歌わない時間

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卒業証書とトルストイ

2015年01月21日 | 本とか雑誌とか
〈卒業証書の件〉
「まるめた卒業証書を望遠鏡のように使って彼を眺めた。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.79)

卒業証書を筒のように丸めて覗く、というのは『こころ』にも出てくるんですよ。卒業式を終えた青年のほうの「私」は、下宿に帰ると上半身裸になって(夏なので)、二階の窓を開けて、卒業証書を遠眼鏡のようにして「見えるだけの世の中を見渡した」。

まだ二つしか気がついていないのでもう少し用例を拾いたいところですが、これってどういう意味なんでしょうかね。開放感? ところで、卒業証書というものは、丸まった状態であるのがむしろ平時の姿なのだなあと今ふと思いました。
──

〈『アンナ・カレーニナ』冒頭の引用〉
「露国の文豪もいったように、幸福な家庭の幸福は似通っているが、不幸な家庭の不幸はそれぞれ趣きを異にしているものである。」(『武蔵野夫人』p.194)

これはトルストイの『アンナ・カレーニナ』です。偉そうなことは言えない。読んでないから。でもすぐ分かったのは佐竹昭広『下剋上の文学』にこの同じ箇所の引用があったのを憶えていたからです。古典を論じた論文に『アンナ・カレーニナ』。これはちょっと衝撃でした。衝撃を受けるとともに、このトルストイのことばに、確かに確かに、とうなづいたこともよく憶えています。そのかみ、『アンナ・カレーニナ』は大学生の必読書だったのかなあ。大岡昇平は1909年、佐竹さんは1927年の生まれ。ともに、東京生まれで京都に学ぶ。

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