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ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

決めたことは・・③

2012-04-05 20:23:56 | 実例体験観察
相手が責められていると感じても感じなくても、

責める気持ちを持っていたという事実はある。

さっき書いた例で彼は確かに責める気持ちがあった。

責めようとして責めたわけではないことは確かだけれど。

けれど、それで心が傷ついたら、

黙っていない方がいいと思う。我慢する事ないと思う。

我慢しちゃいけないとも思う。

私も彼に言った。泣いた。

あの場合、その後ですっかり気分が変わっちゃったけれど。

言って泣いたからこそ、その次の展開になったわけだから。

最初から我慢してたんじゃ始まるものも始まらない。

そして、互いに責め合ったのも無意識のうちに培われたプログラムがあったからだ。

彼も私もたった一人でそういうプログラムを創ったんじゃない。

小さな頃から長い時間をかけて社会から齎されたものだ。

なので重く考えずに、イヤと感じたらイヤと発することかなぁと思う。




決めたことは・・②

2012-04-05 19:49:37 | 実例体験観察
この時、この潜在意識とは反対の考えの「考えや気持ちは変わって当たり前である」という、

謂わば、当時、知恵にまで行ってない付け焼刃の理屈を振りかざして、

彼を加害者にした私だった。

彼は私に(考えを変えるのはいけない)と観測した(波動を発振した)。

受信側が一つの電波に同調して(チューニング)テレビ画面に映るように、

この時の私が彼の責め気分を受信出来たということは、彼の意識に同調したからだ。

私の中に彼と同じ(考えを変えるのはいけないんじゃないか)

・・という自分を責める考えがあったので被害者になったわけだ。


小さな子供がこの立場だったら・・

彼が(考えを変えるのはいけない)と観測しても(発振しても)、

その波動は同調せず、ただ非局所的に漂うだけなんじゃないだろうか。

上に書いたような相互作用が成立しない。

実際、自分にそういう考えがあったと気付いた途端、

気持ちはパッと変わった。・・ということは・・

自分から(考えを変えるのはよくない)という考えがなくなったので、

被害者の私が存在しなくなった。

被害者が消えたので、当然被害者感情が消えたんだろう。


被害者という波動関数はただの人という波動関数に変化した。

これは非連続的な因果作用の結果といえるんじゃないだろうか。


プログラムあれこれ

2012-04-05 19:16:06 | ひとの幸福
子供は潜在意識に、段々といろいろなプログラム・判断とか価値観が

インストールされるようになるのだろう。

勿論そういうプログラムがあることが悪いというわけじゃない。

それがなければ私たちは快適に暮らしていけないだろうから。

「沸かしたての熱湯が入っているヤカンは熱いものである」・・

これも有効なプログラムの一つだ。

こういうプログラムが無い小さな子供はそうとは知らず、

それを触って火傷したりすることがある。

「車がびゅんびゅん走っている道路で遊ばない方がいい」

「夜は寝るのが相応しい」

「排便するのはトイレがよい」

「こういう運転の仕方はガソリンをあまり食わないものである」

「この料理はこういう作り方で作ると美味しくできる」

いちいち上げたらきりが無いけど、こういった無数のプログラムがあるので、

それを使って私たちは快適に生きていけている。

歩こうと思えば歩けるのも、

潜在意識に歩くのはこうするといったようなプログラムがあるからで。

そういう知識、考えが幸福になるのに役立っているか、

幸福になる目的に適う機能を果たしているか。

それがチェックポイントだと思う。

昨日書いた「眠ろうとすると眠れない」という現象になるもとは

眠りたくて眠ろうとする意識なわけだけど、

それは眠るという目的(究極的には幸福につながる)に適った機能を果たしていると言えない。

子供にやいのやいの勉強しろと言うもとは、

子供が勉強していろいろと物事がわかり幸福になるようにということだろうけど、

やいのやいの言うことがそうなるような機能を果たしていないことが多いと思う。

点検して効果がなかったら、別のプログラムに変えればいいということになる。

幸福になる目的に適わないことをしている時は、

だいたい快適な気分を感じてないように思う。

ちゃんと点検の為の道具を私たちは自身に持っていると思う。


決めたことは・・

2012-04-05 13:29:57 | 実例体験観察
数年前のこと。これをもう一度考えたい。

贈り物を夫と買いに出かけた。

何にするか二人の考えがいろいろと変り、

やっとそれにしようと前夜に決まったことだった。

だが、出かけた先でその物を見たら、私は買う気が失せた。

やっと決めたんだしなぁ・・・でもやはりこれは気にいらない。

「これやめて、別のにしようよ」と言った。

返答はなかった。彼は黙っていた。

不自然な沈黙が続いたように感じた。

責められているように感じた。

心がすっきりしなかったので、

その後いろいろとその時についての気持ちを二人で出しあった。

彼は「やっと双方共に納得した答えが前の晩に出たのに、

どたん場で気が変わるなんて!」というようなのがあったようだった。

それを確認した時、凄く悲しくなった。

自分がかわいそうになったからだ。

(気持ちなんて変わって当たり前なのに・・・シクシク・・

いい贈り物にしたいからアレを見て気が変わるのは当然だ・・)みたいな気持ちがあった。

心が堂々と“被害者”をやっていた。(後の時点でわかったことだけど)

その時、自分の中のもう一人の自分がささやいた。

「何故傷つくのか?彼は自分の気持ちを言っただけだ」

よ~くその時の自分の心を振り返ってみると・・・

(これやめて、別のにしようよ)と発した時の自分の心は100%すっきりとしてはいなかったことに気がついた。

幾らかの躊躇いがあった私だった・・・と、いうことは???

私の中に(決めたことを変えたらいけないんじゃないか)があった!!!

これは本当に大きな発見だった。

それに気がついた途端に気持ちがぱっと明るくなった。

被害者気分が瞬時になくなったからだと思う。

不思議なくらいに瞬間的に気分が変わった。

彼の(決めたことをどたん場で変えるなんて!)という意識と、

私の(決めたことを変えるのはいけないんじゃないか)という潜在意識が

ぴったり同調したのだった。

(決めたことを変えるのはよくない)という考えがなければ、

「決めたことをどたん場で変えるなんて」と責められても、

責められるわけがわからないだろう。

それがわからなければ、暗い気分にはなれない。

ただイヤだなぁとは思うかもしれないけど。

ただびっくりするだけの子供もいるかもしれない。

わけわかんない??だけで終わる子供もいるかもしれない。

今は大人になった娘が小学生の頃を思い出して、

「よくお母さんに怒られたけど、なんで怒られるのかわからなかった」と言ったことがあったけど、

その年代の子供の潜在意識には(~するべき)とか(~するのはよくない)

・・というようなプログラムは大人ほどたくさんインストールされてないのだと思う。

おとなの私は既にそういうものがたくさんあったので、

それに引っかかる行為をする子供を怒ったわけだ。

子供はこういう経験を何度もして、潜在意識に、

段々とそういう(決めたことはやるのがよい)というような判断とか価値観が

インストールされるようになるのだろう。

勿論そういうプログラムがあることが悪いというわけじゃない。

それがなければ私たちは暮らしていけないだろうから。

(これは余談だけど)

・・・続く