面白さを感じるのはどういうときか・・・
受身の面白さと能動的な面白さがある。
テレビを見たりするのは受身の面白さかと思うけど、それも一概には言えないね。
例えば料理の番組を見るとき、これを作ろうと思って見るのは
能動的だし、面白く感じる。
本を読むというのも受身かというとそうでもない。
面白く感じて読むときは能動的になっている。
そういう時は頭が生き生きと動いている感じがする。
積極的になっている。
自分がその本に参加しているふう。
対話しているふう。
反対にテレビを見ても本を読んでも心が他人事になっている時は受身的だ。
面白く感じる時って、単に受けているだけではない。
それはやりとりがあるっていうこと。
テレビ画面や本の活字は、その時の私の思いにいちいち返事などないのはそうなのだけれど、
まるでやりとりしているような心の状況になっていることがある。
受身的な動きは「受動」という。
意味は他からの働きかけを受けること。
その反対である「能動」の意味は自己の作用を他に及ぼすこと。はたらきかけ。とあった。
「受身」というのを広辞苑で見ると、日本語では「れる」「られる」を添えて表わし、
「雨に降られる」「足を踏まれる」のように、
被害・迷惑などの気持ちを伴うことが多い。
・・というのがあった。
受身的言動は被害者的発想を表わすという日本語の用法というのは面白い。
ひとに「何かをしてもらった」という意識は受身かというとそうではない場合もある。
ひとの何かの働きかけに対して心が生き生きとしている場合は能動的。
これは被害者的ではない。
そういえば、「られる」という言葉は使ってない。
ひとに「何かをされた」という言動は受身。
例えば、「目の前でドアをばたんと閉められた」という発想は被害者的。
明らかにひとが自分に悪意で何かをしたのなら、~された、られた、という表現が当たるけど、
そういう節ではないときも意識が「~られる」になっている時は、
必ず不愉快モードだね~。
人間は主体的に生きたいとなっているものだということがこういうことでわかる。
「前の人がドアをバタンと閉めた」は被害者的じゃない。ただの観察。
同じ現象をどう解釈するかはその人に委ねられている。
受身的な解釈をしない方が人生は多分面白い。
受身の面白さと能動的な面白さがある。
テレビを見たりするのは受身の面白さかと思うけど、それも一概には言えないね。
例えば料理の番組を見るとき、これを作ろうと思って見るのは
能動的だし、面白く感じる。
本を読むというのも受身かというとそうでもない。
面白く感じて読むときは能動的になっている。
そういう時は頭が生き生きと動いている感じがする。
積極的になっている。
自分がその本に参加しているふう。
対話しているふう。
反対にテレビを見ても本を読んでも心が他人事になっている時は受身的だ。
面白く感じる時って、単に受けているだけではない。
それはやりとりがあるっていうこと。
テレビ画面や本の活字は、その時の私の思いにいちいち返事などないのはそうなのだけれど、
まるでやりとりしているような心の状況になっていることがある。
受身的な動きは「受動」という。
意味は他からの働きかけを受けること。
その反対である「能動」の意味は自己の作用を他に及ぼすこと。はたらきかけ。とあった。
「受身」というのを広辞苑で見ると、日本語では「れる」「られる」を添えて表わし、
「雨に降られる」「足を踏まれる」のように、
被害・迷惑などの気持ちを伴うことが多い。
・・というのがあった。
受身的言動は被害者的発想を表わすという日本語の用法というのは面白い。
ひとに「何かをしてもらった」という意識は受身かというとそうではない場合もある。
ひとの何かの働きかけに対して心が生き生きとしている場合は能動的。
これは被害者的ではない。
そういえば、「られる」という言葉は使ってない。
ひとに「何かをされた」という言動は受身。
例えば、「目の前でドアをばたんと閉められた」という発想は被害者的。
明らかにひとが自分に悪意で何かをしたのなら、~された、られた、という表現が当たるけど、
そういう節ではないときも意識が「~られる」になっている時は、
必ず不愉快モードだね~。
人間は主体的に生きたいとなっているものだということがこういうことでわかる。
「前の人がドアをバタンと閉めた」は被害者的じゃない。ただの観察。
同じ現象をどう解釈するかはその人に委ねられている。
受身的な解釈をしない方が人生は多分面白い。