ムカデとことこ

 ひとが幸福になること・意識の成りたち・物理と心理を繋ぐ道
       ・・そんなこと探りたい

養老先生のさかさま人間学

2013-03-07 19:24:18 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞にこの欄がある。(からだと働き編)

人間は必ず寝る。動物も寝ているらしい。

眠りの遺伝子というものがあるらしい。

ヒトとショウジョウバエはほとんど同じ遺伝子を使って、

生物時計を動かしていることが研究によってわかっているという。

寝ている時と起きているときの違いは、

意識の有る無しと養老先生は云っている。

「寝ることが理解できるためには、

起きている、つまり意識があるとはどういうことか、

それがちゃんとわかっていないといけないはずです。

ところが、意識は、科学で説明できていない現象の一つなんです。

科学は意識がないとできない作業ですが、

その科学が意識の全体像を説明できる日がくるんでしょうか。

科学は意識の一部分。

だからすべてわからなくても当たり前。

私はそう思っていますけど・・・」で文章が終わっている。

う~ん・・意識は科学で説明できてない現象・・・

意識の全部、全容はとても無理だけど、ある程度は科学で説明できると

私は思っているんだがなぁ。
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「認知症の母との会話が楽しい」

2013-03-07 16:25:36 | 新聞を読んで
今朝の毎日新聞の「みんなの広場」という投稿欄。

54才の女の人が書いた自分の母親との交流で、

葛藤や大変さを経て母の認知症を自分なりに消化した後に母との楽しい会話が待っていたというもの。

とても面白く楽しく読んだ。

「今母は自分を独身だと思っている。・・・

母親が前に言っていたことを、それはさっきこう言ったよ、なんて言い返してはならないこともこれまでのやりとりから学んだ。・・・

矛盾した話にところどころ事実が交じって妙におかしくて笑ってしまう。

母を寝かせた後、翌日の会話を楽しみにおむつの後始末をする。」

・・・ざっとこんな感じの内容。

きっと80才前後のお母さんなんだろう。

けど、その会話をしている時はそのお母さんは独身になっている。

意識がその時空に在るんだろう。

これを書いた人はタイムマシンに乗って、その頃のお母さんと居るようなもんだ。

私も認知症の人と接していたことがあるけど、

時によって独身になったり、もっと若く小学生位の時もあった。

意識というものは本当にすごい
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スタンバッている

2013-03-07 16:22:20 | ひとの幸福
何かをしようとしても、あまりやる気になってないと、立ち上がるのもヨッコラショッ!とエネルギーが要る。

元々その時の自分に気というかエネルギーが貯まってないんだろうな。

電気器具の電源スイッチをオフからオンにするには、オンになっている状態の時よりたくさん電力が要るという。

何かにつけ、やる気というか、意志が十分行き渡っている状態は、

電気の話しで言うとオンになっている状態なんだろうと思う。

常にスタンバイ状態とでも云ったらいいのか・・・

そういう人を「元気な人」というのか・・と今思ったよ。

身体が健康というだけではないね、その言葉は。

ひとから何か言われる前にスタンバッっている状態、その状態のことを元気、元の気というのかもしれない。

うん・・これは発見と一人悦にいる。

「これやろうよ」の声掛けに「ハイよっ!」。

「あそこの銀行で強盗しようぜぇ」の声掛けに「ハイよっ!」。

そのちょっと後、「ううん、それはちょっと出来ないな」ということもあるだろう。

元々元気なので、ノーも簡単に言える。




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やりとり

2013-03-07 09:57:40 | ひとの幸福
テレビの音声や映像、本の活字を見て、それはこういうことかと解釈しているのは私である。

昔読んだ本を読み直したときに、昔と全然違う感想を持ったりすることがあるけど、

そういうのも自分が以前にしてた解釈と今している解釈が違って来ているということだね~。

自分がしている解釈で泣いたり笑ったりしている。

同じ番組を見て私は涙が溢れ、隣で見ている夫は涙など出ていないのも、

そういうことだ。

その活字の連なり、テレビの画面をどう解釈しているかはその時のひとそれぞれ。

つまるところ、自分の解釈とそれを見る今ここの自分とでやりとりをしてる、ということである。

腹が立つというのも自分の解釈に自分で腹が立っているということだ。

人生は一人芝居ともいえる。

私しかいない、ともいえる。
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面白み

2013-03-07 09:36:17 | ひとの幸福
面白さを感じるのはどういうときか・・・

受身の面白さと能動的な面白さがある。

テレビを見たりするのは受身の面白さかと思うけど、それも一概には言えないね。

例えば料理の番組を見るとき、これを作ろうと思って見るのは

能動的だし、面白く感じる。

本を読むというのも受身かというとそうでもない。

面白く感じて読むときは能動的になっている。

そういう時は頭が生き生きと動いている感じがする。

積極的になっている。

自分がその本に参加しているふう。

対話しているふう。

反対にテレビを見ても本を読んでも心が他人事になっている時は受身的だ。

面白く感じる時って、単に受けているだけではない。

それはやりとりがあるっていうこと。

テレビ画面や本の活字は、その時の私の思いにいちいち返事などないのはそうなのだけれど、

まるでやりとりしているような心の状況になっていることがある。

受身的な動きは「受動」という。

意味は他からの働きかけを受けること。

その反対である「能動」の意味は自己の作用を他に及ぼすこと。はたらきかけ。とあった。

「受身」というのを広辞苑で見ると、日本語では「れる」「られる」を添えて表わし、

「雨に降られる」「足を踏まれる」のように、

被害・迷惑などの気持ちを伴うことが多い。

・・というのがあった。

受身的言動は被害者的発想を表わすという日本語の用法というのは面白い。

ひとに「何かをしてもらった」という意識は受身かというとそうではない場合もある。

ひとの何かの働きかけに対して心が生き生きとしている場合は能動的。

これは被害者的ではない。

そういえば、「られる」という言葉は使ってない。

ひとに「何かをされた」という言動は受身。

例えば、「目の前でドアをばたんと閉められた」という発想は被害者的。

明らかにひとが自分に悪意で何かをしたのなら、~された、られた、という表現が当たるけど、

そういう節ではないときも意識が「~られる」になっている時は、

必ず不愉快モードだね~。

人間は主体的に生きたいとなっているものだということがこういうことでわかる。

「前の人がドアをバタンと閉めた」は被害者的じゃない。ただの観察。

同じ現象をどう解釈するかはその人に委ねられている。

受身的な解釈をしない方が人生は多分面白い。




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