の再生に向けた取り組みも本格的に進める」とのコメントを出した。

施設機能の再建を目指す津久井やまゆり園は、体育館などに一時避難する入所者30~40人を月内に「分園施設」に移す計画だ。

県によると、26日現在、34人が他の県立施設などに移動し、92人が園内で暮らす。

園や県などは、体育館で避難生活を送る入所者を中心に、園に近い施設に集団で移り、この場所を分園として扱う準備を進めている。

慣れ親しんだ担当職員も一緒に移るという。

移動する職員は20人程度を想定。

「事件直後に現場を見た職員が一時的に園を離れることで、心理的負担が軽くなることも期待している」(県幹部)という。

一方、園を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の米山勝彦理事長は26日、「日がたつほど、悲しみと卑劣な行為への強い憤りを抑えることができない。事件を防げなかったのは痛恨の極みであり、亡くなった方がたの冥福を祈る」とのコメントを出した。

同会と県は同日、一部の遺族と面会。

面会は今月中旬に始まり、関係者によると、法人や県幹部がおくやみを伝え、犠牲者の「送る会」について意見交換したという。

          ・・・・・


上の記事を読むと、各地で追悼集会が開かれているということではありますが、やまゆり園自体では犠牲者の追悼式あるいは「送る会」が行われたのか、どうなのかがわからないという、不思議な感じがしました。

次は、上の記事に紹介されているライブイベントの記事です。




「障害者も一緒、音を楽しむ・・健常者と混成バンド 追悼ライブ」

                   読売新聞2016・09・06

相模原殺傷事件を受け、障がい者と健常者で編成するロックバンド「サルサガムテープ」が4日、東京都渋谷区のライブハウスで、犠牲になった19人を追悼するライブを開いた。

♪ ぼくなら そんなことはしないさ
 
  わらって ゆるしてやるさ

  しかえしなんか しないのさ
  
  それが ぼくたちなのさ



平和や友愛の心を込めたオリジナル曲「ぼくたちのこたえ」を演奏すると、満員の会場が歓声で答えた。

メンバー以外の障がい者らもステージでダンスを披露。

犠牲者の冥福を祈り、「障がい者も健常者も楽しさを分かち合うことができる」と訴えた。

バンドは、NHKの「うたのお兄さん」だったミュージシャン・かしわ哲さん(66)が22年前神奈川県秦野市でい知的障がい者たちと結成した。

現在のメンバー20人のうち13人は障害があり、バケツに粘着テープを貼った太鼓などを担当。

事件が起きたやまゆり園でも数回ライブを開き、入所者には元メンバーもいる。

逮捕された植松聖容疑者は「障がい者はいらない」「不幸をつくる人たち」などと供述しているが、この日のライブ会場に、障がい者と健常者を隔てる壁は存在しなかった。

脳性まひで幼い頃から車いすで生活してきたボーカルのYOUGOさん(23)は、ライブを終え、「音楽で誰とでもつながれることが実感できた」と充実感に浸った。

児童発達支援管理責任者として障がい児の支援に取り組んでいる笹本智哉さん(29)は、やまゆり園でも披露したというダンスで盛り上げ、「今回の事件で仲間が傷つけられた怒りや悲しみを、音楽で幸せな方向に向けたい」と話していた。

               ・・・・・

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相模原やまゆり園殺傷事件(1)・・犯人の声明文

2016-10-11 | 心身障がい


この夏、わたしが一番おどろいた出来事は、相模原の知的障がい者施設でおきた、突然の大量殺人事件でした。

若者とはいえ、一人で45分間に46人も殺傷するという体力と気力が、どこから出てくるのかと驚きました。

いったいなぜ、そんなことをしようと思うのか、犯人の犯行声明ともいえる手紙を、わたしは幾度も読み返しました。

戦後の殺人事件の殺人数としては最悪だということですが、事件以来、さまざまなことが思われ、ずっと心にかかっています。

まずは、犯人の犯行声明の手紙を掲載します。

奇妙な論理ではありますが、趣旨は一貫しており、犯人が手紙の中に書いているように、精神疾患として無罪になるとは思えない、、と思いますが、その奇妙さを、わたしは検証してみたいと思っているのです。


             *****

           (引用ここから)

植松容疑者が書いた手紙(全文)

以下は1枚目の内容。

衆議院議長大島理森様(1枚目)

この手紙を手にとって頂き本当にありがとうございます。

私は障害者総勢470名を抹殺することができます。

常軌を逸する発言であることは重々理解しております。

しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。

理由は世界経済の活性化、本格的な第三次世界大戦を未然に防ぐことができるかもしれないと考えたからです。

障害者は人間としてではなく、動物として生活を過しております。

車イスに一生縛られている気の毒な利用者も多く存在し、保護者が絶縁状態にあることも珍しくありません。

私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。

フリーメイソンからなる●●●●が作られた●●●●●●●●を勉強させて頂きました。

戦争で未来ある人間が殺されるのはとても悲しく、多くの憎しみを生みますが、障害者を殺すことは不幸を最大まで抑えることができます。

今こそ革命を行い、全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時だと考えます。

日本国が大きな第一歩を踏み出すのです。

世界を担う大島理森様のお力で世界をより良い方向に進めて頂けないでしょうか。

是非、安倍晋三様のお耳に伝えて頂ければと思います。

私が人類の為にできることを真剣に考えた答えでございます。

衆議院議長大島理森様、どうか愛する日本国、全人類の為にお力添え頂けないでしょうか。何卒よろしくお願い致します。


植松聖の実態(2枚目)


私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。

全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。

今までの人生設計では、大学で取得した小学校教諭免許と現在勤務している障害者施設での経験を生かし、特別支援学校の教員を目指していました。

それまでは運送業で働きながら●●●●●●が叔父である立派な先生の元で3年間修行させて頂きました。

9月車で事故に遭い目に後遺障害が残り、300万円程頂ける予定です。

そのお金で●●●●の株を購入する予定でした。

●●●●はフリーメイソンだと考え(●●●●にも記載)今後も更なる発展を信じております。

外見はとても大切なことに気づき、容姿に自信が無い為、美容整形を行います。

進化の先にある大きい瞳、小さい顔、宇宙人が代表するイメージ

それらを実現しております。私はUFOを2回見たことがあります。未来人なのかも知れません。

本当は後2つお願いがございます。

今回の話とは別件ですが、耳を傾けて頂ければ幸いです。何卒宜しくお願い致します。


医療大麻の導入

精神薬を服用する人は確実に頭がマイナス思考になり、人生に絶望しております。

心を壊す毒に頼らずに、地球の奇跡が生んだ大麻の力は必要不可欠だと考えます。

何卒宜しくお願い致します。

私は信頼できる仲間とカジノの建設、過すことを目的として歩いています。

日本には既に多くの賭事が存在しています。

パチンコは人生を蝕みます。

街を歩けば違法な賭事も数多くあります。

裏の事情が有り、脅されているのかも知れません。

それらは皆様の熱意で決行することができます。

恐い人達には国が新しいシノギの模索、提供することで協調できればと考えました。

日本軍の設立。

刺青を認め、簡単な筆記試験にする。


出過ぎた発言をしてしまし、本当に申し訳ありません。

今回の革命で日本国が生まれ変わればと考えております。


作戦内容(3枚目)


職員の少ない夜勤に決行致します。

重複障害者が多く在籍している2つの園【津久井やまゆり、●●●●)を標的とします。

見守り職員は結束バンドで身動き、外部との連絡をとれなくします。

職員は絶対に傷つけず、速やかに作戦を実行します。

2つの園260名を抹殺した後は自首します。

作戦を実行するに私からはいくつかのご要望がございます。

逮捕後の監禁は最長で2年までとし、その後は自由な人生を送らせて下さい。

心神喪失による無罪。

新しい名前(●●●●)、本籍、運転免許証等の生活に必要な書類、美容整形による一般社会への擬態。

金銭的支援5億円。

これらを確約して頂ければと考えております。

ご決断頂ければ、いつでも作戦を実行致します。

日本国と世界平和の為に何卒よろしくお願い致します。


        (引用ここまで・写真は記事と関係ありません)

       
            *****


「ご決断いただければ、いつでも作戦を実行致します」と書いてありますので、犯人は、森衆議院議長により依頼されたと判断したのでしょうか?

手紙を渡したのが2月で、事件をおこしたのが7月。

彼は、なにをしようとしたのでしょうか?


>私は大量殺人をしたいという狂気に満ちた発想で今回の作戦を、提案を上げる訳ではありません。

>全人類が心の隅に隠した想いを声に出し、実行する決意を持って行動しました。

全人類が心の隅に隠した想い。。

全人類の想い、、では決してないけれど、人類史の中にある、障がい者の歴史を考えてみようと思いました。



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