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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

田中慎弥さんの言葉を読んで

2012-04-08 14:26:02 | ひとの幸福
田中慎弥さん関連のネットを見ていたら、

彼自身の言葉が寄稿という形(産経ニュース)で載ってた。

あの震災に際し、彼は「・・・自分のことだけを考え、

他のことをほとんど頭に入れずに、虚構の世界を作り上げていった。

世の中の動きと全く関係のないところで、自分のためだけに懸命に仕事をし、

やめようと思わず、むしろのめり込んだ。

喜びでさえあった。・・・」抜粋以上。

こういう文章が言語化されたということは、

(そう思った)ことについて彼自身に何らかの解釈があったということじゃないかな。

自分のやりたいことをしていた・・それは当たり前のことだ。

誰もがご飯を食べたくて食べたり、仕事したり、遊んだり、している。

それぞれが自分のやりたいことをやっている。当たり前のことだ。

けれど、それをわざわざ言語化しない。

公開しなくても何かを日記に書いたりする人もあるかもしれない。

書くということはその事に何らかの関心が向いたことであって、

白米ご飯を食べた、排尿した、眠くなって寝た、なんてことが言語化されないのは、

それに何の関心も寄せなかったということを示している。

作家である田中さんがその時書いていた小説自体には、書かれてあったように、

あの大震災はなんの変化ももたらさなかったのだと思う。

本当にそうだったのだろうと思う。けれど、

(震災に関係なく書いているそのこと)に、

何らかの思い、解釈があったということを示している。

彼の作品そのものに震災は直接影響なかったけれど、

彼のその時の心の底ではやはり何か動きがあったんじゃなかったのかなぁ。

何かがなければわざわざ言語化しないはず。

「世の中の動きと全く関係のないところで、自分のためだけに懸命に仕事をし、

やめようと思わず、むしろのめり込んだ。」

・・この文章。

世の中の動きと全く関係ないところで・・・

自分のためだけに・・・・

やめようと思わず・・・・

関係ないことしているのはどうなんだろうという自らへの問い。

自分のためだけにというのはどうなんだろうという自らへの問い。

やめようと思わなかった自らへの問い。

それらがなかったら、この文章は存在し得ない。

無意識のうちにあの震災に心を寄せていたことへの表れかと思われる。

ひとの心というものは、言わないことで言っている こともある。


「田中慎弥の掌劇場」

2012-04-08 07:57:15 | 新聞を読んで
自分の心を傷つけることが出来るのは自分だ、と書いたことがある。

いや、正確に言えば、見えない自分の心が自分にわかる自分の心を傷つけるのだろう。


今朝の毎日新聞の書籍広告にこの前芥川賞をとった田中慎弥さんの本が載ってた。

「田中慎弥の掌劇場」という本。

その小説の一部が転載されてあった。

第18話「意思の力」というタイトルで・・

「男は天国と地獄の境目までやってきた。出勤途中で胸が苦しくなり・・・中略

・・・気がついた時にはここにここに立っていたいうわけだ。・・・中略

一番やっかいなのは、その信じられないことが起きてしまったのだと、

自分自身がはっきりと認識している点だった。

なりたくてなったわけではない立場なのに、自分で自分をここへ立たせたかのようだった。

考えてみれば、どんな事情でここへ来たのであろうと、

それは自分自身のことなのであり、だとすれば、そこに多少なりとも自分の意思が

関係しているのではあるまいか。

意思と全く関係なくここへ来てしまったと考えるのはあまりに悔しいではないか。

するとどこからか声が聞こえた。(以下は本書でお楽しみください)」

・・・以上。


受賞した小説も読んでいないし、これだけで何がわかるというものじゃないけど、

この人はこういう小説を書くのか、と思った。

ここで言っている「意思」とは自分でも気がついていない(思い)、

無意識のうちに持ってしまっている考え、プログラム、

なのではあるまいか、と思った私であった。

「するとどこからか声が聞こえた」というのは自分でも経験のあることだし、

以下は本書でお楽しみくださいともあるので、いつか読みたいと思ってる。