ひとの喜びを共に喜ぶとは言うが、ひとの苦しみを共に苦しむ・・とは言わない。
苦しみは分かち合う・・というような言葉がよくある。
喜びは共に喜ぶことで倍になる、とかも云うことがある。
喜びは分かち合うと増えて、苦しみは分かち合うと減る。
喜びと苦しみのこの違いはなんなんだろう・・・・?
そんなこと当たり前のこと・・かな。つい考えたくなる。
ひとの喜びを共に喜ぶ、とはその喜びをそのまま受け入れられるからだと思う。
喜びは完全なもの。それは既に何も不足がない状態と思う。
完全なのだから、それを変えようなんて思考は浮かばない。
変えたい、変えようがないから受け入れられるのは当然だ。
ただ共に讃えるだけだ。
それに比べると、苦しみを聞くとそのまま受け入れられないという感じになることが多い。
どうしてそうなるのかといえば、
苦しみとはまだ足りないものがある、完全な状態じゃない、
ということをひとは知らないうちに知っているからなんじゃないか。
なので、足りないものを補おうとする思考が浮かぶことになる。
ひとは本来、完全に幸福な存在であることを私たちは知っているからこそ、
当然そういう思考が浮かぶんだろう。
この場合、足りないものを補おうとする思考・・とは、
苦しみをなんとか変えたい、変えようという善意と思う。
別人格である相手を直接なんとかするのは無理なことだし、
漱石じゃないけど、無理を通そうとすると道理が引っ込むことになる。
そして、道理が引っ込むとひとは苦しむように出来ている。
これがひとの苦しみを自分の苦しみとしてしまう場合なんだろうな。
相手の苦しさを背負い込んで一緒に苦しんでしまうと、
相手の苦しさはちっとも減らない。プラスされることがあるくらいだ。
これが苦しみを分かち合ってない状態なんだろうと思う。
人は欲を持つと苦しむ。
苦しみを解決しようというのも欲の一つだ、という仏陀の言葉の通り。
量子メカニズムも仏陀も同じことを云っているなぁと又思ったよ。
苦しみは分かち合う・・というような言葉がよくある。
喜びは共に喜ぶことで倍になる、とかも云うことがある。
喜びは分かち合うと増えて、苦しみは分かち合うと減る。
喜びと苦しみのこの違いはなんなんだろう・・・・?
そんなこと当たり前のこと・・かな。つい考えたくなる。
ひとの喜びを共に喜ぶ、とはその喜びをそのまま受け入れられるからだと思う。
喜びは完全なもの。それは既に何も不足がない状態と思う。
完全なのだから、それを変えようなんて思考は浮かばない。
変えたい、変えようがないから受け入れられるのは当然だ。
ただ共に讃えるだけだ。
それに比べると、苦しみを聞くとそのまま受け入れられないという感じになることが多い。
どうしてそうなるのかといえば、
苦しみとはまだ足りないものがある、完全な状態じゃない、
ということをひとは知らないうちに知っているからなんじゃないか。
なので、足りないものを補おうとする思考が浮かぶことになる。
ひとは本来、完全に幸福な存在であることを私たちは知っているからこそ、
当然そういう思考が浮かぶんだろう。
この場合、足りないものを補おうとする思考・・とは、
苦しみをなんとか変えたい、変えようという善意と思う。
別人格である相手を直接なんとかするのは無理なことだし、
漱石じゃないけど、無理を通そうとすると道理が引っ込むことになる。
そして、道理が引っ込むとひとは苦しむように出来ている。
これがひとの苦しみを自分の苦しみとしてしまう場合なんだろうな。
相手の苦しさを背負い込んで一緒に苦しんでしまうと、
相手の苦しさはちっとも減らない。プラスされることがあるくらいだ。
これが苦しみを分かち合ってない状態なんだろうと思う。
人は欲を持つと苦しむ。
苦しみを解決しようというのも欲の一つだ、という仏陀の言葉の通り。
量子メカニズムも仏陀も同じことを云っているなぁと又思ったよ。