最近のニュースで頻繁に目にする言葉「心の闇」。衝撃的な事件が起こるたびに犯罪者の「心の闇」が取り上げられる。この言葉を聞くたびに私は違和感を覚える。「心の闇」とはなんなのか?
ショッキングな事件が起きると、なぜそのような事件が起きたのか気になるのは普遍的な心情だと思う。この「なぜ」の中核を犯人の動機として一般的には報道されている。例えば、憎しみから人を殺した者の、その憎しみの内実を掘り下げ、いかにその憎しみが蓄積されたのかを報道したりする。またその犯人の育ちや性格から動機に迫ろうとする。しかし、どんなに肉薄しようとその全てを解明することはできない。そこで「心の闇」という言葉を使って、届かない部分を埋めようとする。
程度の差はあれ、人は誰もが憎しみを抱く。だが、憎しみを抱いた者全てが人を襲うわけではない。そして、憎しみと犯行の狭間を乗り越えるのは、単に憎しみの量の多寡ではない。なぜ一線を越えてしまうのか、その解明は容易ではない。育ちや性格はその理由の一端にはなるだろうが全てではない。
実際にはどんな驚くべき事件でも、犯行の動機が全く理解できないという事件はほとんどない。人々が分からないのは、なぜ犯罪を犯したかというより、なぜ犯罪をやめることができなかったのかであろう。それは人々が自制する心を持っているからだ。事件によっては、その犯罪を、仕方ないことと捉えることもある。「なぜ」という想いが残るのは、動機の謎ではなく、動機の弱さによってである。なぜこの程度の動機でそのような犯罪を犯してしまうのか?
では、動機から犯罪に及ぶ溝を埋めるものが「心の闇」なのか?
人の心は複雑で矛盾に満ち、様々な想いが常に変化しているものだ。自分自身の心を完全に把握することはできないし、ましてや他人の心を完璧に理解することなどできない。ただ人として共通するものは多いし、言語や文化、時代、地域などが同じならばその共通性はより高まる。だから人は自身の心の動きを知ることで他人の心を類推することができるし、同じ思いを共感できたりする。
「心の闇」は本来、人の心の中に宿る負の感情や欲望を指していた。誰もが持つそうした感情や欲望を、通常、人は社会生活の中で表沙汰にせず隠して生きている。そして社会のルールの範囲内で、そうした感情や欲望を発散し、心をコントロールできるようにしている。
だから、凶悪な犯罪から学ぶべきことは、動機の内容以上に、動機と犯行までの距離の問題であり、犯行へのハードルの高さを引き上げる方法である。「心の闇」は犯人の心理を理解不能と位置づけ、こうした学ぶべき経験を考える機会を放棄しているように思えてしまう。
犯罪を犯した人の心を全て理解できないのは当然だ。動機の全てなんて、本人でさえつかめると思えない。そうした分からない部分を「心の闇」という言葉で片付けるのでなく、分かっていることから事件の経験を生かす道を考えるべきだ。分からないことは分からないとするのが学問の初歩だ。分かったふりをして語ることは論外だが、分からないことをぼかしたまま語ることも決して本質に正しく迫ることにはならない。
「心の闇」の弊害として、「心の闇」を持つものが犯罪者といった誤った認識が広がることだ。「心の闇」は悪ではない。負の感情は時にパワーとなる。大切なことは、いかに自分の心をコントロールするかということと、自分の心を通して他人の心を知ることだ。それこそが犯罪への抑止となる。
現在治安は社会の大きな関心事だ。警察、刑法、裁判、受刑などのシステムは社会の変化に十分に対応できていず、その改正が急務であることは間近いない。だが、そうしたシステムの変革だけでは犯罪の増加に対応できない。犯罪の増加に歯止めをかけるには、単純な倫理や道徳では担えない。マスメディアの果たすべき役割は重いが、それは個別の事件を真摯に扱うことによってのみ達成できる。「心の闇」という曖昧な言葉で問題をぼかすことなく、丹念に分かることと分からないことを見極める努力が必要だろう。
ショッキングな事件が起きると、なぜそのような事件が起きたのか気になるのは普遍的な心情だと思う。この「なぜ」の中核を犯人の動機として一般的には報道されている。例えば、憎しみから人を殺した者の、その憎しみの内実を掘り下げ、いかにその憎しみが蓄積されたのかを報道したりする。またその犯人の育ちや性格から動機に迫ろうとする。しかし、どんなに肉薄しようとその全てを解明することはできない。そこで「心の闇」という言葉を使って、届かない部分を埋めようとする。
程度の差はあれ、人は誰もが憎しみを抱く。だが、憎しみを抱いた者全てが人を襲うわけではない。そして、憎しみと犯行の狭間を乗り越えるのは、単に憎しみの量の多寡ではない。なぜ一線を越えてしまうのか、その解明は容易ではない。育ちや性格はその理由の一端にはなるだろうが全てではない。
実際にはどんな驚くべき事件でも、犯行の動機が全く理解できないという事件はほとんどない。人々が分からないのは、なぜ犯罪を犯したかというより、なぜ犯罪をやめることができなかったのかであろう。それは人々が自制する心を持っているからだ。事件によっては、その犯罪を、仕方ないことと捉えることもある。「なぜ」という想いが残るのは、動機の謎ではなく、動機の弱さによってである。なぜこの程度の動機でそのような犯罪を犯してしまうのか?
では、動機から犯罪に及ぶ溝を埋めるものが「心の闇」なのか?
人の心は複雑で矛盾に満ち、様々な想いが常に変化しているものだ。自分自身の心を完全に把握することはできないし、ましてや他人の心を完璧に理解することなどできない。ただ人として共通するものは多いし、言語や文化、時代、地域などが同じならばその共通性はより高まる。だから人は自身の心の動きを知ることで他人の心を類推することができるし、同じ思いを共感できたりする。
「心の闇」は本来、人の心の中に宿る負の感情や欲望を指していた。誰もが持つそうした感情や欲望を、通常、人は社会生活の中で表沙汰にせず隠して生きている。そして社会のルールの範囲内で、そうした感情や欲望を発散し、心をコントロールできるようにしている。
だから、凶悪な犯罪から学ぶべきことは、動機の内容以上に、動機と犯行までの距離の問題であり、犯行へのハードルの高さを引き上げる方法である。「心の闇」は犯人の心理を理解不能と位置づけ、こうした学ぶべき経験を考える機会を放棄しているように思えてしまう。
犯罪を犯した人の心を全て理解できないのは当然だ。動機の全てなんて、本人でさえつかめると思えない。そうした分からない部分を「心の闇」という言葉で片付けるのでなく、分かっていることから事件の経験を生かす道を考えるべきだ。分からないことは分からないとするのが学問の初歩だ。分かったふりをして語ることは論外だが、分からないことをぼかしたまま語ることも決して本質に正しく迫ることにはならない。
「心の闇」の弊害として、「心の闇」を持つものが犯罪者といった誤った認識が広がることだ。「心の闇」は悪ではない。負の感情は時にパワーとなる。大切なことは、いかに自分の心をコントロールするかということと、自分の心を通して他人の心を知ることだ。それこそが犯罪への抑止となる。
現在治安は社会の大きな関心事だ。警察、刑法、裁判、受刑などのシステムは社会の変化に十分に対応できていず、その改正が急務であることは間近いない。だが、そうしたシステムの変革だけでは犯罪の増加に対応できない。犯罪の増加に歯止めをかけるには、単純な倫理や道徳では担えない。マスメディアの果たすべき役割は重いが、それは個別の事件を真摯に扱うことによってのみ達成できる。「心の闇」という曖昧な言葉で問題をぼかすことなく、丹念に分かることと分からないことを見極める努力が必要だろう。