歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

ターフェル『放浪者~イギリス歌曲集』

2013年07月28日 | CD 古典派以後
The Vagabond
& other songs by
Vaughan Williams ・ Butterworth ・ Finzi ・ Ireland
Bryn Terfel
Malcolm Martineau
UCCG-3096

1995年録音。77分13秒。DG。ターフェルによるイギリス歌曲集の第一作だったもの。ボーンウィリアムズの歌曲集『旅の歌』、フィンジの『花輪を捧げよう』作品18、バタワースの『〈ブリードンの丘〉とそのほかの歌』、アイアランドの歌曲3曲、さらにバタワースの『〈シュロップシャーの若者〉から6つの歌』。企画自体が渋いうえに選曲がまたディープな感じでよい。それぞれの歌曲集(英語ではsong cycleって言うようです)をまるごと収録しているのは好ましい。

イギリス歌曲については、アレンと、ロルフジョンソンと、それぞれの録音を愛聴しています。ターフェルという歌い手をそんなに気に入ってるわけでもなかったのですが、国内盤が出たので買いました。「やはりまだアレンには遠く及ばんなあ」というのが正直なところ。ターフェルは1965年生まれだそうですから、録音時まだ30歳になるかならずだったわけです。若すぎました。でも、聴いてるうちに「これはこれで、なかなかがんばってるぢゃん」と思えないでもない。努力賞。とにかく声は立派なので、脂の乗ってきたであろう今、再録音してみたらどうでしょうかね。

ボーンウィリアムズの『旅の歌』は、『ジキルとハイド』のあのスティーブンソンの詩に拠る歌曲集。スティーブンソンはボーンウィリアムズからみて一世代上の同時代人でした。イギリス的な渋さと、歌謡性を兼ね備え、歌い映えのする名品。全9曲。冒頭の〈The Vagabond〉より2曲目の〈Let Beauty awake〉のほうが有名かも。バタワースはイギリス人たちにはすごく人気のある作曲家で、繊細な曲を書く人ですが、わたしはやはりボーンウィリアムズのほうが歌曲のライターとしてもすぐれていると思います。

マグラネル『ビクトリア_レクイエム』

2013年07月26日 | CD 中世・ルネサンス
Tomás Luis de Victoria
Requiem
Capella de Ministrers
Cor de la Generalitat Valenciana
Carles Magraner
CDM0615

2005年録音。50分15秒。LICANUS。おなじみ、6声のレクイエム。バレンシアでのライブ録音。オレンジ色のレクイエム。ほんとですよ。地中海を感じさせるビクトリアと申せましょう。ローカル色満点、とも言える。とにかくほかでは聴けない《ビク・レク》。

BBCの古楽番組のネット配信でたまたま耳にしましてね、探して買い求めました。ところどころ楽器だけで演奏したり、管弦打楽器やオルガンを声に重ねたりしています。いきなり太鼓の音が聞こえてびっくりするけど…。歌い手たちは実力派で、聴きごたえがあります。各パート1~2人で歌っています。楽器もうまい。ライブ特有のざわつき感や不測の音の飛び出しもないではないけれど、それよりもライブならではの高揚のほうをわたしは買いますね。

個性的な演奏なので、「うぶ」な聴き手には薦めにくいけれども、ビクトリアのマニアな方、タリス・スコラーズの端正なビクトリアに食い足りなさを感じている方、《ビク・レク》もう2枚くらい持っていてここらで毛色の違うのがほしい方、は一聴の価値あり。

右と左

2013年07月25日 | 気になることば
むかし@niftyの「日本語フォーラム」という掲示板をのぞいていて、こんな書き込みがあったのを憶えています。その書き込んだ人はお医者さんだったか技師さんだったか、とにかく病院に勤めているとかで、病院に来た患者さんに向かって「右手を上げてください」とか「右を向いてください」とかよく指示をする、すると、間違って左手を上げてみたり左を向いたりする患者がとても多い、右と左を間違えるなんて、信じられん、て、まあそんな内容でした。

そりゃね、指摘されても右と左を間違えてることに気がつかない、とか、そういう病的な場合は別ですよ。でもね、右と左をつい間違えるなんて、だれにでもあることぢゃないかね。

ましてや、多くの人にとって病院ていうのは緊張を強いられる場所ですよ。緊張しているせいで、右を向いたつもりでついうっかり左を向いちゃう、なんてごくありふれたことだろう。この書き込みした人は、病院で働いているくせに、病院に来る患者の心理状態にぜんぜん関心を払わない人なんだな、とわたしは思いました。こういう、想像力のない人に自分のからだのことを任せるのはいやだな、とも思いました。

恥づかしながら、わたしはふだんから右と左を間違えることがあります。人に物を取ってもらうときに「テレビの右側…ぢゃなくて左側においてあるその大きな本を取って」とか。わりとよくやりますね。まあわたしの場合、生来粗忽なせいもあるのかもしれないが、気にしない。

「ご来店してください」

2013年07月23日 | 気になることば
店の人が「ぜひご来店してください」と言うのは誤り。「ぜひご来店ください」が正しい。「お/ご~する」のパターンは謙譲語なのだから、お客さんの「来店」という、尊敬語を使うべき行為に対して、「ご来店する」と店の人が言うのは無礼なのである。

その時すぐメモを取らなかったので正確に再現できないが、土用の丑の日の民放の情報番組で、鰻屋さんに取材に行って、その鰻屋さんは正しく「ぜひご来店いただきたいと思います」と言ってるのに、放送局のスタッフが画面につけたテロップのほうが「ご来店していただきたい…」と誤っていた。今どきの人たちの言葉遣いの鈍感さにはいまさら驚きませんが、ことばのセンスのない人にはやはりマスコミの仕事はしてほしくないなあ、と思う。

もういちど言いますが、「ご来店ください」「ご来店いただきたい」がまっとうな正しい日本語で、「ご来店してください」「ご来店していただきたい」は、明らかな誤り。でもこの誤用はちかごろ蔓延していますね。正しく謙譲語として使えば、「お/ご~する」はきれいで便利な敬語なんだけどねえ。

ガーディナー『ヘンデル_合奏協奏曲集 Op.3』

2013年07月19日 | CD ヘンデル
HANDEL
Concerti Grossi Op.3
English Baroque Soloists
John Eliot Gardiner
0927 48682 2

1980年録音。60分08秒。apex/ERATO。これは『作品3』の名盤。お勧め。ガーディナーらしく入念に設計されていて、6つの協奏曲がみごとに描き分けられている。もっと早く聴けばよかったです。ガーディナーは『作品6』のほうはついに録音していないんですが、それだけ『作品3』に思い入れがあったのかな。

入念ではあるけれども、それがガーディナーの自己陶酔に堕していなくて、すべて作品の魅力の再現に資しているのがよい。オーボエ、フルート、オルガンその他のソリストも生き生きと演奏しています。

4番、5番、6番、2番、3番、1番の順に収録。第4番は『作品3』のなかでも規模が大きく、冒頭のフランス風序曲が印象的。これを最初にもってきて聴き手の心をつかもうとするガーディナーのねらいは成功している。

知名度の高さでは『水上』『花火』ですが、作品の充実度では合奏協奏曲集『作品6』のほうが上、というのが、ヘンデリアンのよく言うセリフです。わたしもそう思ってはいたんですが、最近、年をとってせっかちになってきたのか、12曲もあって聴くのに時間がかかる『作品6』よりも、全6曲とこぶりながら、人懐こく多彩な『作品3』のほうに、より親しみを感じるようになりました。

海外ドラマの俳優たち

2013年07月17日 | 演ずる人びと
Cory Monteithは、「コーリー」とも「コリー」とも、また「モンテース」とも「モンティス」とも表記される。NHKは「コーリー・モンテース」と書くけれども当てにならない。OS Xのスピーチ機能で読み上げさせると、「コーリー・モンティース」と聞こえた。

Dianna AgronをNHKはなぜか「ディアナ・アグロン」と書く。なんで「ダイアナ」としないのかな。YouTubeで彼女についてのインタビュー・ビデオを見ても、『glee』のキャストのだれもかれもが「ダイアナ」って言ってるよ。

コーリー・モンティースは31歳で亡くなったそうで、ということは『glee』で高校生を演じていたときすでに20代の後半だったことになる。こういうことは別にめづらしくないのだろう。『glee』見ててわたしも違和感なかったし。特に日本人から見た場合、あちらの国々の人の歳って、見てすぐに分からないことが多い。

あちらの国々だけではない。さらにわたしの場合『シークレット・ガーデン』見てても違和感なかったのだが、33-34歳のキム・ジュウォンを演じたヒョンビンはまだ20代の後半だった。ただしこれはまあ劇中でもキム・ジュウォンは歳より若く見えることになっていた。もっと驚くのは、オスカーのマネージャー役の小太りの俳優が、実は当時まだ現役の高校生だったという話。

『山月記』のテキストファイル

2013年07月16日 | メモいろいろ
今は青空文庫というものがあって、著作権の切れた小説を手軽にダウンロードできるようになってますし、古典文学の本文も、その気になって探せばあれこれネット上で見つけられるようになりました。まあ便利といえば便利ですよね。

でもわたしは、自分で書き写す、とか自分でキーボードを叩いてテキストファイルを作る、っていうのが好きなんですよ。

気に入った文章を書き写す、というのを始めたのはいつごろだったかなあ。もしかしたら高校からやってたかもしれないです。曾野綾子のエッセイ集『人びとの中の私』は、たしかに二十歳前後に写した憶えがある。大学に入って、まだ演習が始まらず比較的ヒマだった一年二年のころには古典も写してました。といっても、筆で臨模したりするわけぢゃなく、鉛筆で、大学ノートによ。研究室でもだれも名前を知らないようなマイナーなキリシタン文献とかを書き写していた。でもそのお蔭で研究発表のネタが見つかったりして、あれはいい習慣だった。自分の手に筆記用具をもって、気になる作品を書き写してみる、というのはいいですよ。

しかしその後手書きで書き写す、っていうのはやめちゃいましたねえ。あれを続けていればわたしも大物になれたかもしれないのに…。何しろそのころ、ワープロという文明の利器が出回り始めましたので、自分のワープロを手に入れてからは、もっぱらキーボードで打ち込んで、あれやこれやテキストファイルにして保存するようになりました。

中島敦『山月記』は、高校の授業で読まされて以来、さほど内容に感銘を受けたということもないんですが、あの漢文調の調子のよさにあこがれて、なんとか自分の文章にもああいうきりりと締まったカッコよさを取り入れたいと思っていました。とはいいながら、手書きで『山月記』を書き写すことは到頭できなくて、ワープロの時代になってから打ち込みました。でもわたしのテキストファイル『山月記』が完成したのはようやくOS X以降です。OS Xで、JIS第3水準、第4水準の漢字がようやくデフォルトで使えるようになって、それまでゲタ(〓)を穿かせていた四箇所がようやく埋まった。OS Xに添付されるヒラギノでは収録文字数が拡張される、と聞いたときに、わたしがまづ思ったことの一つが、「これで『山月記』のテキストファイルがようやく完成するかも」ってことでした。

中島京子『小さいおうち』

2013年07月14日 | 本とか雑誌とか
中島京子『小さいおうち』(文春文庫)について。今年の三月、入院中に読んだ本です。直木賞を獲ったというニュースでこの小説のことを知って、それ以来、気になっていました。このタイトルは、岩波の同名絵本と関係あるに違いないと睨んでいたので。(ただし岩波のは、正確には『ちいさいおうち』でした。)

話は昭和五年の春から。『小さいおうち』作者は戦後も戦後、一九六四年の生まれ。なのに、昭和十年代の東京の中流家庭の空気感が上手に再現されている(ように感じられる)。巻末には参考文献をあげておいて欲しかった。

最終章でいっきにこの小説は地を蹴って離陸していきます。そのちからわざは確かに見もの。ただいろんなプロットのさばき方はあまり綺麗ではありません。仕上げはざくざくしている。過去と現在がアクロバットのように交錯するところはロバート・ゴダードのようですが、ゴダードもまた、小説の終わらせ方には苦慮していた。

『小さいおうち』が直木賞とるほどの作品かどうかは疑問だと思いました。最終章の力わざに対してではなく、戦前のお女中生活の再現に対しての努力賞かも。山田洋次監督で映画化されるそうです。

リー・バートンの岩波版『ちいさいおうち』への言及はしかしさほどでもなかった。最近あらためて大人買いしたほど気に入っている絵本なんですけどね。でも中島さんも子供のころ『ちいさいおうち』に接して、その記憶を今もわすれずにいる人なんでしょうね。

キル・ライムの安アパート

2013年07月12日 | 演ずる人びと
『シークレット・ガーデン』で、チュウォン邸やオスカー邸に次いで登場場面の多かったのが、ライムと女友達のアヨンが二人で借りているアパートでした。バス・トイレ付きの1K。家賃は30万ウォンだそうですが、これは今のレートで2万6500円弱だそうですよ。安いっちゃあ安いが、ドアにガムテープが貼ってあったのは貧しさの表現で、あれはつまりチュウォンとライムの貧富の差を強調するものであったろう。

部屋の中はセットでしょうが、建物の外とか、屋上とか、建物を出て石段を上がったところにある駐車場とか、ロケで収録してるシーンも多かった。気になったのは、夜のシーンでもあたりが煌々と明るかったことで、あれは撮影時ライトをつけまくって、そうとう近所迷惑だったに違いない。

しかしあのアパートは、劇中でも触れられていましたが、高台にあって眺めがよい。ああいうのはまさに長崎にもよくある風景で、あの眺めはなんだか身近に感じられた。

『Alles was zählt』のときにも、あのドラマをきっかけにドイツ語とかドイツの生活習慣とかに関心を持ったのですが、この『シークレット・ガーデン』でも同様に、韓国の生活文化にいろいろ関心を持ちました。ていうか、今まであまりに何も知らなかったことを改めて認識させられた。はづかしながら、韓国では年齢を数え年で言うというのも知らなかった。それから、キム(金)さんて姓の人がたくさんいることは漠然と知っていたけど、韓国の人口がざっと五千万人弱で、そのうち八百万だか九百万だかがキムさんだそうですよ。そうなるともう、姓氏のもつ意味合いも日本とは違ってるんでしょうね。

「空中庭園」

2013年07月10日 | 気になることば
この前、稲佐山のほうまで行って食事をする機会があり、そこまで行く途中で、ふと「空中庭園」てことばを思い出したのですよ。稲佐山は、長崎を代表する見晴らしスポットで、てっぺんに展望台があるほか、山腹にも眺望を売りものにするホテルやレストランがいくつもある。そのなかの一つに行きました。傾斜地を縫うように車がすすんでいき、わたしはめったに行かないそのあたりの町々の、車窓の眺めをたのしみました。あのへんも、ふもとから中腹まで、民家や背の低いアパートが斜面を這い登るように連なっています。行き先のレストランの庭そのものも見晴らしのよい「空中庭園」だったし、レストランから見下ろす稲佐山山腹の家並みもなんだか箱庭のようで、「空中庭園」て風情がありました。

わたしが「空中庭園」てことばをはじめて知ったのは、たしか、むかし日本語版が出ていた『リーダーズ・ダイジェスト』の、「世界の七不思議」についての記事だった。バビロンの空中庭園、とか、アレクサンドリアの大灯台、とか…。その時、わたしはまだ小学生だったと思います。

子供だったわたしは、とにかく空中庭園てことばそのものに違和感を持ったのね。空中、っていうと、空に浮かんでる、ってことでしょう? 庭園が空に浮かんでる、なんて…。そんなアホな。矛盾してる。なんか違和感ありません?

要は、バビロンの空中庭園てのは、高殿の上のほうに土を盛って木や草を植えた庭、ってことのようでしたけど、そのころは世界の古代史にはまだあんまり興味なくて、とにかく空中庭園て日本語にあり得ない感じをおぼえた、ってことを強烈に記憶しています。

その後、大人になってたとえば角田光代さんの『空中庭園』を読んだときにも、子供の時感じた、このことばへの違和感は思い出さなかった。(ていうか、あの小説はなんであのタイトルだったんだっけ?)

長崎に帰ってきて、暇になったせいか、子供の時に感じたいろんなことを思い出す。たとえば、長崎の子供(今の子のことは知りませんよ。わたしの子供のころ)にとって、遊び場はたいてい斜面だった。傾いた地面を登ったり下ったりして遊んでいたなあ。