歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

「鷹揚」と「大様」

2010年01月31日 | 気になることば
「鷹揚」と「大様」はがんらい別語だったそうですな。不明にして知らなかった。わたしはこの二つは同じ言葉でどっちかが──というか「大様」のほうは──宛字なのだろうと思いこんでました。

「鷹揚」は態度やふるまいに余裕のある様子。鷹が空をゆうゆうと飛ぶように。いっぽう「大様」は、辞書によって「鷹揚におなじ」とするものもあるけれど、動作ののろいこと、ゆっくりしていること、大ざっぱ、の意にも用いるようです。「鷹揚」も前後の文脈によっちゃ褒めてるとばかり取れないこともありますが、語のレベルで云うと、「鷹揚」はいい意味にしか使わないけど「大様」は悪口にも使うことがある、というか使える、ってことね。

わたしはむかしは「鷹揚」しか知らなかったんですが、平岩弓枝『日蔭の女』という小説を読んでいたら「大様」と出てきて、「ああ大様とも書くのか」と思った覚えがある。実はそのときカード取らなかったんでいまうろ覚えで言ってるんですが、たしか『日蔭の女』だったはず。しかしその時には意味の違いなんて思い当たらず、表記の違いとしてしか認識しなかった。なんせ高校生だったからね。

「いかれる」

2010年01月29日 | 気になることば
ゆうべのラジオ深夜便「ワールドネットワーク」で、松本一路さんはカイロの中野さんという人に向かって「中野さんも(そのコンサートに)行かれるんですか?」という言い方をしていました。わたしは蒲団の中で聞いていたんですが、寝ながら眉をつり上げたね。NHKのアナウンサーとして勤めきったベテラン松本さんでさえ、「行かれるんですか」だ。ど素人ならいざ知らず、言葉のプロが平気で、無造作に、「イカレるんですか」などと、敬語のつもりで言ったのだ。「行く」の尊敬語としての「行かれる」はここまで蔓延しているのですよ。

わたしは「行く」の尊敬語として「行かれる」を使ったことはほとんどない。いま厳密を期して「ほとんど」と言ったわけで、とくに書き言葉では一度も使ったことはないはずです。

なぜなら、「いかれる」というのは「頭がおかしくなる」という意味だから。たとえば「松本さんはもうイカレた」と言われると、「松本さんはもう頭がおかしくなってダメになった」と取るのがわたしにとってはもっとも自然なのです。そらもちろんシチュエーション、文脈というものがありますから、そうぢゃあなくて、言った本人は敬語のつもりで言ってるんだってことは分かりますけどね。しかし敬語のつもりで、大切にすべき相手に向かって平気で「行かれる」なんて言うのは、つまりこころから相手のことを大切になんか思ってないってことだ。ただ義務的に、おざなりな気持ちで、言葉をそまつに使っている証拠だと思う。

「行く」の尊敬語としてわたしがもっともよく使うのはやはり「お出でになる」でしょうか。「いらっしゃる」よりも「お出でになる」のほうを頻繁に使っていると思う。わたしは国語学者ではないので「いらっしゃる」と「お出でになる」の厳密な違いは知りません。ともかくも普通の社会人ならこのうちのどちらかは必要なときにスッと出てくるようにしておくべきだし、言葉で飯を食ってるアナウンサーならましてや、この手の言葉を使いこなせて当然だと思うね。

カーニン『ヘンデル_セメレ』

2010年01月24日 | CD ヘンデル
Handel
Semele
Joshua, Croft, Summers, Sherratt, Pearson, Wallace
Chorus of Early Opera Company
Early Opera Company
Christian Curnyn
CHAN 0745(3)

2007年録音。59分44秒/46分02秒/63分14秒。CHANDOS-CHACONNE。はじめて聴く完全版の『セメレ』。ただし、ヘンデルの楽譜にはあったけど初演のときに削除されたキューピッドのアリア(ガーディナー盤には収録)はここでは省略されています。クリスチャン・カーニンて人の指揮ぶりに不安があったんですが、ていねいな指揮で、まあまあだいじょうぶでした。芯になるローズマリー・ジョシュアとリチャード・クロフトの出来がいいので、ちゃんと聴いた、って気になります。

カーニンは『セメレ』を壮大なオラトリオというよりは情念渦巻く室内オペラふうに作っていく。ここでのセメレは、ガーディナー盤の清楚なセメレとはちがってなまなましい女の肉体を持っている。ただこういう行き方するならもうちょっと踏み込むべきでした。どこがどう足りないとはいえないけどちょっとばかり彫りが浅い。音楽が前へ前へと突き進んでいく力がちょっとばかり足りない。これはかなり微妙なレベルの話だとは思いますが、わたしはそう感じました。原曲どおりにやる、というのも善し悪しで、とくにCD1(第1幕)は劇の進行を止めてしまう長いアリアが多すぎる。それを削ったガーディナーの決断は納得できるものですわ。

ジョシュアはこれ以前にもヘンデルを歌っていましたけど、わたしはこの《セメレ》でああこの人いい歌手だなとはじめて思った。この人の歌うセメレはキッパリとしていて、色気もあって、そしてテクニックも決まっていて、安心して聴いてられる。

ジュノーとイノーをヒラリー・サマーズというアルトがひとりで歌っている。ヘンデル当時もひとりで歌ってたんでしょうが、これは善し悪しですな。ガーディナー盤ではジュノーをデラ・ジョーンズ、イノーをキャスリーン・デンリーが歌い分けてました。そのほうが聴いていて無理がない。サマーズは、イノーに関してはこれでいいと思います。しかしデラ・ジョーンズのあの圧倒的に強烈なジュノーを聴いたあとでヒラリー・サマーズを聴くと無個性でただ気味の悪いだけ、って感想になる。まあそう貶すこともないか。でもイマイチですよ。

ほかにリチャード・クロフトはジュピターのほか最後にちらっと出てくるアポロのレチタティーボも担当、バスのソリストであるブリンドリー・シェラットBrindley Sherrattはカドムスとソムスの2役。男声はどの人も実力じゅうぶんで不満はありません。

合唱はわりと自由に開放的な歌い方してますが粒が揃っていてなかなかよい。

ガーディナーの『セメレ』聴き直し

2010年01月23日 | 音楽について
カーニン指揮の『セメレ』の感想文を書こうと思って、その前にガーディナーの録音を聴き直してみたのですが、このガーディナーのがなかなかよろしかったのですよ。ガーディナーの感想は以前書き上げてアップしてあるのですが、ちょっと書き直そうかと思いましたわ。ガーディナー盤の弱点は、途中何曲かオミットしていることとタイトルロールを歌うノーマ・バローズNorma Burrowesが弱いこと、でした。しかしCD2枚に収まる分量にしたおかげでドラマは引きしまったし、高慢女ともいえるセメレをあえて可憐な声質のバローズに任せることで、ガーディナーはこのオラトリオを「わがままばかり言ってると罰が当たりますよ」などという安っぽい教訓から救いあげようとしたのではないでしょうか。なにしろバローズはセメレをけなげに、精一杯歌ってるんだもの。可哀そうになっちゃうんだよ。ややかたくななところはあっても、そりゃ恋する女だもの当然ですよ。ガーディナーの描き出すセメレは「嫉妬に狂うジュノーに嵌められた悲劇の女」なのだよね。ガーディナー、間違ってないよ。わたしはこれでいいと思いました。

「朝令暮改」と「朝三暮四」

2010年01月23日 | 気になることば
きのう鳩山首相は衆院の予算委員会で自民党の茂木さんから「朝三暮四」の意味を訊かれて「朝令暮改」と取り違えて答えていた。茂木さんがどういう話の枕として「朝三暮四」なんて持ち出したのかよく聞いていませんが、茂木さんに感謝。わたしも「朝三暮四」って言葉は見たことがあるけど意味は知りませんでした。訊かれたら鳩山さん同様「朝令暮改」のつもりで答えていたと思う。鳩山さんとしてはこのところ「野党のときはあんなこと言ってたのに首相になったら豹変するのか」って責められ続けていたから、また「言うことがころころ変わる」って問い詰められるのかと思い込んぢゃったのだ。カッコ悪かったけど、誤解の経路はよく分かる。マスコミは「首相は4文字熟語に弱い?」とか皮肉っていた。鳩山さんはいろいろと頼りなくて情けないとはわたしも思いますが、しかし「4文字熟語」などと平気で表記する新聞の書くことを真に受けてはならない。

ジーキル博士?

2010年01月22日 | 本とか雑誌とか
Robert Louis Stevensonの《Strange Case of Dr Jekyll and Mr Hyde》を、そういえばまだ読んでなかったことを思い出したので、文庫本でどんな訳が出てるかちょっと調べてみました。例によってモーラ的なものではありませんが、めぼしいのだけでもこんだけ目に止まりました。最後の数字は税込み定価と、Amazonに書いてあった刊行年です。

スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』大谷利彦訳、角川、300、1963
スティーヴンソン『ジーキル博士とハイド氏』田中西二郎訳、新潮、300、1967
スティーヴンスン『ジーキル博士とハイド氏』海保真夫訳、岩波、483、1994
スティーヴンスン『ジキル博士とハイド氏』夏来健次訳、創元、525、2001
スティーヴンスン『ジーキル博士とハイド氏』村上弘基訳、光文社、560、2009

いまや「スチーブンソン」なんて言わないのね。60年代に出はじめた角川と新潮が「スティーヴンソン」で、90年代以降に出たのは「スティーヴンスン」になっている。それ以上に驚いたのはいまや創元以外の各文庫が「ジキル博士」ではなくて「ジーキル博士」としていたこと。ここでわたしはMacの読み上げ機能で原題を発音してもらいましたが、どちらかというと「ジーキル」よりか「ジキル」に近く聞こえたけどなあ。うーむ。

それにしても古い角川と新潮はいまだに300円でがんばっているいっぽう、90年代の岩波が483円、2001年の創元が525円、2009年の光文社が560円というのはえらい値段に開きがありますな。ほぼ倍。そのぶん新しいのは解説が充実してるのでしょうか。

さあどれを読むことにしますかねえ。新潮の田中西二郎さんはクリスティも何冊か翻訳してました。へんな日本語書くかたではなかったと思うので、案外いいかもしれません。

ちくま日本文学『谷崎潤一郎』

2010年01月21日 | 本とか雑誌とか
ちくま日本文学『谷崎潤一郎』読了。「刺青」「秘密」「母を恋うる記」「友田と松永の話」「吉野葛」「春琴抄」「文章読本(抄)」。はづかしながら谷崎潤一郎をこれだけまとめて読んだのははじめて。谷崎という人は、題材はドロドロでも文体は非常に明晰ですね。横文字に訳すとしたら志賀なんかよりよほど訳しやすいのでは、と感じました。

まづ気になること。このちくま日本文学の『谷崎潤一郎』の本文では、改段のため改行しても、新しい行の冒頭一字分をあけないで、すべて行頭から詰めて組んである。谷崎潤一郎は、行頭から詰めて書く人なのですかね。ほかの、新潮文庫ではどうなっているのか調べてないのでアレなんですが。

いちばん面白く読んだのが「友田と松永の話」。ジキル・ハイドもの。谷崎潤一郎が探偵小説に興味をもっていたというのは確か川本三郎の本で読んだことがあった。「秘密」にもそういう気配は濃厚ですが、この「友田と松永の話」は最初に謎が設定されて最後に真相が明かされる、という意味でまさに〈探偵〉小説になっている。失踪した松永儀助の妻の手紙で松永の失踪のてんまつが語られるという設定がミステリアスな雰囲気をもりあげる。この手紙の扱いようによっては、かのロバート・ゴダードのようにいくらでも謎を深められるなあと思いました。

「吉野葛」。「友田と松永の話」とはうって変わって、実におだやかで奥がふかい小説。中世以来の後南朝伝説やら浄瑠璃やらを背景にして、母恋いを語り、若いふたりの結婚を語る。相変らず文体は明晰。これはいい小説だなあ。

「春琴抄」は句読点を周到に抜き去った独特の表記によって盲人の春琴と彼女に奉仕する佐助との閉ざされた世界をめんめんと描き切っている。それは分かるけれども、予想通りわたしはすこしも心動きませんでした。ヤな女ぢゃん春琴て。佐助がただただ可哀そう。っていうか共感できない。のに、なぜか、ああやっぱこの小説、傑作なのかなあと思ってしまうのはやはり筆力か。佐助が黒目を突くところは読み飛ばしたよ恐くて。余談ながらこれは百恵・友和で映画になっちゃってるんですよね。さぞかし清らかな純愛映画に仕立ててあるんだろうね。

「春琴抄」に「渓流の響の潺湲[せんかん]たるも尾の上の桜の靉靆[あいたい]たるもことごとく心眼心耳に浮び来り」(p.346)とある。「靉靆」というこのことば。どこかで見たことがある。それは頭ではなく目が憶えている感じ。もしかしたら「潺湲」のほうも眼にした経験はあるのかもしれないけどこれはぜんぜん憶えがない。「靉靆」についてちくまの注は「雲のように厚くたなびくようす。」という。

「文章読本(抄)」に『太平記』『更級日記』『源氏物語』など明治以前の古典の引用があるのですが、そういうのまで新カナにしちゃってる。ふつうこういう古典の引用は文庫本でも旧カナで表記しますよね。新カナになってるのを見て最初「えっ?」と思ったけど、しかしね、読んでみるとさほどの違和感はなかったです。われわれはふつう古典を歴史的仮名遣いに調整された本文で見ていますが、元の「原稿」を見てみると、筆で書かれたむかしの人の表記は歴史的仮名遣いに従ってなんかないんですよね。

ジョスカンのミサのCD

2010年01月12日 | CD ジョスカン
今谷和徳さんによると、ジョスカンのミサは偽作を除いて18曲あるそうですよ。そのうちの17曲について、わたしの手元に音源があることがきょう(!)判明しました。持ってないのは18だけ。

1 Missa Ad fugam→Tallis Scholars
2 Missa Ave maris stella→Taverners, A Sei Voci
3 Missa De beata virgine→A Sei Voci, Theatre of Voices
4 Missa Di dadi→London Medieval Ens.
5 Missa D'ung aultre amer→Alamire
6 Missa Faisant regretz→London Medieval Ens., Clerks'
7 Missa Fortuna desperata→Tallis Scholars
8 Missa Gaudeamus→A Sei Voci, Labyrintho
9 Missa Hercules Dux Ferrariae→A Sei Voci, Labyrintho, Pomerium
10 Missa L'ami Baudichon→Capella Alamire
11 Missa La sol fa re mi→Tallis Scholars
12 Missa L'omme arme sexti toni→Tallis Scholars, Oxford Camerata
13 Missa L'omme arme super voces musicales→Tallis Scholars
14 Missa Malheur me bat→Clerks', Tallis Scholars
15 Missa Mater patris→Chanticleer
16 Missa Pange lingua→Tallis Scholars, A Sei Voci, Labyrintho, HMF
17 Missa Sine Nomine→Tallis Scholars
18 Missa Une mousque de Biscaye

これはあくまでもわたしが所持してるCDの話ですよ。買ってないのは載せてません。たとえば7はThe Clerks' Groupのもあったと思うけどわたしは買いそびれました。12, 13はA Sei Vociもあるけど買ってません。なお、ご承知でしょうが、5のAlamireはイギリスのグループ、10のCapella Alamireはアメリカのグループで、別団体です。

これまでわたしは、なんでジョスカンのミサ曲全集が出ないのか、ということについて不満を漏らしてきたのですが、ああもうこれだけあればじゅうぶんだわ。このなかで演奏に不満を感じていてああ新しい録音が欲しいなあと思うのはCapella Alamireのしかない10《Missa L'ami Baudichon》くらいだ。この10も、それから18《Missa Une mousque de Biscaye》も、そう遠くないうちにいいCDが出ますよ。イライラするのはやめよう。ほかの曲については、よくまあこれだけいろんなグループが手分けして録音してくれたもんだ。イギリス系のグループが多いとはいえ芸風はいろいろで変化に富むし、A Sei VociやDe Labyrinthoもよくやってくれた。それに加えて北米のPomeriumやChanticleerも歌ってくれてる。このPomeriumやChanticleerのもそうだけど、ジョスカンのミサをCD1枚だけしか手がけていないチームが、総じて高い水準をキープしてるのがうれしい。

ここまで充実してきたのも、最近になってタリス・スコラーズが1, 7, 14, 17を出し、ロンドン中世アンサンブルの4が復活し、アラミレの5が出てくれたりしたお蔭だ。いい世の中になったなあ。

シアワセー郡

2010年01月11日 | 気になることば
Shiawassee County。シアワセー郡。アメリカ、ミシガン州にある。ただしほんとの発音は「シアワッシー」に近いんだとか。

ラジオ深夜便の夜1時前に、世界各地の主要都市の天気と、最低気温最高気温が毎夜アナウンスされるんです。これがなかなか興味ぶかい。わたしは外国行ったことないし、北海道も知らないので、零下に身をさらしたことがめったにないのだ。しかし世界には寒いところで暮らしている人がいるのですねえ。今の時期、ソウルでは一日中氷点下な日もあるのね。さらにモスクワではこの前なんか予想最低気温がマイナス18度だった。北国のかたにはそうでもないのかもしれませんが、わたしは聞いてて「おーっ」て声が出た。北アメリカではニューヨークとロサンゼルスが紹介されます。ニューヨークでは最低気温が零下になることもよくあるけど、ロサンゼルスは暖かいのね。最高気温が20度を超えることもあるようですね。

ロンドン中世ens.『ジョスカン_ミサ・ディ・ダディ/ミサ・フザン・ルグレ』

2010年01月10日 | CD ジョスカン
JOSQUIN DESPREZ
Missa di dadi
Missa "Faysant regretz"
The Medieval Ensemble of London
PETER DAVIES & TIMOTHY DAVIES
475 911 2

1984年録音。52分14秒。L'Oiseau-Lyre。あまり期待せずに聴いたんですが、思いのほかいいですよこれ。もうあと1枚か2枚、このグループでジョスカンのミサを聴いてみたかった。ブレット、チャンス、ペンローズ(以上Ct)、コーンウェル、カビィクランプ、エリオット、キング(以上T)、ジョージ、ヒリアー(以上Br)。と言うことは最上声をカウンターテナー3人で歌い、下3声は2人づつということですね。全曲ア・カペラ。楽器は使っていません。

よく見ると、歌い手たちはほぼそのまま、ヒリヤード・アンサンブルと重なってます。ヒリヤードの名盤として名高いジョスカン作品集(「アベ・マリア」ほか)は1983年の録音で、つまりこのミサの録音のほうが後。それにしても、メンバーも重なり、録音時期もごく近いのに、同じ作曲家の曲とは思えないほど違って聞こえるのはおもしろい。ヒリヤードのジョスカンのような精緻をきわめた精密機械のような響きはここにはありません。ここにあるのはもっと素朴で能天気な、しかし安心して聴いていられるジョスカン。

ヒリヤード・アンサンブルのリーダーだったヒリアーがここではバリトン歌手として参加しています。ヒリアーのびのび歌ってますよ。9人とも、ほかにソリストとしての録音があるので、わたしは9人全員、どんな声の人か知ってます。1982年に録音されたガーディナーの『メサイア』では、ブレットはカウンターテナーのソリストとして、チャンスはモンテベルディ合唱団員として参加していました。しかしチャンスは、モンテベルディ合唱団時代もそうだったけどどうもスタンドプレーっていうか、自分だけ目立とう目立とうって顕示欲がいつも耳につくのでキライです。

このジョスカン、演奏の雰囲気はパロット指揮の『ミサ・アベ・マリス・ステラ』に似ている。足腰がしっかりしていて、自信に満ちたゆるぎのない演奏。テクニックを誇示するわけでもなく、時代考証を突き詰めるわけでもなく、ただただ、ジョスカンの音楽のよさがストレートに伝わってくる。こういうスタイルのジョスカンが個人的にはいちばんしっくり来るなあ。ごく当たり前に演奏してるように聞こえるけど、それでこの充実度。曲も演奏もいいです。ただ、多少一本調子でないこともない。そこだけ、ちょっと惜しい。

オワゾリールにこんな上質なジョスカンの音源があったなんてね。ちょっとびっくりした。ロンドン中世アンサンブルとして再末期の録音だと思われます。それにしても、ピーターとティモシーと2人で指揮している、ってのは具体的にはどうやってるんでしょうかね。