モンテベルディのマドリガーレについては、コンソート・オブ・ミュージックが古楽的演奏の先駆けだった。英Oiseau Lyreに第4巻と第5巻の各全曲と、それ以降のマドリガーレ集からの抜粋、計3枚録音し、その後英Virginに第1~3、6、8巻それぞれ全曲録れ、それ以外にも録音がある。
わたしは、COMのモンテベルディ演奏を時代遅れとは思わない。いまモンテベルディというとコンチェルト・イタリアーノやその分派といえるラ・ベネシアーナの演奏を採るのが妥当と思われていて、それはそれで反対しないが、それでも、COMのモンテベルディにも、いまなお価値がある。
あの録音はつまり、イギリス人にとってのイタリアなのだ。喩えて言えば、ターナーがイタリアに旅行して描いたベネツィアの水景のスケッチだとか、『眺めのいい部屋』や『イギリス人の患者』にフィレンツェが出てきたりするのと同じ文脈にあるものだと思う。(『イギリス人の患者』のオンダーチェはイギリス人ではないけど、ブッカー賞を受けたというのはイギリス人が自分らの文化圏にある文学と認めたということだろう。)
ターナーのベネツィアはターナーにしか描けない。イタリアの画家の描き方と違うからといって、ターナーの描いたベネツィアのスケッチが無価値ということはないのである。わたしの、COMによるモンテベルディの楽しみ方はこれと同じだ。イタリア人の演奏とくらべると、COMのモンテベルディはやはり上品である。そして客観的である。たしかにそれは欠点ともなり得る。しかしたとえばコンチェルト・イタリアーノを聴いていて、「これって猥雑すぎるんぢゃないかなあ」と思うときがあるのである。そこでCOMを聴くと、バランスのよさに感心する。イギリス人によるイタリアものは、捨てたものではないのである。
わたしのところにはマドリガーレ集第6巻が、COMとコンチェルト・イタリアーノとラ・ベネシアーナと3種類ある。最新のラ・ベネシアーナはさすがに技術的にも欠点がなく音楽の推進力もぬきんでているが、セカンド・チョイスとしては、コンチェルト・イタリアーノよりもCOMのほうが妥当なのではないか。
わたしは、COMのモンテベルディ演奏を時代遅れとは思わない。いまモンテベルディというとコンチェルト・イタリアーノやその分派といえるラ・ベネシアーナの演奏を採るのが妥当と思われていて、それはそれで反対しないが、それでも、COMのモンテベルディにも、いまなお価値がある。
あの録音はつまり、イギリス人にとってのイタリアなのだ。喩えて言えば、ターナーがイタリアに旅行して描いたベネツィアの水景のスケッチだとか、『眺めのいい部屋』や『イギリス人の患者』にフィレンツェが出てきたりするのと同じ文脈にあるものだと思う。(『イギリス人の患者』のオンダーチェはイギリス人ではないけど、ブッカー賞を受けたというのはイギリス人が自分らの文化圏にある文学と認めたということだろう。)
ターナーのベネツィアはターナーにしか描けない。イタリアの画家の描き方と違うからといって、ターナーの描いたベネツィアのスケッチが無価値ということはないのである。わたしの、COMによるモンテベルディの楽しみ方はこれと同じだ。イタリア人の演奏とくらべると、COMのモンテベルディはやはり上品である。そして客観的である。たしかにそれは欠点ともなり得る。しかしたとえばコンチェルト・イタリアーノを聴いていて、「これって猥雑すぎるんぢゃないかなあ」と思うときがあるのである。そこでCOMを聴くと、バランスのよさに感心する。イギリス人によるイタリアものは、捨てたものではないのである。
わたしのところにはマドリガーレ集第6巻が、COMとコンチェルト・イタリアーノとラ・ベネシアーナと3種類ある。最新のラ・ベネシアーナはさすがに技術的にも欠点がなく音楽の推進力もぬきんでているが、セカンド・チョイスとしては、コンチェルト・イタリアーノよりもCOMのほうが妥当なのではないか。