歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

「ラースとおれ」のパーセル

2010年12月11日 | 音楽について
パーセルの〈Sound The Trumpet〉についてはまだここには書いたことありませんでしたかね。《Come, Ye Sons of Art》の始めのほうにある二重唱ですわね。二分半くらいの短い曲ですけど、どこか茶目っ気のある、愛らしい曲だと思います。《Come, Ye Sons of Art》自体、パーセルのオードとしてたぶんもっとも有名で、録音も多い。そのなかでまた〈Sound The Trumpet〉はこの曲だけ単独で、二重唱曲としてコンサートで歌われたりもします。

YouTubeで探すと、この〈Sound The Trumpet〉をいろんな人たちが歌ってるのを聴くことができます。アルフレッド・デラーがマーク・デラーとギターの伴奏で歌っているのがあったけど、あれ思いのほかよかったです。パーセルはああいうシンプルな歌い方があっている。

YouTubeにはティーンエイジャーの男の子(アメリカ人?)がふたりで〈Sound The Trumpet〉を歌ってる動画がありますね。あれ面白いわー。ああいうの好きですわ。動画がふたつアップロードされていて、ひとつは彼らが中学生くらいのころ。アップロードした人のコメント欄に「ラースとおれが講堂にいっぱいのお客の前で〈Sound The Trumpet〉を歌ってるとこ。」って書いてある。普段着のふたりが、ピアノの伴奏で歌いはじめて、無事に歌い終わって下手にはけていく。声楽を勉強してる気配はさらさらなく、まるで地声で、譜面よりオクターブ下で歌ってる。しかし音程は合っている。そしてすごいのは暗譜ってこと。そのせいだろう、歌い終わったらどうもスタンディングオベーションしてる人がいる。

もうひとつの動画は同じ二人が高校卒業のころ?にもういっぺん〈Sound The Trumpet〉を歌っている。なにかのパーティーかしらん。こんどはドレスシャツにネクタイ締めている。さいしょにふたりが自己紹介してるけど「ラースとおれ」の「おれ」がなんて名前なのか聞き取れなかった(汗)。そしてやっぱり地声である。しかし暗譜である。〈Sound The Trumpet〉は彼らの持ちネタなのかな。それとも中学高校一貫校で、音楽の時間にさんざ歌わせられるんだろうか。とにかく、十代で憶えちゃった歌だもの、「ラースとおれ」は〈Sound The Trumpet〉を一生忘れないと思うよ。すばらしい。

赤シャツの弟

2010年12月09日 | 本とか雑誌とか
相変らず齋藤孝さん校訂の『坊っちゃん』を読んでいます。実はわたし、新潮社から出ている朗読CD(4枚組)も持っていて、ときどき、齋藤さんの本で文章を追いながら、新潮のCDを聞きます。朗読しているのは風間杜夫。朗読の底本は明記してないです。とりあえず新潮文庫の本文とは一致するようです。

『坊っちゃん』八。坊っちゃんが赤シャツに「話があるからうち迄来てくれ」と言われて、赤シャツの家に出向く。ここで坊っちゃんはうらなり君の延岡への転勤を知らされることになりますが、それはともかく、赤シャツの弟が応対に出る。齋藤さんの本では「この弟は学校の生徒で、おれに代数と算術を教わる至って出来のわるい子だ。」とある。しかるに、朗読CDではアンダーラインの箇所が抜けていた。そこでまづ新潮文庫をみると、「この弟は学校で、」とあり、やはり「の生徒」を欠いている。

これが、新潮文庫のミスで「の生徒」を落としているんだったら面白いんだけど、残念ながらそうではない。いまちょうど、齋藤さんの本が依拠した『漱石全集』第二巻を図書館から借り出しているのですよ。それによると、自筆原稿に基づく本文は「此弟は学校の生徒で、」とあって、「の生徒」が入っている。しかし、この箇所の校異を見ると、単行本『鶉籠』所収の本文では、ここが「(此弟は)学校で、」となっているらしい。つまり、「の生徒」を落とす異文の元は『鶉箱』だった。

レコードとわたし

2010年12月08日 | 音楽について
街の子なので、実家のすぐそばにデパートがあって、その中にたしかレコード売り場があったんですよ。わたしが買ったLPはたいていそこで買ったものでした。昔のことだし、子供(中学・高校)だから、カタログを調べるなんて才覚もなかった。リステンパルトのバッハを買ったのも、カサドシュ&セルのモーツァルトを買ったのもそこ。指揮者のだれがどうとかいう情報はぜんぜんないから、なんにも悩まない。曲目と、値段で買った。リステンパルトはたしか1,000円か1,300円か、どっちかでしたよ。

カサドシュ&セルはまさにそれなんですが、SONYの2,000円のシリーズが100枚ぐらい出ていて、二三枚は買いました。ワルター&コロンビア響のモーツァルト『交響曲第40番&41番』とか、オーマンディの『田園』とか。ワルターのモーツァルトは有名でしょ。非常に雄々しい、おもおもしいモーツァルトですよね。それから、当時ワルター・カーロスの『スイッチト・オン・バッハ』もこのSONYのシリーズで出ていて、中身は聴いたことがあって、好きだったんだけど、子供心の隅に「シンセサイザーなんて邪道だ!」という思いが当時はあって、買えなかった。ま、お金もなかったんだけど。

ああ、それからイ・ムジチの廉価盤を何枚か買ってよく聴いたのをいま思い出しました。ロカテッリとか、レオナルド・レオとかね。ロカテッリの『バイオリンの技法』って協奏曲集の第1番、いちど聴いたら忘れられませんよ。イ・ムジチの音もとことん能天気に金ぴかで、よかった。『四季』はSONYのズッカーマンのを持ってたけど、これはどんな演奏だったか憶えてないです。

うーむ。同じころ読んだ本のことよか、聴いて心に響いたレコードのほうがよっぽど深く心に残っている。

「軽いけが」?

2010年12月07日 | 気になることば
NHKのラジオのニュースで聞いたんですが、きのう愛媛県のJRの駅で、75歳の女性が列車に乗ろうとして右手をドアにはさまれ、ホームの端まで80メートル引きずられて線路沿いに転落、頭などに「軽いけが」をしたそうです。列車は時速30km出ていたそうです。75歳が、時速30kmの列車に、80メートルもひっぱられて行って、そのうえホームから転落ですよ。それでもアナウンサーは「軽いけが」って言ったのよ。そりゃま、いまどき75歳の女のひとっていってもさまざまで、20代顔負けの運動神経をほこる人も稀にいるかもしれないけどさあ。でもこういう状況での負傷を「軽いけが」っていう言い方は可笑しいんぢゃないか。「軽いけが」っていうからには入院しなくてすんだんだろうか。っていうか、そのひとが入院しなかったからNHKは「軽いけが」って言い方にしたのかもしれないが。しかし少なくともご本人は決して「軽いけが」とは思っていないだろう。

さまざまな事故のニュースで、けがの程度をあらわすことばに「軽傷」「重傷」「重体」っていうのがあります。きっと、客観的に、どこまでが軽傷でどこからを重傷というか、は決まっているんでしょうが──そしてもちろん重傷と重体のちがいも明文化されているんでしょうが──、わたしはこの「軽傷」ってのがいつも気になるんです。そりゃ他人から見れば「軽い傷」だろうけどさあ。痛くて、夜、寝られんかも知れんぢゃないか。本人からすりゃ、「なんでオレがこんな大けがするんだああ!」って叫び出したい気持ちだろうと思う。いつも思う。

で、さいしょの愛媛の事故の75歳女性ですが、ニュースでは「軽いけが」といい、「軽傷」とは言わなかった。「軽いけが」と「軽傷」とはどう違うんだろう。もしかして「軽いけが」のほうが「軽傷」よりも傷が浅いのかな。

ガーディナー『バッハ_管弦楽組曲』

2010年12月06日 | CD バッハ
Bach
Overtures
English Baroque Soloists
John Eliot Gardiner
WPCS-10803/4

1983年録音。50分13秒/46分13秒。ERATO。ガーディナーはつい最近になって手兵たちとようやく『ブランデンブルク』を録音しましたけど、それまではバッハの器楽合奏曲はほとんど録音してなかった。出てたのはこの『管弦楽組曲』だけぢゃないですか? 

83年ていうと、ガーディナーがカークビーとカンタータ51番を録れた年で、『メサイア』を録れた翌年に当たります。エラートへはパーセルの劇音楽を継続的に録音中でした。アルヒーフへのバッハの声楽曲の録音が始まるのはこの二年ほど後。リズムの切れの良さや響きの軽さが、あの『メサイア』を思い出させる。運動神経のよいバッハ。

身軽に、さらりさらりと聴かせてくれる。その後出て評判になったムジカ・アンティカ・ケルンの、ずばずば斬りまくるような演奏とはまるで方向が違う。さいきんは時代楽器を使っていても、もう少しメリハリを利かせたり、あえて遅めにテンポをとってそれなりに味のついた(中濃?)演奏が多いです。そういう意味ではちょっと古さも感じます。

トランペットの入る曲は颯爽としてかっこいい。だから聴きばえのすルのは3番4番の入ったCD2のほうですかね。2番のトラベルソはベズノシウクだそうです。がんばってはいるけどコクがない。速いところはせわしなさが先に来る。ていうか、もともとわたしはリコーダーは好きだけどトラベルソはあんまり…。

他の演奏にも食指が動かないわけではないけれど、もともとバッハにそうそう入れ込んでいないわたしとしては、この曲はとりあえずこのガーディナー盤で聴いてても悪くはないかな、というくらいの満足度。歯切れが悪くてすいません。

帰ってきたAxel

2010年12月05日 | 演ずる人びと
《Alles was zählt》では交通事故で入院中だったAxelがシュタインカンプに戻ってきました。わたし正直に言うとAxelは自動車に轢かれて死んじゃったのかと思いこんでたので、「おまい生きとったんかい!」という感じでした。(ちなみに、いまわたしはここで、「轢く」という漢字が車偏に〈樂〉だったってことにびっくりした。わたしこの字まだ手書きで書いたことないかも…。)

でも、なんか事故の後遺症があって、むかしの、ああ言えばこう言ううざったいAxelらしさが減退している。Axelはあのままなのかな。

Jennyの死の一件でいまだに話を引っ張っているんですが、もういい加減にしてくれんかねえ。まあ現実の世界では、(Simoneにとっては)娘の死、(Marianにとっては)愛した女の死、というのは、ひと月やふた月で立ち直れるもんではでないとは思います。でもそれをテレビドラマで、現実の時の流れと同じ尺で繰り返し見せつけられると、痛々しさを通り越して見てるこちらの気持ちが引いてしまう。

先週はドイツ語講座入門編の教材として使えそうなせりふがあちこちにありました。死んだはずのJennyから手紙が届いた、ってことで〈Jenny lebt.〉ってせりふが繰り返し出てきた。「Jennyは生きてる!」ってことでしょ。わたしにも分かったよ。「生きる」が〈leben〉で、それの三人称単数だから、〈lebt〉。それから復活したAxelがRichardのオフィスに現れて、それを見たMaximilianが驚いて言うせりふが〈Sie?〉で、それに対するAxelの返事が〈Ich!〉というのも面白かった。日本語だと「おまえ、もう帰ってきたのかよ?」「ああ。またオレ流でやらせてもらうぜ!」って感じだと思う。MaximilianにとってAxelはもちろん〈Du〉ではなくて〈Sie〉なのね。

《Alles was zählt》を見てるとドイツ語勉強したくなりますね。現在形の活用語尾の変化は-e、-st、-t、en、-t、-en、でしたっけ。その昔、辻あき子さんといっしょに憶えました。

「かんがみる」?

2010年12月03日 | 気になることば
「かんがみる」が変だ。これはここんとこずーっと気になってます。もともとわたしは「かんがみる」なんてことば、知ってはいたけどほとんど自分で使ったことがなく、でもいつからかこのことばが使われているのを見かけるようになって、気になりだしました。それがたいていの場合、これ間違いなんぢゃないかなあと首をひねらされる使い方なのだ。

たとえば、きょうの毎日jpによると、「ヤマキ」は海老蔵が出ているCMの放送を、例の件のせいで見合わせることにしたそうなんですが、そのコメントとして「ヤマキ」は、「一連の報道の社会的影響をかんがみ、見合わせることにした。」としているそうです。が、この「かんがみ」も怪しい。わたしはこのコメントを読んだとき、なんですなおに「考え」としないんだろうと思った。このコメントを出した「ヤマキ」の人は、「かんがみる」は「かんがえる」と同じ意味だと思いこんでいるのではないか。あるいは「かんがみる=かんがえてみる」とかいう意味だなどと誤解しているのではないか。

「かんがみる」は「かんがえる」とは違います。誤用してる人たちは、「かんがえる」よりも「かんがみる」のほうが得体がしれなくて、かつ、もっともらしいから、意味もよく知らないくせになんとなく使っちゃうんだろう。「遺憾」とか「厳粛に~」とかと、誤用の病根は同じだと思うね。

ふつう「かんがみる」は、「これまでの先例にかんがみてしかるべく処理する」とかいうふうに使う。なにか参考になるものがあって、それをよりどころにしつつ当面の懸案に対処する、みたいなときに使うのである。そして直前に来る助詞はふつう「を」ではなくて「に」である。

リステンパルトとシュタルケル

2010年12月02日 | 音楽について
大学に進学して引っ越しするまで暮らした実家には、バッハのLPが二枚ありました。一枚はリステンパルトの指揮の『ブランデンブルク』5番と『管弦楽組曲』2番をカップリングしたもの。もう一枚はシュタルケルの『無伴奏チェロ組曲』のたしか1,5,6番(だったと思う)。リステンパルトのは廉価盤で出ていたのをわたしがお小遣いで買いました。シュタルケルのほうは分からない。自分で買ったんだっけ。うちのおやじは別にクラシックのファンて雰囲気はなかった人ですが、趣味人で、クラシックのLPを三四枚ばかりは買って持っていたので、その中にあったのかも知れない。

でも、ずっと忘れてたんですよ。大学に進んで、合唱をして、やがて本格的に古楽に目を開くようになって、最初に買ったCDがガーディナーの『メサイア』で、その後しばらくは一本道で古楽オタクだった。時代楽器をもちいたバロックものやルネサンスのア・カペラものばかり聴いていた。リステンパルトもシュタルケルも、長いこと完全に忘れ去ってました。

しかし大したもので、いまだに、リステンパルトやシュタルケルのバッハがどんな音だったか、かすかに思い出せる。いや少なくとも思い出せるつもりでいます。リステンパルトのは冴え冴えとして、かつ端然とした風情の演奏。いっぽうシュタルケルのは、とにかく男性的な、力でバッハをねぢ伏せるようなスピード感のある演奏だった。

リステンパルトもシュタルケルもCDになって今日なお入手可能なようで、ってことはこれだけ時を経てもそれなりに価値を認められているということなんでしょう。そういういい演奏に中高生のころに巡りあえてよかったなあと今にして思いますね。あの頃、もしうちにリヒターのバッハのLPがあって、聴いてたりしたら、今のわたしの音楽観もよほど変わっていたでしょうね。なんか恐ろしいような気もしますけどね。

バッハとわたし

2010年12月01日 | 音楽について
ドイツ語のドラマを見るようになった縁で、この冬はドイツの音楽をあれこれ聴こうとしているんですが、そうなると、わたしの場合どうしてもバッハが中心になります。

四大宗教大作のうち、『マタイ』はレオンハルトとガーディナーを持ってます。『ヨハネ』はガーディナーだけ持ってます。『クリスマス・オラトリオ』もガーディナー。『ロ短調ミサ』だけはちょっと様子がちがって、パロットとヤーコプス。

わたしの場合、バッハの大作を普段からしょっちゅう聴くって生活スタイルぢゃないんで、バッハの受難曲なんて、それぞれのCDを一年に一度聴くか聴かないかくらいですわ。今のところCDを買い足すつもりはありません。レオンハルトの『マタイ』は、渋いけど、名盤ですよ。ガーディナーの『マタイ』『ヨハネ』『クリ・オラ』は1980年代後半のもので、うす味ですが、そのぶん聴き飽きない。

パロットの『ロ短調ミサ』は、CD出始めの時期に買った古いもので、長く持っているせいもあってこれだけはよく聴いてきました。完全なOVPPではないけどそれに近い小編成のアンサンブルで、パロットの指揮も気合いが入っていて緻密です。やはりカークビーが際立っているのとボーイアルトの子たちが健闘しているのが特色。

バッハのカンタータは、もう、全部聴こうなんて最初から思ってないの。アーノンクール&レオンハルトの全集からの名曲選とか、リフキンのとかが2枚組の廉価盤になって出てるのを見かけると買ったり、あとバッハ・コレギウム・ジャパンのも2枚くらい買ったことがあるし、てんでバラバラに、思いつきで増やしてます。この冬はバッハ特集することにしたので、また少し増えそう。