歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

クリスティ『オリエント急行の殺人』

2015年01月31日 | 本とか雑誌とか
クリスティ/長沼弘毅訳『オリエント急行の殺人』(創元推理文庫)読了。もちろんフジの三谷幸喜ドラマの影響です。でもドラマは前編の放送日は気がつかずあらかた見逃し、後編のみ見ました。むらむらっと再読の気が沸き起こり、創元版を購入。古い訳ですが「ポワロ(notポアロ)」という表記がいいし、それにハヤカワより安いので。

初版は1959年ですが、文章に古さはほとんど感じない。名訳と言うべきではないでしょうか。訳者の長沼さんは東大法学部を出たあとお役人をされて、そののちミステリの翻訳家として重きを成した人とか。訳者あとがきに、クリスティの父がアメリカ人と指摘してあるけどこれはぜんぜん知らなかった。

閉塞された空間を舞台とし、登場人物が限られていてかつ個性的な人物が多い。これはいかにも映像化にふさわしいし、楽しむ側も、映像化してもらったほうが分かりやすいところがちらほらある。フジ版も面白かったので再放送があったら見逃さないようにしよう。八木亜希子という人は映画ではバーグマンがやった役を振られて、よっぽど三谷幸喜に気に入られているんですね。

ホグウッド『バッハ_ブランデンブルク協奏曲他』

2015年01月24日 | CD バッハ
Bach
Brandenburg Concertos
Concertos BWV 1060, 1062, 1064
Academy of Ancient Music
Christopher Hogwood
455 700-2

1984,87,90年録音。68分49秒/60分27秒。DECCA/L'Oiseau-Lyre。84年録音の『ブランデンブルク』は、通常版ではなく第一稿によったということで当時話題になったもの。第一番が3楽章だったり、第五番の1楽章のチェンバロ独奏箇所が短かったり。しかしそういうマニアックな興味は差し置いて、今聴いても、音楽として充実していて、実に聴きごたえのある演奏。ホグウッド追悼の思いで買いました。ホグウッドのバッハは良いものが多いですよ。

一番といい五番といい、通常版は、バロックの協奏曲としていびつなところがありますね。この第一稿は、そのいびつな個性的な曲に変貌する前の、言わばういういしい曲たちの姿が楽しめる。まあそのいびつなところが『ブランデンブルク』の『ブランデンブルク』たる所以でもあるので、ある面では物足りなく思わないでもないけど…。

『ブランデンブルク』全曲ともホグウッドが弾き振りしているのは言うまでもないんですが、古楽アカデミーのメンバーは6曲をとおして流動的。vnはマッキントッシュ、ハイロンズなどですが第四番のみヤープ・シュレーダーが参加。またミシェル・ピゲがob、bflで参加、さらにセオン盤(レオンハルト指揮)でも吹いていたク・エビンゲがobで参加。第二番のtpはフリーデマン・インマー、第五番のflはスティーブン・プレストン。それぞれ興の乗った演奏で、オワゾリールらしい清新な音づくりも相俟って、とても三十年も前の演奏という気がしない。

『ブランデンブルク』だけだと85分しかかからないそうで、その後録音されたバッハの協奏曲を埋め草に入れてあります。『バイオリンとオーボエのための協奏曲BWV1051』『2つのチェンバロのための協奏曲BWV1060』『3つのバイオリンのための協奏曲BWV1064』。1060はルセが客演。このころまだルセは売り出し中の新進だったと思いますが、どういう経緯でホグウッドとの共演にいたったのか、いまとなっては分からないけど、あれこれ考えちゃう。1064はハイロンズ、ハジェット、マッキントッシュの3挺のバイオリンがのびのび歌う華やいだ演奏。

「足踏み」と「鏖殺」

2015年01月22日 | 気になることば
ちょっとうっかりしてましたが、わたしが読んだ新潮文庫版『武蔵野夫人』は平成17年10月25日の74刷です。出典のページ付けは同版のもの。今どきの文庫本にしては字が小さめでした。税別400円。今Amazonで同じ本を見ると、カバーが違う。それに値段も高くなっている。たぶん、わたしが買った後で、字を大きくして組み直したんだと思う。だから、最新版ではページ数が違うはずです。念のため申し添えておきます。
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【足踏み】
「仲人に立った秋山の旧師の大学教授も、ほとんど形式的なものであった上に、一種の偏屈者である秋山は普段からあまり足踏みしていなかった。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.183)

こういう「足踏み」の使い方をわたしは初めて見ました。けど、こういうの、あるんですよ。『日国』は「ある場所や家などに足を踏み入れること。訪問。でいり。」として、16世紀以降、近世までの例を挙げている。でも近代の例はあがってないので、この『武蔵野夫人』のは貴重な用例になるでしょう。なお、『日国』以外の辞書では、『大辞林』も『大辞泉』も、この語義を拾っていません。
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【鏖殺[おうさつ]】
「勉はふとこの取水塔に毒を投げ込めば、東京都民を一挙に鏖殺できるかも知れないと考えて、自分の考えに驚いた。」(『武蔵野夫人』p.212)

「鏖」はこれ一文字で「みなごろし」。このことはなぜか知っていたんですが、これも実際に本を読んでいてこの字にぶつかったのははじめてだったので、記念にメモ取り。

卒業証書とトルストイ

2015年01月21日 | 本とか雑誌とか
〈卒業証書の件〉
「まるめた卒業証書を望遠鏡のように使って彼を眺めた。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.79)

卒業証書を筒のように丸めて覗く、というのは『こころ』にも出てくるんですよ。卒業式を終えた青年のほうの「私」は、下宿に帰ると上半身裸になって(夏なので)、二階の窓を開けて、卒業証書を遠眼鏡のようにして「見えるだけの世の中を見渡した」。

まだ二つしか気がついていないのでもう少し用例を拾いたいところですが、これってどういう意味なんでしょうかね。開放感? ところで、卒業証書というものは、丸まった状態であるのがむしろ平時の姿なのだなあと今ふと思いました。
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〈『アンナ・カレーニナ』冒頭の引用〉
「露国の文豪もいったように、幸福な家庭の幸福は似通っているが、不幸な家庭の不幸はそれぞれ趣きを異にしているものである。」(『武蔵野夫人』p.194)

これはトルストイの『アンナ・カレーニナ』です。偉そうなことは言えない。読んでないから。でもすぐ分かったのは佐竹昭広『下剋上の文学』にこの同じ箇所の引用があったのを憶えていたからです。古典を論じた論文に『アンナ・カレーニナ』。これはちょっと衝撃でした。衝撃を受けるとともに、このトルストイのことばに、確かに確かに、とうなづいたこともよく憶えています。そのかみ、『アンナ・カレーニナ』は大学生の必読書だったのかなあ。大岡昇平は1909年、佐竹さんは1927年の生まれ。ともに、東京生まれで京都に学ぶ。

「瓦解」と「遊弋」

2015年01月18日 | 気になることば
【瓦解】
「もと旗本であった彼の家が瓦解後静岡に移って間もなく彼は生れた。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.12)

これは『坊っちゃん』「一」に出てくる、「この下女はもと由緒のあるものだったそうだが、瓦解のときに零落して、」と同じ「瓦解」の使い方です。ただし『日国』などで「瓦解」を引いても、「特に江戸幕府の崩壊を指す」とかいう記述はされてないようです。これも丸谷さんが何処かでエッセイのネタにしてました。大岡昇平は『坊っちゃん』を意識していたのかいなかったのか。
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【遊弋】
「彼は憂鬱にフランス語教師の職に満足しなければならなかったが、そのスタンダール耽読から、彼はこの十九世紀サロンの遊弋者の恋愛修行や姦通の趣味についてはなはだ熱っぽい影響を受けた。」(『武蔵野夫人』p.17)

「遊弋」はわたしが普段から気にしてることばで、辞書選びの時など必ず引くんですが、文脈のついた用例をじつはここで初めて見ました。ここはスタンダールのことを、サロンを遊弋して恋愛したり姦通したりする者であった、と述べているんですな。遊弋とは、獲物がないかとらんらんと目を光らせながらあちこち動き回るさま。

大岡昇平『武蔵野夫人』

2015年01月17日 | 本とか雑誌とか
大岡昇平『武蔵野夫人』(新潮文庫)読了。

大岡昇平、読んでこなかった。大学の近代文学の演習で『俘虜記』を読み、その後だいぶたって、『事件』『成城だより』を読んだくらい。

恋ケ窪のところを丸谷才一がどこかで論じていた。武蔵野の地形の研究おもしろい。こういうの好きです。翻訳調?の硬い文体で人物の心理を腑分けするようにしながら話を進めていくのもむしろ新鮮。『俘虜記』もこんなだったっけかなあ。記憶ナシ。

カード取りしながら読んだ。そう、昔はB6のカードにことばの用例を書き出しながら本を読んだものですよ。しばらくやってなかったですが、iPhone使いになったのでiPhoneにメモを取りながら読む。これは便利だなあ。そのメモからいくつか書きつけておきましょう。

iTunes Storeのノイズ

2015年01月16日 | 音楽について
iTunes Storeではじめて音楽を購入。ホグウッド指揮の『バッハ_バイオリン協奏曲集』。ソロはシュレーダーとハイロンズ。81年録音。45分07秒。

これ、CDを持ってるつもりでした。いや確かに持っていた。はるか昔の学生時代に買ったはずなのですよ。でも見当たらないの。引っ越しの際に何らかの理由で散逸したのか。それとも、もっと早く、まだ学生してるうちに貧乏で金に困って中古屋に売り払ってしまったか。買ったことは憶えてるけど、売ったことは記憶にない。今となってはちょっともう分かりません。

好きな曲なのでもともとCD買う気満々で、皆川達夫さんの『バロック名曲名盤100』を見たらこの演奏が推されていて、それで買いました。今聴いても、さすが皆川さんの耳は確かだったと思う。ただ爽やかな古楽というにとどまらない。バッハらしい精妙さ、音楽の奥行きを感じさせる演奏。ベテラン、シュレーダーの手柄でしょう。

ところが、せっかく初ダウンロードして聴き進めたところ、トラック3、vn協奏曲第1番の3楽章、始まってすぐ、ちょっとノイズが乗ってる。(0:05)くらいのところ。かすかながら、はっきり分かる。なにかに引っかかったような感じ。じつは同じ音源がYouTubeにもアップロードされているんですが、やはりおんなじようにノイズが聞き取れるので、わたしのほうの問題ではないみたい。CDではどうだったか、さすがに憶えていません。CDではキレイな音のままだと思いたい。

当該録音は現在単売CDとしては出回っていないらしい。いづれ単売が復活したらぜひ買って、ノイズの有無を調べてみます。

丸谷さん壮年期のエッセイ

2015年01月12日 | 本とか雑誌とか
丸谷さんの書評は筑摩から文庫三冊の選集が出ましたが、一般向けのエッセイ選集は文春文庫から二冊しか出ないそうですよ。しかも筑摩の書評選よりも厚みが薄い。そんな理不尽なことがあるものか、と思いますな。ただしその内輪の事情は見当がつく。晩年のエッセイ集は多く文春から文庫化されましたが、もっと若い頃のはそうではない。『男のポケット』とか『低空飛行』とか、壮年期の傑作は、文春ではなく新潮社から出て、やがて新潮文庫に入ったのだった。おそらく新潮が、文春からの復刊を許さないのではないでしょうか。新潮にはここらのエッセイ集をぜひ文庫本で復活させてもらいたい。

クリスティー『書斎の死体』

2015年01月08日 | 本とか雑誌とか
クリスティー/山本やよい訳『書斎の死体』(ハヤカワ文庫)読了。ハヤカワのクリスティーは全集化にあたって新訳に切り替わったのがあれこれあって、これもその一つ。前の高橋豊訳でも読んでますが、新訳でも読んでみました。筋はおおかた忘れていましたが、良作だった記憶はあったので。細部はところどころ憶えてました。登場人物の多くもおぼろげながら憶えていた。それに最後のオチとかね。

ミス・マープルはけっして庶民ではないのね。車椅子の大富豪とも対等に落ち着いて話のできる、それなりの社会的地位のある老女。そりゃ元警視総監がボーイフレンドなんだもんねえ。今回の再読ではマープルの階級意識に気づかされました。

 ミス・マープルは反論した。力をこめていった。
「ふつうでしたら、セーターとスラックスか、ツイードのスーツに着替えるものです。わたしどもの階級の女性なら──階級を鼻にかけるような言い方はしたくないんですが、避けて通れませんのでね──当然、そうするはずです」ミス・マープルはその話題に没頭した。「育ちのいい令嬢はつねに、時と場所に合った正しい服装を心がけているものです。たとえば、どんなに暑い日でも、花柄の絹のドレスを着てクロスカントリー競馬に出かけたりはいたしません」
 ⋯略⋯
「ルビーは、いうまでもなく──そうね、露骨に申しあげれば──良家の令嬢ではありませんでした。時と場所にお構いなしに、いちばんいい服を着て出かける──そういう階級の女だったのです。⋯略⋯」
(『書斎の死体』、pp.255-256)