歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

『アブデラザール』つづき

2010年08月29日 | 音楽について
わたしがもっている『アブデラザール』組曲版は、ホグウッドのと、パーセル・カルテットの《Purcell Miscellany》に入っている室内楽版との2種類です。このパーセル・カルテットのがなかなか新鮮でいいのだ。さわやかで、演奏規模が小さくとも曲の魅力はすこしも減じていない。どころか、こういうのがパーセルでは王道かも、とさえ思わせられます。これがたとえばヘンデルだと、各楽器1本づつでは音が痩せすぎてしまって旨くないでしょうが、パーセルなら意外ではあるかもしれませんが違和感なく楽しめますよ。ちょっと調べてみると、『アブデラザール』組曲版は、すでにふれたハイペリオンのもののほかに、現在少なくともヘンゲルブロック、アーノンクール、レパードのものが入手可能のようですが、ホグウッドのと《Purcell Miscellany》があれば、わたしはほかのはなくてもいいや。

1977年録音のレパードの『ディドー』は、ディドーがトロヤノス、ベリンダがフィリシティ・パーマー、第二の侍女がエリザベス・ゲイル、水夫がフィリップ・ラングリッジ。これ、わたしにとっちゃなかなか魅力のあるキャストだなあ。

『アブデラザール』…

2010年08月28日 | 音楽について
パーセルの『アブデラザールAbdelazer』の音楽を、ブリテンのおかげで有名になった2曲めの「ロンド」だけぢゃなくて全部聴こうとすると、実は選択肢はごく限られてしまうのですよ。そもそも現在残っている『アブデラザール』の音楽は、「Ouverture-Rondeau-Air-Air-Minuet-Air-Jig-Hornpipe-Air」以上の合奏曲と、Song "Lucinda is bewitching fair"であります。演奏時間は合奏曲が合計12~13分くらい。Songがホグウッド他の録音で約3分半です。で、「ルシンダは魅惑的な美女」とかいうSongは、おそらくホグウッドの『劇音楽集成』でしか聴けないと思う。この歌はまあまあいい歌ではあるけど無理して聴くほどのこともない、ってことになると、残りは合奏曲なんですが、これがなかなか、全曲収めた録音が見つからないんですよ。

ホグウッドの『劇音楽集成』6CDでは『アブデラザール』はCD1枚めの巻頭に収められています。録音は1974年と古いんですが、音楽がいきいきして実に出来がいい。これは6CDで出たほかに、『劇音楽集成』全体からの抜粋盤として、かつて1CDで(国内盤が)出ていた形跡がある。それ、もういっぺん出してくれないかなあ。

Hyperionからは、パーセルの《Ayres for the Theatre》と名前のついた商品が1CDのものと3CDのものと両方出ていて混乱します。1CDのは1986年録音でPeter Holman指揮、3CDのは《The Complete ...》とあり1994年録音でRoy Goodman指揮。しかし両方とも団体はThe Parley of Instrumentsで、試聴してみると曲目の重なるものは同じ演奏に聞こえる。つまり、86年に録音したCD1枚分に加えて、94年にもう2枚分録音し、それを再編して、『ザ・コンプリート…』としてリリースし直した、ということなのでしょう。『アブデラザール』は86年の録音に含まれています。これは悪かないけど微温的で、積極的には推せません。なお94年の3CD盤も「コンプリート」とはいうものの『ディドー』や『妖精の女王』その他の劇音楽の合奏曲は含まれていないので、関心を持たれた向きはご注意あれ。

ネームナビ│シャチハタ

2010年08月27日 | メモいろいろ
印鑑を通販で注文。シャチハタとふつうの認め印が両方ともいっぺんに買えるところがあったので、そこに注文しました。今使っている認め印の印形がずっと気に入らずにいたのですが、使う分には不都合がなかったせいで使い続けていたんです。シャチハタの通販は生協でも扱っていたけど、注文を出して二週間後以降にさらにハガキでやりとりしなければならないなどまだるっこしかったので注文していなかった。ネットだと既製品のハンコが見つからないものも簡単に注文できて、これは便利。

シャチハタのサイトに「ネームナビ」というページがあり、それぞれの名字について、シャチハタ印の既製品があるかどうか確かめられるようになってます。面白いですよ。「菅」「麻生」はあるけど、「鳩山」「谷垣」は、既製品はないそうです。「小沢」はごく一般的なのでやめといて、「小澤」でみてみると、いちばんの売れ筋らしいネーム9という商品のみ、既製品があるそうです。そういや最近、ウルフ小澤、ってプロレスラーがいる(いた?)のを知った。

タリス・スコラーズ『ジョスカン_ミサ・マルール・ム・バ, ミサ・フォルトゥナ・デスペラータ』

2010年08月26日 | CD ジョスカン
Josquin des Prés
Missa Malheur me bat
Missa Fortuna desperata
THE TALLIS SCHOLARS
Peter Phillips
CDGIM 042

2008?年録音。75分23秒。Gimell。タリス・スコラーズによるジョスカンのミサ4作め。1作目の『ミサ・パンジェ・リングァ』のころからするとほんとによくなったなあ。ちゃんとジョスカンのミサらしく聴こえますもん。カッチリとした印象は相変わらずながら、このグループの表現が、収まるべきところにたおやかに収まりつつあると思います。ソプラノが突出することもない。もう少しニュアンスの陰影が出ればさらによい。でもジョスカンの演奏で満点というのは誰の演奏であれ考えにくいからね、ここまで歌ってくれたらじゅうぶんですよ。

Tessa Bonner、Sally Dunkley、Caroline Trevor、David Gould、Andrew Carwood、Steven Harrold、Nicholas Todd、Mark Dobell、Christopher Watson、Donald Greig、Robert Macdonald、Tim Scott Whiteley、ほか。最上声が3人で下3声は2人、を基本にして、Agnus Deiで増員しています。こういうやりかたははじめてですね。歌い手は見た憶えのない名前が多い。タリス・スコラーズも世代交代していくのでしょうか。しかしテッサ・ボナーが亡くなりましたし、サリー・ダンクリーが歌えなくなったらそこでタリス・スコラーズは幕引きになるかもしれない、って気もするんですけど。

《Missa Malheur me bat》は最上声がボナー、ダンクリー、トレバー。ボナー&ダンクリーの最強タッグにトレバーが入ると声が変わるね。そりゃま当然だけど。柔らかい音になって、いい感じ。声部が少なくなる〈Pleni sunt coeli et terra gloria tua.〉 とか〈Benedictus qui venit in nomine Domini. 〉の掛け合いは、ジョスカンのミサではいつもながらやっぱりうっとりする。このミサ曲、〈Agnus Dei I, II, III〉が計11分と長大。歌い甲斐がありそう。最後はあっさりと終わりますけどね。《Missa Fortuna desperata》のほうはタリス・スコラーズぢゃなくてザ・シクスティーンを聴いてるような気がちょっとしました。けっこう開放的な歌いっぷりも聴かせてくれる。〈Benedictus〉は下降音型が特徴的。歌うと気持ちよさそう。

タリス・スコラーズは、このCDが出たときにジョスカンのミサ全曲録音を完成すると伝えられましたけど、その話は、おそらく、もうないね。でもいいよ。彼らはジョスカンのCDを4枚、しめて8曲のミサのすぐれた録音を残してくれた。グラデーションのように少しづつ演奏の質が異なっていて、『ミサ・パンジェ・リングァ』のように物議を醸すものもあったけれど、それぞれに特色のある演奏だった。

阿修羅と松林図

2010年08月25日 | メモいろいろ
ゆうべのラジオ深夜便一時台の、山下裕二さんと石澤典夫さんの話が面白かった。山下裕二さんは美術史の研究者で室町美術が専門。以前から名前は知ってる人だけどこの人の本を買って読んだことはまだない。石澤さんが司会をしていたころに日曜美術館に山下さんが出演した縁があるようでした。石澤さんは展覧会で山下さんをよく見かけるそうで、それはつまり石澤さんもプロの山下さんなみに展覧会に行ってるってことだよな。すごいな。

日本美術にも世間の関心が向くようになって、最近では興福寺の阿修羅像とか等伯の松林図屏風とかが大都市で展覧会に出ると、三十分とか一時間とか列を作って待たないと見られないくらいだそうですね。これはちょっといきすぎだ、と山下さんは言っていた。そうね。絵は静かなところで見ないとね。山下さんも同様の経験を語っていたけれど、わたしもつい十年ちょっと?前、まだ今みたいに日本美術ブームが過熱する前に、上野の国立博物館(の常設展示)で松林図屏風を見ましたが、ほかには立ちどまる人もほとんどいなくて、じっくり見られました。それから興福寺の阿修羅のほうは@niftyのFSXLTYのオフ会で見たんでしたよ(遠い目)。そりゃ興福寺のほうは観光地なので人は多かったけど、でも阿修羅くんは、オフ会に参加してくれたほかの人たちと静かに話をしながらわりとゆっくり見られたと思うなあ。

ブームで、展覧会にはたくさんの人が来るようになったけれど、でもかんじんの絵を見てる時間よりも案内文解説文が書いてあるボードを見てる時間のほうが長い人が多い、とか。

山下さんは、戦前の日本画家でありアートディレクター?でもあった小村雪岱がいいですよ、と話の最後に語っていた。この雪岱という人のことを、つい先日たまたま見た「なんでも鑑定団」ではじめて知ったところです。

夜中一時過ぎから一時間ちかくの話を聞いて寝たので、今朝起きるのがつらかった。

ボルティモア・コンソート『パーセル_キャッチ集ほか』

2010年08月22日 | CD パーセル
The Art of The Bawdy Song
The Baltimore Consort and The Merry Companions
DOR-90155

1990年録音。70分17秒。DORIAN。'bawdy'は辞書によると「俗悪な、下品な、みだらな」ってことだそうですけど、ここでは「エロ」というよりか「酔っぱらいのふざけ歌」という感じです。言ってみりゃ『酒場歌の芸術』ってところですか。わたしはパーセルのキャッチ〈Come, let us drink〉を聴きたくて、いろいろ探したあげくこのCDにたどりつきました。かんじんの〈Come, let us drink〉はいちばん最後に出てきてわずか1分20秒で終わってしまいますが、これをふくめて要所要所でパーセルのキャッチ(計9曲)が歌われ、またほかの曲もなかなか聴きごたえがあり、全体としてノリのいい楽しい演奏です。

ボルティモア・コンソートは米ドリアンに録音実績のある古楽グループ。ふだんは小編成のシンプルな器楽合奏にボーカルが1人ないし2人くらいの編成が多いようです。ソプラノのCuster LaRueという人が録音当時レギュラーの歌い手だったらしいんですが、ここではそのラリューさんのほかに、The Merry Companionsという男声4人組が加わっています。(そのうちのひとりはポメリウムの指揮者であるアレクサンダー・ブラッチリー。)しかしThe Merry Companionsというのはその後の音沙汰もないようですから、この録音のために特別編成されたグループだったのかもしれません。

収録されているパーセルの曲は〈I gave her Cakes and I gave her Ale〉〈Fye, nay, prithee John〉〈The Miller's Daughter〉〈Tom the Taylor〉〈My Lady's Coachman John〉〈As Roger last Night to Jenny lay close〉〈Pox on you〉〈Sir Walter enjoying his Damsel〉〈Come, let us drink〉。このうち〈Sir Walter enjoying his Damsel〉はハープシコード曲として知られる〈A new Irish tune〉に歌詞をつけて、器楽伴奏をともなう独唱曲としたもの。ほかはいづれもごく短いものばかりですが、おそらく大半が競合盤のない貴重な録音。茶目っ気あるパーセルの素顔が垣間見られるような、これはこれでパーセルのファンなら一度は聴いてほしいなつかしい演奏です。なお〈Pox on you〉は冒頭のゲロがなまなましい。パーセルでいちばん品のない歌では?

そのほか、D'Urfeyというほぼパーセルと同世代の作曲家によるトラック6〈Cold and Raw〉など、なかなか印象的。パーセルを生んだ音楽風土をかいま見るよう。

〈Come, let us drink〉はかつてデラー・コンソートの録音があって、テナーにポール・エリオットが参加してもいて、わたしもCD屋で手にしたことがあったんですが、録音時間がたしか40分たらずだったせいで買いそびれました。パーセルのキャッチばかりを集めたアルバムでした。しかしそういう企画のアルバムってその後も出てないと思う。そろそろ新しいのが出てほしいなあ。

ディスカヴァー・トゥエンティワン

2010年08月19日 | 気になることば
飯間浩明『非論理的な人のための論理的な文章の書き方入門』ディスカヴァー・トゥエンティワン。この本自体はいいんですよ。論理的な文章を書くには〈クイズ文=「問題」+「結論」+「理由」〉、この三段構成で書きなさいって。分かりやすい。しかしこの本、「株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン」てところから出てるんですよ。出版社の名前で「ディスカヴァー・トゥエンティワン」て、いったいなにを考えてんですか。分かりやすい名前にしよう、とか、社名を正しくおぼえてもらおう、とかいう気はないのかね。さらに言うと、この本、ディスカヴァー携書、ってシリーズの一冊なんですが、でもつまり新書なんですよ。中黒入りのカタカナ社名といい、「携書」とかいうネーミングといい、ちょっとこれは困ったセンスをしていらっしゃる。でも自分たちは時代の先端を行っている積もりなんだろう。飯間さんは次ぎに本をお出しになるときは別の出版社になさったほうがいいと思う。

ディオクレティアヌス帝の世界遺産とパーセル

2010年08月18日 | メモいろいろ
ゆうべのことですが、児玉清が司会をしているNHKの旅番組で、古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝に係わる遺跡の話をしていて、ただわたしは別のことをしており、隣の部屋から聞こえてくるテレビの音声をなんとなく聞いている、という状況だったのですね。でも意識するしないのすれすれのところで、ディオクレティアヌスっちゃあ、つまり『ダイオクリージャン』だよなあ、とは頭をよぎっていたの。そしたら次の瞬間、テレビからパーセルが鳴ったのね。BGMとしてね。びっくりした。でも暑い夜で、ぼーっとしていたから、それが『ダイオクリージャン』の音楽だったのか、それはもう憶えていません。ただ、BGMとして何曲か立てつづけに流れたような気がして、最後は、『ダイオクリージャン』ではなくて『妖精の女王』の、トランペットが鳴る序曲だった。これは確か。

しかしですよ、NHKのあの児玉清の番組の、音楽をあてるスタッフの中に、パーセルに『ダイオクリージャン』て作品があり、そのダイオクリージャンとはつまりローマ皇帝のディオクレティアヌスのことなのだ、ということを知っている人がいたのは間違いないのではないでしょうか。なにしろその場面、パーセルの曲ばかりまとまって流れたのよ。まあ、ヨーロッパの旅番組でパーセルがBGMとして使われることもたまにはあるとは思いますが、でも、その世界遺産はイギリスぢゃなくて地中海沿いの、どこかだった。そこにパーセル。やっぱあれは、あえてディオクレティアヌス帝にちなんでパーセルの曲を挿入したのだと思う。わたしは「ちゃんと分かったよ」って、言ってあげたい。

ディック・フランシス『騎乗』

2010年08月16日 | 本とか雑誌とか
ディック・フランシス/菊池光訳『騎乗』(ハヤカワ文庫)読了。わたしは面白く読んだけれど、やはり後半はサスペンスに欠ける。もう一ひねり必要だろうし、かたき役の書きこみがもうひとつ。

謝辞に「十八歳の孫、マシュウ・フランシスに感謝すると同時に、/ウェザビイ社とダウニング街十番地、首相官邸に御礼申し上げる。」とある。この小説にはふだんのDF作品とは趣きのことなる点があります。まづ主人公のベネディクト(ベン)・ジュリアードが、語り出しのころは17歳、作品後半でも22歳。ハイティーンが主役というのはシリーズ最年少でしょ。そして今回の作品の背景となるのは政治、選挙の世界で、ベンの父親ジョージ・ジュリアードが国政選挙に立候補して選挙戦をたたかう。そして後半では、主人公がダウニング街の首相官邸に招かれ、首相が出てきて主人公と会話のやりとりがあったりする。

首相官邸が出てくるのはもの珍しいけれど、せっかくの道具立てがそんなには生きてない。もったいない。ディック・フランシスは何かの折りに官邸に招かれて、さらには特別に許可を出してもらって取材させてもらったのかもね。取材させてもらった以上、そういうシーンを書かないわけにはいかなかったんでしょ。

競馬シリーズにおいては、主人公がすなわち物語の語り手で、ほぼ物語の進行する時間に密着した視点で語っていた。でもこの『騎乗』においては、前半の、主人公がまだ17歳であったときの出来事を語るにしても、語り手のほうはすでに22歳過ぎになっていて、十代のころの出来事を回想して語ってるようにみえる。菊池光の訳文のせいもあるのか知らん、十代と思えない落ち着きと判断力で、日本人のわたしにとっては「こんな大人な十代がおるんかいな」と思わせられる。ベネディクト・ジュリアードは17歳にしてすでにじゅうぶん、まぶしいほど大人である。少年が青年へと成長していく物語、みたいな気配はこの小説にはほとんどないです。

謎解き要素はほとんどなくて、かたき役がだれであるかは作中ほどほどのところで明らかになってしまう。最後のヤマ場も、ほぼ何が起ってどうなるか、そこを読む前に分かっちゃう。いや、分かっていてもハラハラするんですけどね。

ディック・フランシス『障害』

2010年08月15日 | 本とか雑誌とか
ディック・フランシス/菊池光訳『障害』(ハヤカワ文庫)読了。ローランド・ブリトン、32歳、会計士でアマチュア騎手。例によって、けっして諦めない男。でも人間らしい恐怖心を備えた主人公。

なにしろ冒頭いきなり、誘拐された主人公が、縛り上げられて真っ暗闇の部屋の中、ってところからはじまる。しかもその日彼はレースで優勝したというのに。まあフランシスの主人公だから、読み進めりゃ脱出してくれるんですが、脱出はしてもだれが何の目的で彼を拉致したのかが分からない。前半の盛り上がりと緊張からすると、後半やや筋が膠着ぎみにはなるけれど、最後近くになって現れる大物の犯人には、正直、驚かされました。ただ共犯者はわりと早めに見当つきましたけどね。

神は細部に宿る、というけれど、ディック・フランシスの巧さは、それぞれの作品にほんの少ししか登場しない脇役たちの見ごとな造型によく現れている。これはたいていの人がそう思っているのではないかと思います。『障害』のばあいは卑怯な調教師ビニイ・トムキンズとか、情けない依頼人ウェルズ氏とか。こういう人たちが巧く書けているので、主人公のとほうもない不撓不屈ぶりが現実離れしないで、読む者をお終いのページまでぐいぐい連れて行ってくれるのだ。

わたしはディック・フランシスを読むときは、立ち上げておいたMacBookで地名を探しながら読んだりします。今回出てくる地名は、主人公が船で連れて行かれるミノルカ島(地中海)、主人公が住んでいるイングランド南部のニューベリー(競馬場のある町)、主人公が生まれ育ったワイト島(イギリス南岸)など。ニューベリーはロンドンの西にあって、googleマップを大ざっぱな目分量でみたところでは東京都心から八王子くらいの位置です。