白夜の炎

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8割が偽物? 中国・アリババと4万人の盗賊

2016-02-04 19:15:49 | 国際
「模造品帝国の総帥 ジャック・マーを直撃インタビュー!
中国・アリババと40,000人の盗賊

中国が誇る、世界最大のショッピングサイト「アリババ」。ここが、空前の量のコピー商品や粗悪品を世に送り出している。だが、まがい物を排除すれば「アリババ帝国」は土台から揺らぎかねない―。

ジャック・マー(馬雲)は、弁護士が本当に嫌いだ。彼が築き上げた「アリババ帝国」を、弁護士たちが土台から突き崩そうとしているからだ。

ニューヨークの一流弁護士たちは、「グッチ」や「イヴ・サンローラン」などのブランドを傘下に持つフランスのケリング社の代理人として「マーが商標権を侵害し、模造品を販売した」と訴えている。インタビューの中で模造品問題に触れると、マーはソファから身を乗り出して語気を強めた。「和解する可能性は皆無だ」と。

「敗訴して金を失うかもしれない。だが、威厳と敬意は勝ち取れる」

彼の言う「敬意」は、アリババが運営しているショッピングサイト「タオバオ(淘宝網)」に出店して生計を立てている何十万人もの中国人からのそれを意味している。アリババ傘下のサイトは2014年、3,940億ドルものありとあらゆる商品を売り上げた。この金額は、米ショッピングサイト大手イーベイ(eBay)の実に5倍にのぼる。マーにとって出店者たちは命の源であり、出店者たちにとってマーは中間層への道を開いてくれた「資本主義のヒーロー」なのだ。

ただし、ここには公にされることのない真実がある。アリババ帝国はかなりの程度、違法な模造品の上に築かれてきたのだ。

出品されるブランド品の8割が偽物?

ハンドバッグに自動車部品、スポーツウェア、宝飾品と、タオバオには常に数百万点の疑わしい商品が売りに出されている。試しにタオバオ上で検索語に「グッチ」を指定し、希望の価格帯を真正品よりもはるかに安い300元(50ドル)未満に設定したところ、3万件もの検索結果が表示された。4点を出品していた業者に確認したところ、デザインは真正品と同じだという。残る大半もオリジナルのデザインを取り入れつつ、たとえばハンドバッグの絵柄の「G」という文字を「D」に差し替えるといった微修正を施したものだった。

有名ブランドがネット上の模造品と戦うのを支援しているネットネームズ社によると、ブランド側はタオバオで自社製品として売られている商品のうち、8割は偽物だと見なしている。

スニーカーメーカーの「ニューバランス」で、グローバルでのブランド保護の責任者を務めるダン・マッキノンも、タオバオ出品者の中には自社公認の業者は1社もないことから、ニューバランス製として販売されている商品の8割以上は偽物と見ている。

その一方で、アリババ側は模造品比率の推定値を公表していない。それは無理な相談なのだ。

マーは14年、ニューヨーク証券取引所で世界最大のIPOを成功させ、250億ドルを調達した。同年、アリババの売り上げは直近2年間の倍以上となる123億ドルに達し、純利益は3倍近い39億ドルとなった。マーの個人資産も218億ドルだ。

アリババが傘下のショッピングサイトから模造品を一掃したら、何が起こるのだろうか。知的所有権が専門のベテラン弁護士ハーレー・リューインは言う。

「彼らは破綻するだろう」

それでは、マーには何の得もない。

しかし一方で、彼にはアリババを「中国の巨人」から「世界を支配する小売企業」へと大きく飛躍させたいという野心がある。そのためには、あらゆる国の消費者と信頼関係を築くことが肝要だ。悪評が立てば、その信頼は損なわれる。

日産自動車の北米部門でブランド保護を担当するウィリアム・フォーサイスは言う。
「彼が世界展開を図るつもりなら、国際的な商標を保護するシステムを導入する必要があるでしょう」

だが、これは難題だ。偽物を取り締まりながら、なおかつサイト内の小規模業者を潰さずにおくという舵取りができるだろうか。

「グッチにしても他のブランドにしても、なぜバッグにそんな高い値段をつけられるんだ?どうかしてるよ」と、マーは言う。中国で2番目に裕福なこの男は、何千ドルもするベルトやアクセサリーを売る高級ブランドビジネスそのものを、本質的に滑稽だと見なしているのだ。

「ブランド企業が不満を持つのは理解するが、同時に彼らに言いたい。自分らのビジネスモデルを見直してはどうかとね」

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「偽物が多い」という批判は、当初からアリババとタオバオにつきまとっていた。マーは終始、「断固たる立場を取っている」と明言していたが、サイトが成長するに従い、ブランド側からの苦情の声も大きくなっていく。08年には米国通商代表部がタオバオを「悪名高い市場」のリストに加えた。

中国の模造品作りは今に始まったことではない。19世紀には米国の小売業者が中国の工房に絵画の粗悪な模写を制作させていた。だが1980年代に中国が自由市場型の資本主義の導入に向けた大転換を始めると、模造品は急増した。実際、マーは自社が直面するコピー商品の問題を、中国の経済発展の直接的な結果と見ている。

“眠れる巨人”が目覚めると、国中の田畑にあらゆる種類の消費財を作る工場が建てられた。中国政府が知的所有権の保護にほとんど関心を向けず、大衆が「手早くリッチになりたい熱」にとらわれたため、スニーカーから処方薬、ハリウッド映画の海賊版まで何でもござれの偽物天国になったのだ。

米国国土安全保障省によれば、14年度に水際で押収された中国と香港からのコピー商品は11億ドル相当にものぼる。これは同省の摘発総額の実に88%を占めていた。

11年前半に、アリババは大きなスキャンダルに見舞われた。100人ほどのアリババの社員が、悪質な業者と知りながら、モールへの出店を許可していたのだ。業者はノートパソコンやフラットスクリーン・モニターなどの人気商品の代金だけ受け取り、商品を配送しなかった。詐欺の被害額は200万ドルと比較的少額だったが、偽装出店されたネットショップは2,300店を超えていた。

「アリババは危機に直面していました。手段を選ばずに利益を追求する文化がつくられかけていたのです」と、調査を指揮したサビオ・クワンは言う。

この年、アリババは模造品を売るネットショップを数多く閉鎖した。出店業者に組織され、数百人が、抗議のためにアリババの本社に押しかけた。

スキャンダル後の最初のインタビューで、マーは「おそらく我が社は中国で唯一、経営幹部が責任を取る会社だ」と、本誌に語っている。「人々は『ジャックよ、やりすぎだ』と思うだろう。過激すぎると。しかし中国にはこれが必要なのだと、私は信じている」。

アリババは模造品問題に取り組むために、ブランド企業と緊密に連携するようになった。それを受けて米国通商代表部は、12年にタオバオをブラックリストから外した。しかし同代表部は、「さらなる努力をしなければリストに再掲載されることもある」とアリババに警告を発していた。

欧米の多くのブランド企業はアリババの対応に満足していない。さらには日頃は模造品に目をつぶる中国政府さえもが、この問題に取り組むようマーに圧力をかけている。15年1月には、政府の規制機関である国家工商行政管理総局が、タオバオの商品のうち37%しか真正品がなかったという調査結果と、マーとの会談内容を公表。アリババは信頼性の危機に直面することとなった。

だが、投資家向けの収支報告の最中、アリババのジョー・ツァイ(蔡崇信)副会長は、同局の調査を「欠陥だらけ」で「独断的な方法論にもとづくもの」だとこき下ろした。その後に政府は会談の記録をウェブサイトから削除。アリババは勝利を宣言する一方で、さらなる模造品対策を取るべく同局に協力することにも同意した。

Jack Ma / ジャック・マー(馬雲)
1964年9月ジャック・マー、中国浙江省杭州市で生まれる。中学・高校時代は成績が振るわず、二度の大学受験に失敗。
1988年杭州師範学院(現・杭州師範大学)英語科卒業。大学の講師として英語を教える。
1995年アメリカでインターネットに出合い、中国初のビジネス情報発信サイトを開設。
1998~99年中国国際電子商務中心で、公式サイトや中国インターネット商品取引市場を開発。
1999年3月中国浙江省杭州市にあるジャック・マーのアパートで、マーと17人の仲間がBtoBの電子商取引サイト「アリババ・ドット・コム」を立ち上げた。同年10月、投資家から500万ドルを調達。
1999年9月香港でアリババネットを創業。2000年1月ソフトバンクなどから2,000万ドル調達。
2001年12月登録ユーザー数が100万人を突破。
2003年5月オンラインショッピング「タオバオ」設立。
2005年8月米ヤフーと戦略的パートナーシップ契約を締結。
2005年10月ヤフー中国を買収。
2007年11月香港証券取引所のメインボードに上場。
2014年9月ニューヨーク証券取引所に上場。250億ドルを調達。
2015年11月米「Forbes」誌が選ぶ「世界で最も影響力のある人物」の22位に選出された。
2015年12月香港の有力英字紙を発行する南華早報集団の買収で合意。

アリババ・グループ(阿里巴巴集団)
www.alibaba.com
中国の浙江省杭州市に本社を置くIT企業。1999年にジャック・マーが創業した。企業間電子商取引(BtoB)のオンライン・マーケットを運営しており、ユーザー数は5,340万人以上にのぼる。2014年にNY証券取引所に上場し、250億ドルを調達。15年3月期の収益は対前期比43%増の123億ドル、純利益は同2.8%増の39億ドルとなっている。ジャック・マーは15年11月には、米「Forbes」誌が選ぶ「世界で最も影響力のある人物」の22位に選出された。
マイケル・シューマン = 文 町田敦夫 = 翻訳」

http://forbesjapan.com/articles/detail/11168

袁庚/百度より

2016-02-04 14:08:08 | アジア
「袁庚,原名欧阳汝山,1917年4月23日出生于广东省宝安县。小学毕业证书上改用欧阳珊,入党后改为袁更,解放初期出国护照上误写为袁庚,一直沿用。少年时期,接受进步思想,追求革命真理,积极参加抗日救亡活动。1939年3月加入中国共产党。袁庚历任东江纵队联络处处长、东江纵队港九大队上校、三野二纵队四师参谋处副处长、两广纵队炮兵团团长、中共驻香港办事处主任、胡志明顾问、香港招商局常务副董、蛇口工业区党委书记。袁庚曾参加黄谭战斗、南麻临朐战役、昌潍战役、济南战役。

袁庚是招商局集团原常务副董事长、招商局蛇口工业区和招商银行、平安保险等企业创始人、百年招商局第二次辉煌的主要缔造者、中国改革开放事业的重要探索者。为表彰袁庚致力促进中港关系及香港与中国内地之间的经济发展,特别是对香港的航运事业贡献良多,2003年被香港特别行政区授予金紫荊星章。

2016年1月31日凌晨,袁庚因病医治无效,在深圳蛇口逝世,享年99岁。[1] 」

http://baike.baidu.com/view/321106.htm

袁庚先生とその理想主義改革/何清漣

2016-02-04 14:02:19 | アジア
「袁庚先生(*深圳蛇口工業地区の開発を成功させた指導者。中共改革派、1917年4月-2016年1月31日)がなくなられたという知らせに私は中国を去る直前の3年間を思い出しました。
私が袁庚先生と知り合ったのは先生が「改革の先鋒」として大活躍していた時期ではなく、もう引退されてのちのことです。ですからある意味「無名人としての交友」だといえましょう。私の「现代化的陷阱」(1998/邦訳;「中国現代化の落とし穴―噴火口上の中国 」2002/11)が縁となって先生とその深圳・蛇口地区の改革の数々の伝説に関して長い話をうかがったのですが、さらには改革の別の一面、紅色貴族権力資本主義の始まりから、形成、その将来について、つまりその暗黒面についても話し合いました。

1998年の夏、知り合いが袁庚先生が私に会いたいといっている、と伝えてきました。私はすぐにでもお尋ねします、と電話番号を伝えてくれるように言いました。その次の日、電話で約束して午後2時ごろ運転手が迎えにきてご自宅に参上しました。以前から取材で知り合っていたこともあってかとてもきさくに迎えてくださり話題はほんとうに多岐にわたりました。最初は広い客間でお茶をいただきお話していたのですが、私が外が広々と見えるベランダ側の大窓にチラチラ目をやるのに気がついたのでしょう、広々とした海やはるかな山並みがみえるベランダに小さな椅子とテーブルを持ち出してくださり、そちらでお話をつづました。穏やかな海風に吹かれていつのまにか三時間も話し込んでしまいました。それからというもの、袁先生は1、2か月ごとにもし暇ならおいでなさいとお誘いがありました。ほとんど私がお訪ねしたのですが一度だけ「いつも来てもらってばかりでは失礼だから」と拙宅にもおみえになりました。

1980年代の深圳・蛇口地区の改革の話は何冊も本が出版され、長編のレポートも、専門記事もあります。袁先生と知り合いになる前に、私は蛇口に、中国青年報から蛇口通信報に移ってきた郭建新や魏海田といった友人がいましたが、彼らが袁先生の昔の改革にまつわる話をするときは畏敬の念をもって言及していました。でも若かった私は「普段着のおつきあい」でしたから袁先生はまるでお隣に住む親切なおじいさん、という感じで可愛がってもらったのです。

一番深い思い出は何度かお会いしたとき、一緒に蛇口に行こうと言われたことでした。私はそのとき笑って蛇口地区には少なくとも5,6回はいったことがあるからよく知ってるし、先生はお元気でも車で長時間、あちこちいくのはお疲れでしょうと申し上げたのですが、袁先生は「自分と一緒に行けばちょっとちがうかもしれんよ」とおっしゃりました。そこで私はやっと袁先生は昔の思い出の地をまわっていろいろお話なさりたいことがあるのだと気がつき、この蛇口工業地区の創設者にガイドになってもらって同地区みてまわることになったのでした。

その日、袁先生は極めてお元気で、行く先々でその建造物群たとえば蛇口工業区の最初のホテル(たしか南海ホテルとか)、世界の豪華客船の立ち寄る場所になっている山に面して建てられた亀山別荘地区とかでその由来を話してくださいました。亀山別荘地区では建築当時はシンプルで居心地のいい別荘をつくって、各方面のお客さんを接待しようとした、とかかつって誰それがきたとか。私も深圳取材で「走向未来」叢書の包遵信氏(*改革派の著名出版人。のち弾圧される。1937年9月-2007年10月28日)らときたことや次の年は馮蘭瑞女史(*経済学者/学問の自由を主張した党員)についてこちらに三泊したことがあって、そのころの宿泊客名簿はまるで80年代中国の改革開放の風雲児たちのサイン帳のようだったとお話しました。この話は袁先生にそのころのことを思い起こさせ、話は権力とその善悪の話になりました。

袁先生は「あなたのあの『現代化の落とし穴』のメインテーマは権力の悪についての問題だが、実は権力は悪にもなるし善にもなる。あなたは権力をもったことがないから権力というものの良さをご存じない。でもごらんなさい、この蛇口はもとはただの荒地だったのを自由に解放してビジネスマン中心にしてからどんどん工場やビルがたって高層建築になって道路も整備されて各地から人材がやってきて多くのよいことが始まって、小平改革の良きモデルになったんだ。これが権力がよいことをした例だよ」といいました。さらに話は制限を受けない権力は必ず悪になってしまうという問題を話しあいました。

袁先生は博覧強記の方ですくなからぬ西側の名言を引用されました。そして最後に広州のあるメディアが自分に取材したインタビュー記事をみたかどうか、それをどう思ったかと聞かれたので、率直に自分の見方をお話しました。

こんな内容の話をいたしました。

;このころ既に深圳のメディアはとっくに蛇口工業地区の昔の改革の話を掲載することはできなくなっていました。ちょっと離れた(といっても地理的な意味ではなくて)広州で掲載できただけでも大したことでした。しかし、こうした状況のもとではそのインタビュー記事も本当のことを書けずいいわけに終始するのでした。蛇口の最初のころの成功はその真髄が自由な自治に任せたことにあったとは書けないで、その衰亡もまた本当の原因には触れられなかったのです。

その原因というのは浅い見方でいえば蛇口の行政的地位が大変気まずいもので、小平の改革理念の実践における一種の「飛び地」だったことで深圳市と広東省はどちらもこの土地に対して自分たちの行政管轄権がおよばないことに不満をもっていました。小平がいた間は問題はなかったのですが、トップからのそうした保護の力がよわまると厄介な問題がいろいろでてきました。深くいえばこの中共の体制というものは異質なものを許容できないということです。あなたのおっしゃる言論の自由は「法律が禁止していなければ自由」といいますが、しかし政治改革を口にするだけで体制側から見たらもうそれは行き過ぎ、なのです。小平は指導者のなかでは一番もっともそうした体制のなかから遠いところまで行った人ですが、あなたはその小平よりもっと先にいきました。これがまさに問題でした。中国の改革は本来は二つの面があって正しい道と邪な道があり、双子のようなものでした。正道はつまり胡耀邦であり趙紫陽であり、あなた党内改革派の堅持した道であって、みんな経済と政治を通じて先生制度を次第に権力を減らして開明的な専制制度に変えていき、さらに開明的な専制のなかで民権という理念を育て、最後に上から下への民主化を完成させたいとおおもっていました。邪道というのはつまり紅色貴族権力による資本主義であり、つまり私が「落とし穴」で分析し批判した道です。そして正道をずっと歩もうとしたならば必然的に”天安門”にいきつき、中共の政治的合法性とあのころすでに生まれつつあった紅色貴族資本主義に対して挑戦することになり、この二つの道は必然的に衝突するのです。天安門事件で小平は趙紫陽を片付けてしまいましたが、あれは事実上自らの手で改革が生んだ赤ん坊の健康な方を殺してしまったと同じことです。改革の未来の道はあのとき事実上決まったのです。

このように申し上げました。

その日はずっと夜の8時半ぐらいまでお話しました。お別れする前、袁先生は「清漣、キミがそういうのはたやすいんだ。だってこの体制と私たちのように血肉の関係にはないからね。でも私たち老人にはとても難しいことなんだよ。青年時代から私たちはこの革命に命をかけてきたし、ひどい打撃もこうむった。失望もした。でもどんなことがあっても私たちこの世代の党内の老人は一世一代この党のために、この国家のために頑張ってきた。だから思想的に決定的に決裂するのは身を切られる思いがある。この痛みは君たちの世代にはわかってもらえないだろう」とおっしゃいました。

私はこう申し上げました。

;「いえ、実は理解できるんです。私が「落とし穴」を出版した後、李鋭、任仲夷、李慎之、朱厚泽といった中共の古参党員の改革派の人々たちとよくお話したのです。みなさん深圳までくると私に会いたいとおっしゃいました。で、一緒に改革の過程であらわれた腐敗や権力の私物化といった現象を深刻に心配しておられ、それをどうすることもできないことに深い焦慮を抱いておられました。ですから私はこうした改革派のご老人たちの気持ちはわかりすぎるほどわかります。そして袁先生やこうした方々がおられたということに中共革命の20世紀における歴史に、かつては光明の一面もあったのだということを知ったのです」と。

2000年以後、私をめぐる環境は急速に悪化していったとき、袁先生はときおりお電話を下さったいつもどうしようもないという口調で「みんなそのうちよくなるだろうよ。気分が晴れなければうちにきなさい」といってくださいました。当時、私はいろいろな事情が多すぎたのと、ある公安局の親しかった友人が実は袁先生も監視対象になっているとそっと教えてくれて、きみと袁先生の交友は深圳市のとある部門はピリピリしているというのです。この話は本当だと思いました。だって私と袁先生の間柄はメディアにでたこともなくほとんど誰もしらない話だったのですから。この友人の話はきっと監視情報が公安局内部に流れていたのでしょう。袁先生に迷惑をおかけしないためにも私は袁先生のお宅には伺わなくなりました。袁先生からお電話を何度もいただきましたがいつも忙しくて、とか申し上げていましたが、袁先生もそのうち何かお感じになったのでしょう、もう我が家にいらっしゃいとはおっしゃらなくなりました。

2000年6月に米国の国際訪問の招きをうけて米国へいったあと私が働いていた新聞社の中共市委書記の張高麗がみずから私を解職し俸給を下げ、記事を発表禁止にしたあと、私は自分から深圳の友人たちとの一切の交流を断ちました。当然、そのなかには袁先生も含まれていました。そして7月中旬に北京の国務院2000年マクロ経済情勢検討会に出席したあと、北京大学で不可解な”交通事故”にあって、息子と一緒に怪我をして、私は足の骨が折れ自宅で休んでいる時、「万科週刊」の单小梅から電話があって「袁先生がきみのことをとても心配しているから会いに行くべきだよ、彼はこんどきみがアメリカに行くと国内の圧力でもう戻ってこれないからもしれないからきみにもう会えなくなるだろうって」というので袁先生にお電話してお伺いすることにしました。

袁先生は息子ともども自宅によんでみずからドリアンを切り分けてくださり、いろいろ慰め励ましてくださいました。このときもう私は中国を去る決心をしておりました。そのわけは息子をこれ以上、この極めて不安全な暮らしにおきたくなかったのです。で、その話を先生に打ち明けました。私たちが帰るとき見送りにでてくださった先生に、どうか安心してください、私は自分たちの面倒はみられますから。でも先生のところにはなかなかこられないとおもいます、と申し上げました。袁先生はただしっかり私の手を握って「身体だけは大切に」とだけおっしゃいました。夕暮れの車窓から先生の姿をみたときに多分これが先生にお会いする最後だろうとおもっておりました。

2001年6月下旬、私は米国に着きました。シカゴ大学を訪問中に袁先生からお電話をいただきました。どこから電話番号を聞いたかとかは聞きもしなかったです。いろいろこちらを気遣ってくださったあと、先生は私がまだ中国に戻れるのかどうかをお尋ねになりました。私は、もう中国に戻ることはできません。まず仕事がないでしょう、国家安全部の監視のもとで中国のどこの街へいっても仕事はえられませんから生きていけませんし、また終日監視の下で暮らすのはとても我慢がなりませんから、と申し上げました。袁先生はそれをきいてもう何もおっしゃらず、ただ「米国でやっていけるかい?」お尋ねになりました。私は「やるだけやってみますよ。でも米国というところは木の枝の葉っぱでも挿し木したら芽が出るといいますから、自分が努力したら大丈夫ですよ」といいました。袁先生はこれをお聞きになったあと「清漣、ほんとうにすまない。助けが必要なときに私は何もできなかった。もう一生会えないんだろうねえ…」とおっしゃいました。私はその夜、眠れませんでした。

このあと十数年、今や私は「中国に敵対する外国勢力」であり「国家の敵」ということになっていますから、自分からは中国にいる旧友に連絡をとったことはありません。いま袁先生が99歳でみまかられたという知らせに接し、悲しみに言葉もありません。いまの中国は袁先生が生涯をかけて奮闘してこられた目標とあまりにも違いすぎるからです。蛇口ビジネス招聘局がネットに袁先生への弔辞に「袁先生もうこの世におられないが改革は続く」という言葉がありましたが、袁先生はもとより現在の中国人、この言葉を書いた人もふくめてみな中国の理想主義的な改革はとっくに死亡し残っているのは”改革”というカラ文句だけだということをはっきり知っています。中共80年代の理想主義改革を象徴する人物として袁先生はそのころの中国人が改革の正道を歩む希望を担っておられました。90年代中後期には理想主義改革はもはや存在しませんでした。いま、袁先生がこの世を去られたことは、あの世代の理想主義的改革を体験した人々の改革に対する思いの最後の一糸もまたともに失われたと言えましょう。(終)

拙訳御免。
原文は;袁庚先生与他的理想主义改革  http://www.voachinese.com/content/he-qinglian-blog-yuan-geng-idealism-20160201/3172770.html

http://heqinglian.net/2016/02/02/yuan-geng/