奇想庵@goo

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心の闇

2005年01月23日 19時07分44秒 | ニュース
最近のニュースで頻繁に目にする言葉「心の闇」。衝撃的な事件が起こるたびに犯罪者の「心の闇」が取り上げられる。この言葉を聞くたびに私は違和感を覚える。「心の闇」とはなんなのか?

ショッキングな事件が起きると、なぜそのような事件が起きたのか気になるのは普遍的な心情だと思う。この「なぜ」の中核を犯人の動機として一般的には報道されている。例えば、憎しみから人を殺した者の、その憎しみの内実を掘り下げ、いかにその憎しみが蓄積されたのかを報道したりする。またその犯人の育ちや性格から動機に迫ろうとする。しかし、どんなに肉薄しようとその全てを解明することはできない。そこで「心の闇」という言葉を使って、届かない部分を埋めようとする。
程度の差はあれ、人は誰もが憎しみを抱く。だが、憎しみを抱いた者全てが人を襲うわけではない。そして、憎しみと犯行の狭間を乗り越えるのは、単に憎しみの量の多寡ではない。なぜ一線を越えてしまうのか、その解明は容易ではない。育ちや性格はその理由の一端にはなるだろうが全てではない。

実際にはどんな驚くべき事件でも、犯行の動機が全く理解できないという事件はほとんどない。人々が分からないのは、なぜ犯罪を犯したかというより、なぜ犯罪をやめることができなかったのかであろう。それは人々が自制する心を持っているからだ。事件によっては、その犯罪を、仕方ないことと捉えることもある。「なぜ」という想いが残るのは、動機の謎ではなく、動機の弱さによってである。なぜこの程度の動機でそのような犯罪を犯してしまうのか?

では、動機から犯罪に及ぶ溝を埋めるものが「心の闇」なのか?
人の心は複雑で矛盾に満ち、様々な想いが常に変化しているものだ。自分自身の心を完全に把握することはできないし、ましてや他人の心を完璧に理解することなどできない。ただ人として共通するものは多いし、言語や文化、時代、地域などが同じならばその共通性はより高まる。だから人は自身の心の動きを知ることで他人の心を類推することができるし、同じ思いを共感できたりする。
「心の闇」は本来、人の心の中に宿る負の感情や欲望を指していた。誰もが持つそうした感情や欲望を、通常、人は社会生活の中で表沙汰にせず隠して生きている。そして社会のルールの範囲内で、そうした感情や欲望を発散し、心をコントロールできるようにしている。
だから、凶悪な犯罪から学ぶべきことは、動機の内容以上に、動機と犯行までの距離の問題であり、犯行へのハードルの高さを引き上げる方法である。「心の闇」は犯人の心理を理解不能と位置づけ、こうした学ぶべき経験を考える機会を放棄しているように思えてしまう。

犯罪を犯した人の心を全て理解できないのは当然だ。動機の全てなんて、本人でさえつかめると思えない。そうした分からない部分を「心の闇」という言葉で片付けるのでなく、分かっていることから事件の経験を生かす道を考えるべきだ。分からないことは分からないとするのが学問の初歩だ。分かったふりをして語ることは論外だが、分からないことをぼかしたまま語ることも決して本質に正しく迫ることにはならない。
「心の闇」の弊害として、「心の闇」を持つものが犯罪者といった誤った認識が広がることだ。「心の闇」は悪ではない。負の感情は時にパワーとなる。大切なことは、いかに自分の心をコントロールするかということと、自分の心を通して他人の心を知ることだ。それこそが犯罪への抑止となる。
現在治安は社会の大きな関心事だ。警察、刑法、裁判、受刑などのシステムは社会の変化に十分に対応できていず、その改正が急務であることは間近いない。だが、そうしたシステムの変革だけでは犯罪の増加に対応できない。犯罪の増加に歯止めをかけるには、単純な倫理や道徳では担えない。マスメディアの果たすべき役割は重いが、それは個別の事件を真摯に扱うことによってのみ達成できる。「心の闇」という曖昧な言葉で問題をぼかすことなく、丹念に分かることと分からないことを見極める努力が必要だろう。


ジャーナリズムの不在

2005年01月21日 23時00分30秒 | ニュース
NHKと朝日新聞の論争は、NHKが公開質問状を公表し、これに朝日新聞がどう答えるかという状況になった。

朝日新聞社への公開質問状

昨日、「虚報」で述べたとおり、朝日新聞の報道内容の信憑性ばかりが注目され、政治家による番組への介入の有無といった問題が霞んでしまっている。朝日新聞もまた、今回の件に対し詳細な調査が必要だろう。現状、国民からの信頼の低下は避けられそうにない。

ネット上でもこの一連の問題に関して様々な言説がなされている。ただ残念ながら、ネット上の大量の情報の中から有益な意見を探すことは不可能に近い。多数のノイズによって読むに値する言葉が埋もれてしまうことは、昔から言われてきたことだが、現在ますますその傾向が顕著になっている。
ブログはすぐれた意見を掘り起こす装置として有効と考えられるが、少なくとも日本においてそれが機能しているとは言い難い。例えば、この問題に対し、ジャーナリズムの必要性を理解した発言を探すだけでも困難だ。

また、よく言われることだが、ネット上の「右傾化」も深刻だ。この右傾化は、ムード的で、戦後民主主義の鏡像のような存在に感じる。そこには、責任も愛国の意味を分からない、ただ漠然とした国家主義があり、そのリスクを理解できているとも思えない。

メディア、特にジャーナリズムの不在が日本にあるとしたら、それは日本人自身が原因である。政治権力や経済界に対して、国民が監視を怠ればその報いは当然国民が受ける。一方で、ジャーナリズムを担うべき存在は、右や左といった古い概念に縛られてしまっている。更に「ジャーナリスト」として特権階級化し、国民から乖離している傾向も見られる。

なお、

週刊!木村剛: [週刊!岡本編集長] NHK盛り上がってますね

で、

では現在の日本で第四権力のメディアを看視するような強力な主体が存在するでしょうか。あるんですね、これが。2ちゃんねるですよ。


という発言が見られるが、私には2ちゃんねるにそんな役割をとてもじゃないが任せられない。巨大な情報源であり、日本のネットの縮図的存在として、有用な情報も含まれているのは確かだが、匿名巨大掲示板の能力を誇大視した意見だと思う。それは2ちゃんねるに限らず、日本においてネットがそれだけの力をまだ持っていない(発揮していない)ことの裏返しでもある。


文字文化は退化しているか?

2005年01月20日 17時46分26秒 | ニュース
昨夜何気なくTVを見ていたら、NHK教育で「人間講座 人間性の進化史~サル学で見るヒトの未来」第2回はじめに言葉ありきを放送していた(再放送)。見たのは後半の一部のみで、内容に批判する権利はないかもしれないが、とても気になったので、あえて意見を述べてみたい。

番組は、

 ケータイ社会になって日本人は、言語を用いたコミュニケーション能力を低下させているのではないか、相手の話や表情や声の調子、場の状況で判断していた人間独自の言葉の能力が衰え、顔文字のような新しい「コトバもどき」をうみだしてきている。人間の言葉は他者と信頼関係を築き、公共空間を創りだしたところに、その独自性があったと正高さんは考える。若者の携帯メールに使われるギャル文字や顔文字は、身内にしか伝わらず、文意より感情を伝えることに主眼があるという点で、サルの警戒音のような「信号」に先祖帰りしているのではないか、と言う。言葉を手がかりに人間らしさとは何かを探る。


というものだった。

昔、マル文字(変体少女仮名)が流行った時も似たような主張があった。こういった字体は社会に入ったら通用しないと言われたが、この文字の使い手は社会では通常の文字を使った。当然である。使い分けすればいいだけの話だ。
身内にしか伝わらない言葉は、ギャル文字に限らず日本中に蔓延している。そうした言葉は身内意識を高めるため多用される傾向にある。最近はむしろそうした言葉の使い分け、状況によってどれだけ使い分けられるかが重要になってきている。

もちろん、語彙の低下は事実である。これは若者に限った話ではない。文化人と呼ばれる人たちでさえ、古典や漢文の教養を身に付けている人はどれだけいるのか?また社会の変化の早さに言葉が追いついていないという事実もある。日々生まれる新しい概念や感覚を表現する言葉が見つからない状況だ。既成の言葉は陳腐化していき、驚異的な速度で消費されてしまった。ケータイやネットなどの新しいプラットホームに適した言葉を必死で作ろうとしている作業の一つとして、ギャル文字や顔文字が生み出され使われている。それを退化と呼ぶのは間違いだ。

顔の見える状況でのコミュニケーションのあり方が衰退しているのは事実だろう。ただだからといって、携帯やネットを無くすことはできない。顔が見えない中でのコミュニケーションのあり方も必要とされているのだ。単純なリアル>ネットという図式はもう通用しないのだから。


「虚報」

2005年01月20日 17時18分15秒 | ニュース
本日発売の「週刊新潮」の新聞広告で『朝日「極左記者」とNHK「偏向プロデューサー」が仕組んだ「魔女狩り」大虚報』の文言により、朝日新聞はこの広告の掲載を断った。

朝日が週刊新潮の広告断る NHK改編問題めぐり

昨日、NHKはこの問題についての記者会見を開いた。

<「ETV2001」を巡る報道に関する記者会見要旨>

また、NHKは朝日新聞に対しての抗議文をサイト上に掲載している。

「朝日新聞社への抗議文(1月14日)」
「朝日新聞社への抗議文(1月18日)」

これに対して朝日新聞は反論を行っている。

番組改変問題 NHKの会見に対する朝日新聞社の反論

この問題の発端である長井暁・教育番組センターチーフプロデューサーの発言内容などはこちら。

NHK特集番組:「偏向」指摘問題 制作責任者が告発会見
NHK「圧力」:海老沢会長の早期退陣訴える 長井暁氏

この告発は、NHK「女性国際戦犯法廷」番組改竄訴訟の高裁審理と深く関わっている。

NHK裁判 ETV2001改ざんの経緯
NHK「女性戦犯国際法廷」番組改竄問題・私家版

「戦争責任」などの微妙な問題を扱ったドキュメンタリー番組制作にあたって、NHKが神経を尖らせていたことは間違いない。

ETV2001の制作経緯

問題点は二つあり、
・内容はどうあれ、ドキュメンタリー番組の取材協力に当たって、制作側から説明された番組内容と著しく異なる放送内容だった場合の是非(現在高裁で審理中)
・放送局の番組制作に対する政治的圧力の有無(今回の告発によって問題化(表面化)した点)
である。

更に、朝日新聞の取材が適正なものであったかどうかという問題が浮上してきた。

まず、第一の制作意図の問題は、制作側の意図と取材される側の意図の食い違いがどの程度まで許されるのかという難解な問題だ。制作側の倫理性を取材される側は信頼するしかない現状であったが、制作サイドも現場レベルと上層部との意識の乖離があり、単純ではない。司法の判断がどうなるか興味深い。
なお、「女性戦犯国際法廷」の内容のせいで番組内容が改変するのは当然という意見も見られるが、それは明らかな論理のすり替えであり、問題の本質を隠す議論だ。

第二の政治家による圧力に関する問題は、NHKの内部調査によって「圧力はなかった」と報告された。ただ放送直前に安倍氏と番組について説明している事実があるなど、すんなりと納得できる内容とは言い難い。第三者機関による更なる調査が必要と感じる。

第三の取材に関する問題は、現実的には言った言わないの水掛け論だ。一連の問題は一般人にはあまりなじみのない問題のため、追及するために勇み足をしてしまった印象が強い。この件が問題の本質をずらし、解明への障害になってしまうと、朝日新聞の責任は重いと言わざるを得ないだろう。


1.17

2005年01月17日 20時12分09秒 | ニュース
大阪だったので、それほどひどい揺れだったわけではないと思う。
自分の部屋の中は積み上げていた本が崩れ、ひどい有様になったが、それだけだった。
ただその時の揺れは今でも忘れられない。
何も出来なかった私だが、忘れないことはできる。
10年、それはひとつの区切りだが、あくまで通過点。
1.17は私にとって何かを見つめなおす日である。


不可解な「『制作現場の自由』論」論

2005年01月15日 14時06分13秒 | ニュース
本日付け読売新聞社説より。

相変わらずと言うべきか、読売新聞の社説で無茶な論理展開が見られた。まあ主筆が主筆だし、何を言おうが相手にする必要もない新聞ではあるのだろうが、それが世界で発行部数一位とか言うのだから始末が悪い。
他の新聞が優れているというわけではないし、個別の記事には素晴らしいものも少なくないのだが、主に社説において牽強付会なきらいが強い。

「不可解な『制作現場の自由』論」では、NHKの内部告発に対する批判から構成されているが、最大の問題となるべき、政治家による介入の部分を、裏付けのない政治家のコメントのみに済ませ、番組内容の偏向を指摘して、この内部告発を一蹴している。論点のすり替えにも程があると思うが、番組内容の一部を示してそれだけでその番組を「偏向」と言い切る読売新聞をどれだけ信用できるだろうか。

報道に完全な中立は存在しない。常にある立場から報道され、様々な批判を受け入れることで「偏向」の軛から脱せる。読売自身中立的立場にはない。現在の日本人の多くに支持されている立場を読売が担っているのも事実である。しかし、だからといって対立する意見を封じていいわけではない。
自身への批判を「時代遅れ」などの言葉で切って捨てる傾向がある読売だが、そうした議論を排除する姿勢は真っ当な民主主義に反し、「自民党の御用新聞」などの風評を生み出す源となっていると言えるだろう。悪しき戦後民主主義の亡霊はそれを批判する急先鋒の読売自身にもいまだまとわりついている。