歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

Consort of MusickeのMonteverdi。

2005年09月25日 | 音楽について
モンテベルディのマドリガーレについては、コンソート・オブ・ミュージックが古楽的演奏の先駆けだった。英Oiseau Lyreに第4巻と第5巻の各全曲と、それ以降のマドリガーレ集からの抜粋、計3枚録音し、その後英Virginに第1~3、6、8巻それぞれ全曲録れ、それ以外にも録音がある。

わたしは、COMのモンテベルディ演奏を時代遅れとは思わない。いまモンテベルディというとコンチェルト・イタリアーノやその分派といえるラ・ベネシアーナの演奏を採るのが妥当と思われていて、それはそれで反対しないが、それでも、COMのモンテベルディにも、いまなお価値がある。

あの録音はつまり、イギリス人にとってのイタリアなのだ。喩えて言えば、ターナーがイタリアに旅行して描いたベネツィアの水景のスケッチだとか、『眺めのいい部屋』や『イギリス人の患者』にフィレンツェが出てきたりするのと同じ文脈にあるものだと思う。(『イギリス人の患者』のオンダーチェはイギリス人ではないけど、ブッカー賞を受けたというのはイギリス人が自分らの文化圏にある文学と認めたということだろう。)

ターナーのベネツィアはターナーにしか描けない。イタリアの画家の描き方と違うからといって、ターナーの描いたベネツィアのスケッチが無価値ということはないのである。わたしの、COMによるモンテベルディの楽しみ方はこれと同じだ。イタリア人の演奏とくらべると、COMのモンテベルディはやはり上品である。そして客観的である。たしかにそれは欠点ともなり得る。しかしたとえばコンチェルト・イタリアーノを聴いていて、「これって猥雑すぎるんぢゃないかなあ」と思うときがあるのである。そこでCOMを聴くと、バランスのよさに感心する。イギリス人によるイタリアものは、捨てたものではないのである。

わたしのところにはマドリガーレ集第6巻が、COMとコンチェルト・イタリアーノとラ・ベネシアーナと3種類ある。最新のラ・ベネシアーナはさすがに技術的にも欠点がなく音楽の推進力もぬきんでているが、セカンド・チョイスとしては、コンチェルト・イタリアーノよりもCOMのほうが妥当なのではないか。

オデット『リュートのための古いエアと舞曲』

2005年09月24日 | CD 中世・ルネサンス
Ancient Airs and Dances
Paul O'Dette
Rogers Covey-Crump
John Holloway
Nigel North
Christel Thielman
CDH55146

1986年録音。55分12秒。Hyperion/Helios。レスピーギの『リュートのための古風な舞曲とアリア』の元ネタを集めた企画盤。リュートのCDでなにかいいのを教えて、と言われたら、このCDを教えてあげればまづ間違いありますまい。いま安いし。

ポール・オデットが出づっぱりですが、全編リュート一本で押し通すのではなく、ところどころでカビィクランプのテナーが入ったりバイオリンや他の低音楽器が色を添えたりしてくれるので退屈しない。いづれにせよあまり気合いを入れて聴くたぐいの音楽ではなく、気軽に聴きすすめればいいと思います。

あのレスピーギの曲は昔から好きで、けれども古楽ばかり聴いていたのでなかなかモダン楽器のCDにまで手を伸ばす余裕がなく、そのままにしてありました。『レコード芸術』の海外盤情報でHyperionからこの録音が出たと知ったのですが、当時はまだ、インターネットで簡単に注文できる時代ではなく、けっきょくそのCDとは巡り合わず仕舞いでした。その後、廉価盤になって出たと知ったのでさっそく注文しました。

有名な〈シチリアーノ〉はトラック22に〈Spagnoletta〉としてリュート・ソロで演奏されています。わづか2分の小品ですが、ことにリュートやギターの場合、優美な小品というのは忘れがたい印象をのこす。〈シチリアーノ〉だけでなく、三つの組曲にレスピーギが採ったメロディはどれもいい。やはり大した目利きです。

つい一二年ほど前にマリナーの指揮でレスピーギ版も買って、いまは両方楽しんでいます。

「せい」と「ため」。

2005年09月24日 | 気になることば
さっき読みおわった平岩弓枝『山茶花は見た 御宿かわせみ4』にこんな表現があった。

「あの器量だ、嫁に欲しいという男も少なくなかったろうが、どうして嫁入りしなかったんだ」
「そいつはよくわかりません。たぶん、体がよわかったためじゃねえかと思います。それに、おたよさんもいることですし……」
(新装版第1刷、文春文庫、2004、p.256)

「体がよわかった『ため』じゃねえか」という言い方にひっかかった。わたしだったら「体がよわかった『せい』ぢゃねえか」とするだろう。「体がよわかったために嫁入りしなかった」という日本語は、文法上はあり得るが、わたしはそういう言い方はしない。「体がよわかったせいで嫁入りしなかった」というのが普通の言い方だろうと思う。

本来めでたいことであるべき嫁入りを、「体がよわかった」という事情で、しなかったという話なのだ。「失敗を人のせいにする」とかいうように、望ましからざる事実(ここでは、嫁入りしなかったこと)があって、その原因をせんさくするとき、まづは「せい」ということばを使う。この場合、「ため」ということばをまるで使わないわけではないが、優先順位としては、「せい」だ。

『御宿かわせみ』は2004年から文庫の新装版が出はじめていて、ファンサイトによると、改版に際して表現細部の手直しが行われているのだという。会話文で「とんでもございません」となっていたところが、「とんでもないことでございます」と訂正されたりしているそうだ。上の引用は「夕涼み殺人事件」の終わり近くなのだが、今後の増刷で手が入ることはないもんだろうか。

フェルナンデス『バッハ/リュート組曲』

2005年09月22日 | CD バッハ
J.S.Bach
4 Suites for Lute
Eduardo Fernández
BVCE-38035 (74321-82849-2)

2000年録音。75分22秒。ARTE NOVA。バッハのリュート組曲4曲のギター版。実はリュートの原典版は聴いたことないです。いづれリュートでも聴くつもりではいますけど、とりあえずこのCD安かったし、『レコード芸術』で濱田滋郎さんや濱田三彦さんが推薦していたので。

ギターで聴くバロックはかなり好き。セルシェルのほか、デイビッド・ラッセルのもいいです。フェルナンデスという人はこのCDではじめて聴きました。弾音はセルシェルのほうがより澄んでいると思います。フェルナンデスの音は、少なくともこのCDに関するかぎり、セルシェルよりも多少キンキンして聞こえる。しかしこれは録音技術の違いもあるからなあ。とにかく、フェルナンデスもていねいな音で、不満なく最後までたっぷり聴かせてくれます。

仕事中にBGMとしてかけていても、ついつい音楽のほうに注意が向いて聴きほれてしまうような、そういうCDです。

似ている。

2005年09月22日 | メモいろいろ
以前テレビ朝日でやっていた大相撲ダイジェストがNHKに移って、遅い風呂から上がったらちょうどやっていたので見てしまいました。

琴欧州という人は、『笑っていいとも』のイワンに似ていると思いました。

琴奨菊という人は、中日の種田に似ているような気がしました。

千代大海は、天童よしみに似ている…とこれは天童よしみが自分で言っていました。

パロット『ヘンデル/メサイア』

2005年09月21日 | CD ヘンデル
Handel
Messiah
Kirkby・Van Evera・Cable・Bowman・Cornwell・Thomas
Taverner Choir & Players
Andrew Parrott
5 62004 2

1988年録音。英Virgin。廉価盤で買ったのでメンバー表はなし。カークビーのファンなら買ってもよい。合唱の出来もよい。パロットの指揮は、どこといって悪くはないのだが、この指揮者にしてはおとなし過ぎる印象だ。

ホグウッドが『メサイア』を録音したのが79年、ガーディナーが82年だから、パロットの『メサイア』も、もう少し早く出てもよかった気もする。なお88年にはピノックも録音している。

古楽派にしては序曲がかなりゆっくりだが、その後は妥当なテンポで安定している。版はごく一般的なもので、目立った異稿は用いられていない。ホグウッド盤と同じくソプラノのソリストが二人いるが、曲の分担はホグウッドとは異なる。ホグウッド盤ではS2だったカークビーがここではS1で、"Rejoice greatly, O daughter of Zion!"とか"I know that my redeemer liveth"とか、ソプラノのメジャーなアリアは、このCDではカークビーが受け持っている。

ソリストで出来がいいのはカークビーとテナーのコーンウェル。出来の悪いのはアルトのケイブルとバスのトーマス。トーマスもカークビーと同じくホグウッド盤に続いて出ている。しかしトーマスのなまなましい声質は『メサイア』には不向きだと思う。アルトのマーガレット・ケイブルは、低音が出ていないし、曲の解釈に自信なく歌っている感がある。"He was despised"など、歌いこなせず持て余しているのが明らかである。ソプラノ2のバンイブラは相変わらず個性的な声、カウンターテナーはボウマンで、バンイブラもボウマンもわたしはあまり好きな声ではないが、どちらも、まあまあ歌えている。

そもそもわたしの好みとしては『メサイア』のソロは4人で分担して歌ってほしい。ソリスト6人は多すぎると思う。

合唱はよくこなれていて、安心して聴いていられる。たぶん他の指揮者のもとで何度も歌ったことのある人ばかりなのだろう。目立った傷はない。

パロットは『メサイア』の翌年、『エジプトのイスラエル人』を録音するのだが、そちらは気合いの入った素晴らしい演奏だ。もともとこの録音はEMIから出たものなのだが、おそらくパロットが本当に演奏したかったのは『イスラエル人』のほうで、EMIは、「ぢゃあ『エジプト人』も出してやるから、その前に『メサイア』も録音しろ」とかなんとか、言ってきたのぢゃないかしらん。

マイケル・オンダーチェ『イギリス人の患者』

2005年09月20日 | 本とか雑誌とか
マイケル・オンダーチェ/土屋政雄訳『イギリス人の患者』新潮文庫。

砂漠、そして戦争。極限の状況。登場人物は、操縦していた飛行機が沙漠に落ちて、瀕死の状態で生きながらえている男であったり、従軍看護婦であったり、泥棒であったり、イギリス軍に属するインド生れの爆弾処理班員であったりする。殺伐とした道具立てなのだが、にもかかわらず語り続けられる物語はじつに美しい。

彼らはいま、イタリア中部、フィレンツェ郊外の、尼僧院の廃墟である、神殿のような建物のなかで暮らしている。あるいは患者として。あるいは看護婦として。看護婦の父の友人として。そしてまた脱走兵として。第二次大戦末期のイタリア、フィレンツェ、廃墟、って舞台装置の中で、砂漠や遭難が回想されたり語られたりする、っていう趣向がすばらしい。そもそも廃墟、ってものは人を誘いますよね。

とりたてて劇的に筋が展開していくという訳でもない。話の輪郭をくっきりさせるより、むしろ意識してぼかしたかのような語り口。散文詩のような小説。物語の影の主役は、彼らが仮の宿りとしているこの廃墟そのものかも。

ブッカー賞受賞。映画化作品だがもちろん映画のほうはしらない。

辻邦生『嵯峨野明月記』

2005年09月19日 | 本とか雑誌とか
辻邦生『嵯峨野明月記』中公文庫。

もしかしたら今年出会った最良の本になるかもしれない。嵯峨本の成立にかかわった本阿弥光悦・俵屋宗達・角倉素庵の三人が、老いた後、それぞれの人生を振り返るという趣向。安土桃山の歴史の変転を横に見ながら、三者三様の、芸術・学芸に賭けた生涯が、丈高い文章で語られていく。

辻邦生の文章を久しぶりに読んだが、この人の日本語は明晰で、たるみがなく、かつ文学的な香気に満ちている。あらためて好きになった。この本は、もう一年以上前に買ってあって、こってりと中身のつまった本なので、なかなか手に取れずにいたのである。

辻邦生の本は、『夏の砦』をむかし読んだ。高校の読書感想文の課題図書かなにかになっていたのだ。その後『真晝の海への旅』を読み、それから『安土往還記』や、長崎が舞台になっている『天草の雅歌』を大学時代に読んだ。

「私は、自分も京をのがれる人の群れにまじって洛外へ歩いているが、この人々とは全く別個の世界に生き、そこに立っているのを感じた。この盲目の、物におびえた、洪水をのがれる獣のように荷を運びだしている人々と同じようには、自分がおそれてもおらず、失われるものにも全く無関心であるのを感じた。言ってみれば、私はこうした人々が一喜一憂する浮世の興亡や、栄耀財貨などを、加賀の夏、立葵が咲きほこるのを見て以来、自分に無縁のものとして切りはなしていたのだ。すくなくとも私が書や能に打ちこんで生きることを心掛けて以来、それらは日々刻々に私の外へと剥落していたと言っていい。私は自分でもそう努めたこともあるし、まるで無自覚でいたこともある。しかしそれがいつか、私を、かつての自分と別個の人間に変え、この世にあってこの世の外に生きるという生き方をごく自然にとらせるようになっていた。私はそのことを、この七月はじめの灼けつく日ざしのしたで、黙々と歩く人々の列を眺めながら、痛切に感じたのである。」(pp.326-327)

マニフィカト『パレストリーナ/ソロモンの雅歌』

2005年09月19日 | CD 中世・ルネサンス
Giovanni PierLuigi da Palestrina
Canticum Canticorum
Magnificat
Philip Cave
CKD174

1995年録音。79分10秒。英LINN。パレストリーナだけでCD1枚退屈させずに聴かせてしまうのだから、たいしたもんです。パレストリーナはむつかしいのだ。ジョスカンと違って、噴き上がるような躍動感に欠けるから。しかしこの演奏は、一見表情に乏しく見えるパレストリーナの音楽をきめ細かに編み直して、陰影に富んだ世界を、約80分、たっぷり聴かせてくれています。

Magnificatは1991年に立ち上げられた声楽アンサンブルで、このCDでは各パート2人の計8人がクレジットされています。アルトは男声で、ここではロビン・ブレイズが参加している。ソプラノのレベッカ・オートラムも近ごろあちこちのアンサンブルでよく聞く名前。

タリス・スコラーズが日本に登場してしばらくは、彼らの歌唱法こそが古楽を歌う声楽アンサンブルのスタンダードのように意識されたものでした。しかしここ数年、同じくイギリスから、タリス・スコラーズよりも柔軟な発声によるアンサンブルがいくつも出てきて、ようやく認識は改まりつつある。それら後発の団体の中にはやや腰の弱さを否めないグループもありますが、このマニフィカトというアンサンブルは、柔軟ながら表現力豊かで、非力さなど微塵も感じさせない。

"How beautiful are the feet"

2005年09月18日 | 音楽について
マリナーの『メサイア』DECCA盤の"How beautiful are the feet"は、最初ソプラノとアルトの二重唱で始まって合唱が引き継ぐ異稿を採用している。この版で歌っているのって、ほかにはマッギガンだけぢゃないかしらん。めづらしい版が聞けることはいい。

ただしわたしは、"How beautiful are the feet-Their sound is gone out into all lands"までをソプラノのダカーポ・アリアにした版がもっとも好み。"Their sound is gone out into all lands"という歌詞を、付点のリズムで、するすると昇っていくソプラノの上昇音型は最高だ。コープマンとマルゴワールがこの版で歌わせている。ただしどちらのソリストも、わたしの好みではない。

"How beautiful are the feet"の通常版では今のところピノック盤のオジェーがもっともいいと思う。オジェーに、ダカーポ・アリア版で歌って欲しかった。