歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

がんばれちくま文庫。

2006年08月31日 | 本とか雑誌とか
『明暗』を新潮文庫で買うと税込700円、岩波文庫では税込735円、ちくま文庫では『夏目漱石全集9』が『明暗』で税込1050円。ちくま高っ。

ちくま文庫の全集は一冊に長編二作を入れるパターンが多い。一冊に一作品だけが収まっているのは『明暗』のほかに『吾輩は猫である』だけ。その『猫』の値段も調べてみると、いづれも税込で、新潮文庫629円、岩波文庫588円、ちくま文庫(『全集1』)945円。

なんでこんなに値段違うの?

ちくま文庫の漱石全集は全十巻で、本体価格でいうとそれぞれ900円、950円、1000円、というようにキリのいい値付けになってます。十巻という数も手ごろで、まあざっと一万円で「漱石全集」と名のつくものが手もとに置けるわけですから、これは買う側にとっても買いやすいし、売る側も売りやすいんだろうと思います。

しかしなあ。ほかの文庫で買うより300円も高い、というのはちょっと困る。その分、注がていねいにつけてある、とか付加価値があるのならいいんですが、そういうふうにも見えない。

全体に漢字を仮名に開きすぎていて、また、同じ漢字なのに作品によって漢字のままだったり仮名に開いてあったりする不統一もある。でもとにかく読みやすい字面ではあります。ちくま文庫には『森鴎外全集』『芥川龍之介全集』『太宰治全集』もあって、わたしは漱石と鴎外しか揃いでは持ってませんけど、芥川の全集も、太宰のも、関心はあります。ちくま、がんばってください。

「思れる」。

2006年08月30日 | 気になることば
新潮文庫の『門』で気になる表記があったので書いておく。

起きた時は、日を載せた空が次第に遠退いて行くかと思れる程に、(『門』八)

小六はそれよりも口淋しい思がした。(同)

「思れる」「思」ともにルビなし。ここはルビがほしい。

新潮文庫の漱石は現在改版中で、以前と比べて活字の字体そのものも洗練されたものに変わったし、字面も余裕を持った組み方で読みやすい。漱石がつかった漢字を比較的多く残しているのも、いい。しかしルビが足りない。現代の一般的な表記に慣れた人が違和感をもちそうなところにはルビを振ってほしい。ちくま文庫を見ておくと、前例は「思われる」、後例は新潮と同じく「思がした」となっている。

COM『モンテベルディ/マドリガーレ集第4巻・第5巻』

2006年08月29日 | CD モンテベルディ
Monteverdi
Quarto libro dei madrigali
Quinto libro dei madrigali
The Consort of Musicke
Anthony Rooley
POCL-4429/30

1981,83,84年録音。76分15秒/73分17秒。Decca/Oiseau Lyre。モンテベルディのマドリガーレ集。第4巻、第5巻の全曲に、もともと別のアルバムとして出ていた第7巻、第8巻からの4曲が添えられている。

あらためて聴いてみて、その繊細な仕上がりに感心した。コンソート・オブ・ミュージックのモンテベルディを時代遅れのように言う人がいるが、誤りだ。イタリア人の演奏するモンテベルディが最近つぎつぎに出ていて、それはそれでけっこうなことである。それらはCOMの演奏よりもたしかに色彩ゆたかで情熱的だ。しかしCOMの演奏には、ういういしさというか、みづみづしさというか、他の演奏では聴くことのできない新鮮な感動が横溢している。技術がしっかりしていて、そのうえでむやみに濃厚でなくむしろ薄味に仕上げてある。だから繰り返し聴いても飽きない。解釈ではなくモンテベルディの音楽そのものに集中できる。

このなかでわたしが歌ったことのあるのは『第4巻』の"Ohimé, se tanto amate"と"Io mi son giovinetta"なのだが、"Ohimé, se tanto amate"のほうはハーバードのグリークラブ編の男声合唱版で歌った。あの"Ohimé"みたいな曲を日本の大学生が男声合唱で歌うなんて、無謀なことをしたもんだ。実際、みんな、恥ずかしがりながら歌っていた。

CD1の最後は第7巻からの"Tempro la cetra"で、テナーのポール・エリオットが独唱している。わたしが最初に聴いたエリオットはこれだったか、それともホグウッド指揮の『メサイア』だったか、憶えていないのだが、とにかくこれはポール・エリオットの名唱の一つで、わたしはこの"Tempro la cetra"と『メサイア』の"Comfort ye, my people"にあこがれて、古楽のテナーになることを決めたのだ。エリオットはCD2最後の"Ogni amante é guerrier"でも歌っている。

鮫島正樹と金聖響。

2006年08月25日 | メモいろいろ
きのう帰って、ちょっと電話をして、晩飯をすませて教育テレビをつけたら「きょうの料理」で、男の先生がチーズケーキをやっていた。五十がらみで、オシャレにそうとう気をつかっていそうな渋い色男である。鮫島正樹という人。そういえばこの人を見たのははじめてではない。「きょうの料理」だったか「キューピー三分クッキング」だったか、とにかくそのどちらかに出ていたのを見た。ルックスはキザだが、話し方はそうでもない。センスのいい気さくなおじさん、みたいであった。相手は、いかにもお嬢様、な感じの山本アナウンサーであった。前任の村上さんと比べると、山本さんのほうがよほどマシである。

大阪に金聖響という指揮者がいるのは知っていたが、夜おそくに総合テレビで再放送していた「トップランナー」にこの人が出ていた。在日三世でお父さんは理系の研究者だとかいう話だった。28歳の時のコンクールの映像が出たがそれはすごく男前だった。いまは太ってふつうの人である。音楽大学に進むことは両親に反対されて、ボストン大学の哲学科を出ているのだそうである。それにしても、指揮者で「聖響」という名前もすごい。ピアニストで「清水和音」という人もいたけど、これはさらにすごい。

マルジオーノ『古典歌曲集』

2006年08月16日 | CD バロック
Arie Antiche
Charlotte Margiono
Margiono Quintet
CC72100

2002年録音。53分43秒。Challenge Classics。シャルロッテ・マルジオーノが、弦楽四重奏の伴奏でイタリア古典歌曲を歌う。マルジオーノはメゾに近いハスキーな声質のソプラノ。必ずしも古楽的な発声とはいいがたい。レパートリーの広い人なのだろう。ガーディナーやアーノンクールの録音にソリストとして参加している。

弦楽四重奏の伴奏というのはオリジナルではなく新しく編曲し直したもの。それにしてもこういうスタイルで演奏されるイタリア古典歌曲というのはなかなかおしゃれだ。少なくとも大オーケストラでぎょうぎょうしく歌われるよりはよほどいい。しかしマルジオーノという歌手はむしろドラマティックな歌い方が得意の人のようで、このCDの企画とは必ずしも相性がよくないのではないか。この人なりに立派に歌っているのだが、まちっと涼やかな声で聴いてみたい、と思う瞬間がある。

最初が"Le violette"ではじまり、最後は"Vittoria, mio core!"で締めくくられる。全17トラック。曲は、"Caro mio ben"とか"Se tu m'ami"とか有名なものとさほどでもないものが取り合わせられている。(はじめて聴く曲が半分くらいあった。)イタリア歌曲集はベルガンサのが好きなのだが、ベルガンサのCDにはわたしが個人的に思い入れのある"O cessate di piagarmi"も"Caro mio ben"も入っていなかった。ひとまづ納得できる音源を確保できたということで良しとしよう。

日本最初のヘンデル。

2006年08月14日 | 音楽について
こちらのページによると、ペリー艦隊の乗組員が死んで、横浜のお寺に葬られ、その葬儀の際に『サウル』の葬送行進曲が演奏されたのだそうである。さらに調べると、死んだのはミシシッピ号に乗っていたロバート・ウィリアムズという24歳の水兵で、マストから甲板に転落死した。これが1854(安政元)年で、彼は横浜村増徳院内に埋葬され、これが今日につながる山手外国人墓地のはじまりとなった。

ということは日本で最初に演奏されたヘンデルの音楽は『サウル』第3幕の葬送行進曲である可能性が出てきた。「可能性が出てきた」などと歯切れの悪い言い方をするのは、出島の問題があるからだ。出島にはオランダ人がいたわけだが、なにしろオランダの首都アムステルダムというと、ヘンデルの(というかヘンデルに限らずバロック時代の)楽譜出版ではしょっちゅう名前が出てくるところだ。出島のオランダ人なんて、することもなくて暇で暇で死にそうだったに違いない。中には楽器を弾くのが趣味、なんてのもいたに違いないから、ヘンデルのトリオ・ソナタあたり、出島で鳴ってた可能性もあると思うのだ。石崎融思あたりの長崎派の絵には蘭人演奏図、とかいうのはなかったかしらん。

マッケラス『ギルバート&サリバン/ハイライツ』

2006年08月12日 | CD 古典派以後
Gilbert & Sullivan
Highlights
Ainsley・Allen・Archer・Banks・Evans・Folwell・Garrett
Gossage・Howells・McLaughlin・Meller・Palmer・Rhys-Davies
Rolfe Johnson・Savidge・Stephen・Suart・Van Allan・Watson
Orchestra and Chorus of the Welsh National Opera
Sir Charles Mackerras
CD-80431

1991-95年録音。75分59秒。TELARC。マッケラスによるギルバート&サリバンの全曲録音からの抜粋。『ミカド』『戦艦ピナフォア』『ペンザンスの海賊』『近衛騎兵隊』『陪審裁判』の5作品から。収録時間は長いけど、作品数も多いので、筋をたどるというより、各作品のさわりだけ聴かせてもらう、という感じ。内容はオペレッタですが、ギルバート&サリバンの場合、上演された劇場にちなんでサボイ・オペラということになっている。全曲盤のセットも出てますが、『ミカド』と『近衛騎兵隊』はべつの指揮者の全曲盤を持っているので、ここはひとまづ自制してハイライト盤で我慢することにしました。ただしこのCDには『ミカド』の例の「宮さん、宮さん」のくだりは残念ながら採られていません。

サリバンをはじめて聴く人は、19世紀末のロンドンではこんな洗練された音楽が流行りだったのかとびっくりすると思う。いま聴いても古くないんだもん。とにかく音楽が明るく華やか。アリアも洒落ているけれど、合唱が多用されているのがうれしい。ギルバート&サリバンの世界を一わたり知っておくには手ごろなCDだと思います。とにかく気軽に聴ける音楽。たとえばミス・マープルは、こういう音楽が大好きだったはずだ。

歌手のうち、いわゆる一般的なクラシック演奏で誰でも知っていそうなのはトーマス・アレン、マリー・マクローリン、リチャード・バンアランくらいか。アンソニー・ロルフジョンソンはイギリスのテナーの大御所、ジョンマーク・エインズリーは古楽も近代もいける中堅のテナー。フェリシティ・パーマーはアーノンクールとの共演が多い名メゾソプラノ。

実は、これがはじめて買ったマッケラスのCD。この人はあきれるほどレパートリーの広い人ですね。広すぎ。ほんとはこの人の指揮するヘンデルかモーツァルトをほしいんですが、とりあえず、ここんところ興味を持っていたサリバンを買いました。

アーサー・サリバンという人は本格的なオペラも書いてるみたいです。合唱曲の名曲で"The Long Day Closes"というのもあります。

アンサンブル・アチェントゥス『カベソン作品集』

2006年08月10日 | CD 中世・ルネサンス
Antonio de Cabezón
Tientos y Glosados
Ensemble Accentus
Thomas Wimmer
8.554836

1997年録音。55分27秒。NAXOS。カベソンを器楽合奏で演奏しています。さらに弟のジョアン・デ・カベソン、息子のエルナンド・デ・カベソンの作品を一曲づつ含む。楽器は、リコーダー、ビオール、ハープ、チェンバロ、オルガンにパーカッション。メンバー表はありませんが、ごく内輪な人数で、上記の楽器をとっかえひっかえ操っているもよう。作品の性格もあって地味な印象ですが、スペイン古楽の味わい深さを手堅く表現している。

「ミラノ風ガイヤルドによるディフェレンシアス」「騎士の歌によるディフェレンシアス」など有名どころの曲が入っているし、演奏もいいので、1枚でカベソンを知ろうという人にはうってつけです。安いしね。

「全員ご起立ください」。

2006年08月09日 | 気になることば
今年は6日が日曜日だったし、きょうは休みを取って一日うちにいたので、どちらの日もテレビで式典を見ながら黙祷した。たしか広島でも長崎でも「全員ご起立ください」と言っていたように思う。あれはどうにかならないか。今日の長崎の式典では、おそらく高校生くらいのお嬢ちゃんが能天気にアナウンスしていたのだが、ああいう言われ方をすると、車椅子を使っていて立とうと思っても立てない人は、腹が立つやら情けないやら、とても悲しい気持ちがするだろう。

「歩って」。

2006年08月06日 | 気になることば
いま何冊か同時進行で読み進めていてぐちゃぐちゃなんだけど、そのうちの一冊、浅田次郎の『霞町物語』のなかで、「歩いて」という表現を期待するところに「歩って」という言い回しが出てくる。

「ああ……おめえか。何だかよ、歩ってるうちに、頭ん中が真黄色になっちまった。毒だな、ここいらは」(「卒業写真」)

麻布・霞町でずっと写真屋をやってきた明治生まれの祖父が、孫とともに神宮外苑の銀杏並木の下を歩いているところ。このすぐ後、息子の学徒動員の出陣式の思い出を語りはじめた祖父の言葉のなかにも、もう一度「だからずっと、どうしてこんなことになっちまったんだろうって考えながら歩ってきた。」とある。「歩って」は、誤字ではなくて浅田次郎の表現のままなんだろうと思われる。こういう言い方するのかな。よう分からん。

このほかにも『霞町物語』にはわたしがはじめて目にする東京方言がたくさん出てくる。