白夜の炎

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イランはパレスチナ、レバノン、シリア、イラク、イエメンに強力な基盤を築いた/メリム

2016-02-17 14:10:44 | 軍事
「イランはパレスチナ、レバノン、シリア、イラク、イエメンに強力な基盤を築いた
―革命防衛隊サラミ副司令官の証言―
2015年12月16日、マシュハドで第2回バシジ最高会議が開催され、席上イスラム革命防衛隊副司令官サラミ(Hossein Salami)が、シリアに対するロシアの武力介入に伴う中東の地政学的変化を論じた。サラミは、イランが中東で勝利し、〝後裔〟即ちイラン革命の使節が東地中海沿岸に存在することを強調、イランはパレスチナ、レバノン、シリア、イラク及びイエメンに強固な基盤を築いていると述べた。更にサラミは、イランの敵が進退きわまった状態にあると指摘した。彼によると、トルコは地域に覇を唱えようとしたが、その国境から10メートル先にすらインパクトをおよぼすこともできない。サウジアラビアの政策は、イエメン、イラクそしてシリアで後退を重ねるばかりである。アメリカは、中東における影響力の大半を失い、今は只の参加者になってしまった。サラミは、友人を含むイランの力があったからこそ、イランの核交渉チームは交渉を有利に進めることができた、と言った。次に紹介するのは、副司令官の演説内容である※1。


写真①サラミ革命防衛隊副司令官(Image: Tasnimnews.com)

トルコ、サウジ、アメリカを批判する革命防衛隊副司令官

「イスラムが勃興する度に、多神教者とイスラムの敵は、神の宗教に対して武力で攻撃してくる。しかし、このような妨害があるにも拘わらず、イスラムはジハードの道をしっかり固め、影響圏をひろげ、衝撃域を拡大している。

イスラムを広げたのは、アブ・タリブ(Shaab Abi Taleb) の時代経済制裁を経験し、ムハンマドと共にメッカからメディナへ移住した人々であった※2。イスラム世界域で起きた大規模戦争は、いずれも、イスラムの運命を変えるのを目的としていた。ムスリム打倒の戦争は、ヨーロッパで計画されることすらあった。

イスラム革命の勝利の時(1979年)から、アメリカとシオニスト政権は、14のムスリム国を打撃した。アメリカ単独でもムスリム7ヶ国を攻撃している。しかし、神の恩寵とホメイニ師時代と最高指導者(ハメネイ)時代の(指導者の)祝福を得て、イランはイスラム共和国にたいする敵の戦略の裏をかいたのである。(イランに対する)武力封鎖のピーク時にことごとく破砕したのは、まさに芸術的であり、神業といえた。敵の火砲がアフワーズその他の諸都市を狙っていた。勿論、イスラム世界の政治地図からイスラムと呼ばれる概念を抹殺するのが狙いであった。しかし、イスラムそして革命が、戦場の状況を変えることができたのである。

今日、我々の行動半径がどうなっているのか。東地中海沿岸に我革命の子供達がいて、この地域の状況をモニターしている。列強がつくりあげた秩序は、完全に崩壊した。紅海、地中海、レバノン、シリアそしてバーレーンは、(かつてアメリカの影響力にあったが)、最早その状態にない。彼等(アメリカ)は広大な地域を失った。今日我々は複雑な展開に直面している。しかし我々は、その状況展開を研究すると、神の御加護があることを認識するのである。勝利は我々の手にある。

我々に歯向かってくるすべての敵には、共通点がある。全員が戦略的な行き詰まりに逢着し、今後自分達の政策をどうしていいのか判らずに、うろうろしている。まさに低迷状態である。トルコを見るのがよい。この国は地域大国として振舞いたいのだが、国境から10メートル先に対してすら、何のインパクトも与えることができない。環境がととのった、役割の拡大とその行使の時がきていると判断したのであろうが、5年間財政、政治及び経済上いろいろやってはみたが、どの分野でも全然成功していない。トルコは戦略的な能力がない。きらびやかな軍隊を以てしてもそうである。威張ったり威嚇したりするのは、アメリカのうしろ盾があってのことである。恰好のよい兵器を揃えたきらびやかな軍隊をもっているが、クルド族ともまともに戦えないのである。

サウジアラビアはどうか。これもアメリカの力に頼っている。イスラム国イランは急速に拡大し、巨大な力を(イランの)国境を越えた地域に築きあげた。パレスチナ、レバノン、シリア、イラクそしてイエメンに築いたのである。地図でイランの勢力と傲慢野郎(アメリカ)の展開との拮抗状況を見れば一目瞭然である。イランがアメリカにその戦略を変えさせたことが判る。

サウジアラビアは、イエメンで戦うため原油価格を35ドル/バレルでとめた。しかしサウジは、そのイエメンでも足をとられてしまった。イエメン域は、サウジにとって泥沼と化し、そこにはまりこんで身動きできないのである。(サウジの)政策はイラクとシリアでも破綻した。我等の聖なる体制との代理戦争でイスラム世界に覇を唱えようとしたが、残念ながらそれで終りである。彼等はガラスの城に住んでいる。我々とはタフな領域で戦うことができない。原油価格は安くなるばかりで、サウジが一番大きい損失をこうむった。財源は劇的に少なくなっている。

アメリカはどうか。IS(イスラム国)の力が増大し、アメリカの大きい脅威になっている。アメリカはISを攻撃する。しかるに我々がISを攻撃すれば、アメリカはISを支援する。面白い構図ではないか…シリアにおける(アメリカの)戦略は、彼等にとって重い問題になってしまった。アメリカは、アサド大統領が地位にとどまるべきかそれとも退陣すべきか、判らない。イラクの関しても然り、アメリカはとどまるべきか撤収すべきか迷っているのである。

アメリカは只の参加者になってしまった。我々は、彼等の活動を分析している。その地上部隊は強くない。この領域における(武力)のバランスは我々に有利である。イニシアチブをとれる者が政治領域で力を得る。これは、核の交渉で証明されている。(イラン・イスラム)革命の子供達が、抵抗枢軸のなかで極めて強大な力をつくりあげ、イランの核交渉団に交渉の場で援護射撃をしてくれたのである。

テロリストとその支援者は、誰かが預言者ザイナブ※3を殴れた時代は終ったことを、知る必要がある。そのような奴は我々が八つ裂きにしてやる。我々が許さない」。

※1  Tasnimnews.com/fa/news, 16 December, 2015.

※2 アブ・タリブは―預言者ムハンマドの叔父でアリーの父親。アリーはシーア派の教えによると、ムハンマドの正統な後継者―若い頃のムハンマドの保護者として行動した。ムハンマドがイスラムの伝道を始めると、クライシュ族の偶像崇拝者達が、アブ・タリブとその一族との商取引をボイコットすべく、ほかの部族を糾合した。

サラミは、歴史上の類似性を引合いにだして、〝経済制裁〟に苦しんだ初期ムスリム(シーア派にとって重要性のあるアブ・タリブを強調する)と、今日経済制裁をうけたシ      

ーア派のイランを、同列におくのである。

※3 アリー ・イブン・タリブの娘で預言者ムハンマドの孫娘である人物をさしている、と考えられる。ダマスカス近郊にあるその墓は、シーア派にとって重要な巡礼地である。」

http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP630416

初のロシア人東大生エリセーエフ/ロシアNOW

2016-02-17 14:06:20 | 国際
*ここで紹介されるエリセーエフの実家は帝政時代の大富豪。しかし創設者は元農奴だった。身を起こし立ち上げた事業は、今改めて注目されている。建物も美しいのでぜひご覧ください。
 →http://jp.rbth.com/multimedia/pictures/2016/02/13/567115

「 エリセーエフは1889年1月1日、サンクトペテルブルクの富豪の商家に生まれた。父親はサンクトペテルブルクのネフスキー大通りとモスクワのトヴェリ通りの幹線道路で、ロシア最高の食料品店「エリセーエフ商店」を経営していた。現在でも店は残っている。ロシア革命や戦争などで生活が大きく変化する中、店というより美術館といった方がふさわしい、美しいエリセーエフ商店は、100年もグルメ天国となり続けている。

セルゲイ・エリセーエフ

 エリセーエフ一家は、自分の人生だけでなく、自分を取り巻く社会に貢献できる、エネルギッシュで教養の深い人を高く評価していた。セルゲイは子ども時代、外国語の学習に熱心で、しばしばヨーロッパを訪れていた。11歳の時、パリ万博で日本館を見て魅了される。最終的に日本を研究しようと決めたのは、1904~1905年の日露戦争でロシアが敗戦した後。敗因を理解しようとしたのだ。1907年にベルリンに行き、そこで日本語の勉強も始め、1年後に東京帝国大学に入学。

卒業式で驚いた明治天皇

 東大を卒業した初のヨーロッパ人となった。1912年の卒業式で、明治天皇が「この方は?」と上田萬年学部長に質問したことを、セルゲイは後年楽しそうに話していた。「明治天皇があまりにも驚いていたため、まわりは卒業証書を渡すことを遠慮した」 という。

 エリセーエフは成績優秀だった。日本史を隅から隅まで学び、古事記から夏目漱石まで、日本文学の深遠な知識を得た。夏目漱石とは2年の時に知り合い、しばしば遊びに行って芥川龍之介や小宮豊隆などの有名な文学関係者と親交を深めた。大学での忙しい勉強以外にも、日本語を早く自由に話せるようにと、家庭教師を3人雇っていた。そのエネルギーは、人生や家族への愛と同様に尽きることがなかった。ヨーロッパ系美男子で教養のあったセルゲイは、芸者遊びを愛し、東京の美女たちと知り合いになった。


革命後の波乱の亡命生活

 大学卒業後も、2年間東大で松尾芭蕉を研究し、その後ロシアに帰国してサンクトペテルブルク大学の私講師になった(私講師は、教授職には就いていないが、審査には合格して教授資格はもち、教育活動を行っている者の役職名)。

 だが1917年に起こったロシア革命は、そこでの学者としての道を閉ざした。ロシア有数の富豪の息子だったことから、抑圧の対象となり、1920年にフィンランド、その後フランスに亡命。

 パリの街角で東大時代の知り合いである若き外交官(後に首相となる芦田均)と偶然会い、日本大使館に就職。その後ギメ東洋美術館の日本コレクションの管理者となり、次にソルボンヌ大学の教授になった。フランスの日本研究学校の創設に大きく貢献したことから、フランスの市民権を授与され、その後セルジュ・エリセーエフというフランス名で知られるようになる。1934年、ハーバード燕京研究所と中国・日本研究センターの所長になる。


マッカーサーに日本の文化財保護を要請

 アメリカの日本研究界では、父・創設者の一人に数えられている。初期の教え子の中に、エドウィン・ライシャワーがいることを考えると、その功績には納得できる。ライシャワーは優れた日本研究者、駐日アメリカ大使、また1960~1970年代の対日アメリカ政策の立案者の一人である。

 アメリカ人の日本研究家の多くは、第二次世界大戦の時、ダグラス・マッカーサー元帥に助言を行っており、またそれはエリセーエフの教え子、または教え子の教え子であった。私が冒頭に書いた京都の話は、この時期のできごとである。

 後の本人談によると、アメリカ人が京都を攻撃すると考え、マッカーサー元帥にそれをしないよう要請した。攻撃された場合、日本だけでなく、世界の歴史と文化の遺産である数百堂の独特な寺と、数万の一般市民の命が消える。またそのような攻撃があれば、日本人の抵抗は強まるだけだと考えた。エリセーエフがマッカーサー元帥にどれほどの影響を与えたのかは不明。だが京都は攻撃されなかった。

 エリセーエフは1956年、年金生活に入り、その後パリに戻って1975年に生涯を閉じた。最後まで日本から訪れる自身のファンを歓迎し、日本人自身も忘れかけていた明治時代末期の美しい日本語で会話しながら客人を驚かせていた。なぜ救われた金閣寺を、日本の僧侶が燃やしてしまったのかについて、日本のガイドは今でも理解できないでいる。」

http://jp.rbth.com/blogs/2014/07/24/49311