歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

『傷ついた葦』のことなど

2010年04月30日 | 本とか雑誌とか
中公文庫では1970年代に曾野綾子の長編がいろいろ入っていました。およそ非現実的な幕開きでびっくりさせられる『女神出奔』とか、知的障碍児の施設の園長先生が選挙に打って出る『諦めない女』とか、一流商社のサラリーマンから水族館の職員に転職した男の物語『円型水槽』とか、三浦半島の小さなカトリック教会を舞台に主任司祭の内面を描き出した『傷ついた葦』とか。これらはわたしが大学生だった80年代には余裕で入手できましたが、いまはぜんぶ品切れ。このうち『円型水槽』だけは94年に改版されて上下二巻になって復刊されてました。その復刊分は「古いの持ってるからいいや」と思って買いそびれてるうちに品切れになったんですけどね。でも、わたしとしてはむしろ『傷ついた葦』を復刊してほしいなあ。これは曾野さんの代表作の一つとして挙げてもいいと思うよ。

『傷ついた葦』は文藝誌『海』昭和45年(1970)1月号に一挙掲載されたものだそうです。長めの中編小説? これは今でも作品の生命を失っていない。もちろん風俗は当時のものなので時代を感じさせますが、出てくる人間は古くない。カトリックの作家なのに神父さんの心のなかをこんなにセキララに書いちゃっていいの?って心配になるほど、光森守というこの神父はほんとに等身大。若くて人気のある助任司祭には嫉妬するし。いちいち世間体や他人の目を気にして行動するところもあるし。でもけっしてこの光森神父は嫌味ぢゃない。読んでるうちに、彼はわれわれ自身だ、って思えてくる。そして、信仰のないわたしとは違って、光森神父が、いろいろ弱いところはあっても根っこのところでは揺らがぬ信仰を持った人なんだということがだんだん分かってきて、どう見てもパッとしない中年男である光森さんのことをうらやましく思うようになるのだ。

曾野さんには、三浦半島の相模湾側の沿岸部を舞台にする小説がいくつもある。このへんには曾野さんのうちの別荘があるのでそのせいなんですがね。ここらは相模湾に沈む夕陽がきれいなんだそうですね。いちど見に行きたいもんですわ。曾野さんには『いま日は海に』なんてタイトルの作品もあるくらいだし、登場人物が夕陽を眺めるシーンもいくつかの小説で書いてたから、曾野さん自身、夕陽見るのが好きなんでしょう。『傷ついた葦』にしろ『円型水槽』にしろここらへんが主要舞台で、それから、書かれたのはすこし後になるけれど『神の汚れた手』もそうです。金沢と並んで、三浦半島は曾野さんの小説になくてはならぬ舞台だ。かの海軍の井上成美が隠棲してたのもこの辺でしょ。あんがい近所づき合いがあったりしてね。

いま中公文庫には『希望』とか『湖水誕生』が入ってます。(ほかにもあるかも知れませんが。)『湖水誕生』も一時期品切れになって、復活したのよね。わたしとしては『無名碑』よりも『湖水誕生』のほうを、曾野さんの土木小説の代表作として推したい。『無名碑』のゴリゴリした手触りとくらべると、『湖水誕生』は虚無的な世界観はそのままに、より内容はポリフォニックなふくらみをもって、読後の満足度は高い。しかしこれも、ゼネコン礼讃の小説ぢゃないか!と色をなす人もいるんだろう。まあそれも曾野さんらしくていいやね。

ナカイマコト知事?

2010年04月26日 | 気になることば
きのうの夜中のNHKラジオのニュースで、アナウンサーOB某氏が、例の普天間移転問題の原稿に「沖縄県の仲井真知事」とあるのを、まづ一回目「ナカイマコト知事」と言い、どうやらスタッフがそこでダメを出した気配で、しかし二回目にも某氏はなぜか「ナカイマコト知事」と言い、三度目にようやく「ナカイマ知事」と正しく言い直しました。この某氏は去年までラジオ深夜便のアンカーをやっていたひとですが、そのころから電話先とのやりとりがちぐはぐで、冴えない人でした。しかしそれにしても、今、普天間の問題がこれだけ大騒ぎになっていて、仲井真知事だってしょっちゅうニュースに出てくるのに、それを「ナカイマコト知事」と読むとは。魂消てしまった。〈わたしは沖縄の米軍基地のことなんかぜんぜん関心ありません〉て言ってるようなものぢゃないか。深夜とはいえ、かりにもNHKでニュースを読む人がこれではいかんやろ。

ここで、某氏の罪を軽くするために想像力を最大限働かせてみるとすると、もしかしたら記者がつくったニュース原稿に、「仲井まこと知事」とでもあった可能性がないではない。「仲井真」という苗字がその記者のパソコンのIMに登録してなくて、記者が「なかい」と打鍵して「仲井」をだし、「まこと」で「真」を出すつもりで、しかしここで変換ミスをしてひらがなの「まこと」のままになっていた、のかも知れない。いやまあ万が一そうであったとしても、アナウンサーOB某氏は、気づいて正しく読むべきだった。あのニュースを聞いていた沖縄の人たちは心の底からがっかりしたと思う。

沖縄県庁のサイトに行くと、「知事のページ ハイサイ仲井眞です。」とある。「仲井真」ぢゃなく「仲井眞」さんだったのね。次から気をつけよう。この手の異体字問題は実にいろんなところで引っかかってくるね。「仲井眞」さんを平気で「仲井真」と書くマスコミも、「長嶋茂雄」さんを「長島茂雄」とはけっして表記しない。字によって異体字を採るかどうかにぶれがあるのは、分かりにくい。当事者にとっては自分のアイデンティティにかかわる大問題だろう。そういえば、秋篠宮家の大君の名前にも「眞」の字がついていましたね…。

そろそろデスクトップ?

2010年04月24日 | MacとPC
最初に買ったMacがPerforma6260で、Performaというとしゃれた一体型が多かったんですが、この6260というのはベージュの筐体の上に同色のブラウン管のモニタを乗っけた、ちょっと愛想のないセパレートタイプのパソコンでした。その後、PowerBookを使ったり、一時期はバカでかくて身分不相応な縦長のPowerMacがあったりもした。その後、iBookをへて現在はMacBookです。いやー、こうして振り返るともう何台も、いろんなMacのお世話になってきたのですねー。でも、ずーっとセパレートかノートかなのね。一体型って、所持したことがない。

最初のPerformaは、愛想はなかったけれど、わたしにパソコンの何たるかを教えてくれた。はじめてネットに出ていったのもこのPerformaからだった。その後使ったPowerMacも安定していたし、そろそろまたデスクトップを使いたいなあと思っているところではあります。

いまわたしはインターネットの意で「ネット」と言う言葉を使いましたが、わたしのMacBookに入っている『大辞泉』『大辞林』『広辞苑』でそれぞれ「ネット」の項目を開くと、『大辞林』『広辞苑』には「インターネットの略。」という語釈が載っていますが、『大辞泉』には載っていなかった。『広辞苑』は去年だったかに出た第六版なのでいちばん有利ですが(前の版で載ってたどうかは分かりません)、『大辞林』『大辞泉』だって、ここ四五年のうちに相前後して出たものですよ。どうも『大辞泉』は『大辞林』に内容で遅れを取っているような気がするなあ。この「ネット」の件だけではありません。『大辞泉』はツメが甘い。

曾野綾子『木枯しの庭』再読

2010年04月23日 | 本とか雑誌とか
曾野綾子『木枯しの庭』読了。新潮文庫版は昭和56年(1981)発行で、わたしが今度Amazonで買ったのは平成15年(2003)の46刷改版。時間はかかってるけど、文庫で46刷まで行くというのはたいしたもんではないでしょうか。ロングセラー。この本の元版は昭和51年(1976)新潮社刊だそうです。

この本をはじめて読んだのは1983年か84年か、そのころのはずです。大学生のときにはピンと来なかった個所も、四十過ぎてもう一回読むと、ああなるほどねと腑に落ちるようで、とてもおもしろかった。それから、主人公の大学教授が四十三歳、その母親が六十五歳で、この母親は生活のすべてにおいてべったりと息子を当てにして生きているんですが、今どきの六十五歳ぢゃこんなことはちょっと考えられない。現代なら七十五歳にでも設定しないと読者に納得してもらえないだろう。

『木枯しの庭』カバー裏の著者紹介に、「小説に『無名碑』『神の汚れた手』『時の止まった赤ん坊』『天上の青』ほか。」とある。こういうのは、文案は新潮社の人が考えるんでしょうが、もちろん著者に見せて了解は取るはずでしょ。やはりトップに挙げられるのは『無名碑』ですか。曾野さん自身、〈この小説を書き終えるまでは死にたくないと思った。〉という意味のことをどこかで述懐していた。自他共に認める代表作。しかしねえ、わたしは学生時代に一回読んで、でもこの小説はあまりに救いがないのでその後は読み返していません。なんかね、カタルシスがないのね。文庫本上下二冊読ませられて、その挙句この結末かよ、みたいな。次の『神の汚れた手』と『時の止まった赤ん坊』はいいですよね。それぞれ、日本とマダガスカルの産院を舞台とする小説で、人間が「生まれる」場所に焦点を合わせつつ、人間がいかに「生きていく」かという問題や人間の「死に方」の問題にまでつながっていくところがおもしろい。そして『天井の青』ですが、わたし未読なんですよ。

CopyPaste Pro

2010年04月22日 | MacとPC
クリップボードの機能拡張ソフトとしてCopyPasteというシェアウェアをOS 9以前からずっと使いつづけていて、OS X以降はCopyPaste-Xにバージョンアップして使っていたんですが、きのう、さらにアップグレード料金1,000円はらって、CopyPaste Proに移行しました。というのは、月曜日にPanasonicの大型プロジェクタにMacBookをつないでプレゼンする機会があったんですが、その後、CopyPaste-Xの「クリップ拡張パレット」の位置を動かせなくなってしまったんですよ。画面の右下を定位置にしていたのに、それが画面の真ん中ちょっと下あたりに固定されてしまった。パレットのタイトルバーをドラッグして右下に持って行っても、ぐいーんとすぐに真ん中に戻ってしまう。再起動するとか初期設定ファイルを捨ててみるとかやったけど、だめ。まあ、CopyPaste-XがIntel MacではRosettaで動いているのは分かっていまして、CopyPaste Proが出た以上CopyPaste-Xは開発中止なのでしょうし、となると今後ほかにも困ったことが出てきても状況の改善は望めないわけで、思いきって乗り換えました。クリップボードの使い勝手をよくするソフトとしては、フリーウェアでClipMenuというのがあって、評判もいいようなので、もちろんわたしも試してみたんですが、機能的にはCopyPasteに遜色なさそうだったけれど、使い方がよく分からなくて、断念。

CopyPaste-Xもごく初歩的な使い方しかできていなかったので、ひと様の参考になるようなことはなにも書けませんが、CopyPaste Proになって、やはり確実な進歩が感じられました。1,000円出して、後悔はありません。

わたしがはじめて買ったパソコンはMacintosh Performa 6260という機種で、アップルのサイトは過去の機種の情報についてはまことにそっけないのが例なのですが、なぜかこのパフォーマについては単独ページを作って写真入りで情報開示しています。あのでかさでも、モニタは15インチしかなかったんだなあ。隔世の感がありますね。解像度が最大でも832×624。いま使ってるMacBookが13インチで1280×800だから、この小さい画面のほうが情報量は多いってことね。

『木枯しの庭』在庫限り!

2010年04月20日 | 本とか雑誌とか
1979年に出た〈新潮現代文学〉第52巻が『曽野綾子』で、bk1によると、入っているのは「木枯しの庭」「わが恋の墓標」「落葉の声」「無為」「エトラルカ岬」だそうです。「木枯しの庭」が入ったのは直近の長編小説だったからかな。「わが恋の墓標」は以前新潮文庫の百冊にも入ってたような気がする。新潮社イチ押しの短編てことか。そうだよだって、「わが恋」はもともと古くから新潮文庫に入っていて、さらに二十一世紀になっていちど復刊になったんだもん。新潮社にこの小説のよほどのファンでもいるのかしら。いやもうその復刊になったほうも現在は品切れですけどね。「落葉の声」は〈現代の文学〉〈昭和文学全集〉にも入ってました。

Amazonに曾野綾子『木枯しの庭』の在庫が残っていたので注文しました。学生時代に一回読んだことはあるんですけどねー。楽天ブックスではもう品切れになっているんですが、たまたまAmazonで見つけちゃったので買いました。新潮社ももう在庫を持ってないようです。Amazonやbk1とかが持っている在庫や、本屋さんの本棚に並んでる現品限りだと思います。

『木枯しの庭』はその数年前に書かれた『幸福という名の不幸』と対になる小説だと思いますわ。もちろんぴったり左右対称みたいになるわけではないけれども、対にして置くとおもしろい。『木枯しの庭』は四十代にさしかかってまだ独身の大学教授の嫁探し小説。『幸福という名の不幸』は父を亡くして働きはじめた若い娘の婿探し小説。そして、事情はそれぞれ違うんですがどちらの婚活もうまくいかんのですわ。『木枯しの庭』のほうは子離れできない初老の母親が出てくる。その息子の大学教授である主人公が母親を断ち切れるかどうかが読みどころ。この、子離れのテーマは、曾野さんの小説には何度も出てくる。短編で「お家がだんだん遠くなる」とか、おもむきは異にするけれど『太郎物語』もこの系列。作者自身の、「子離れしなきゃ!」って思いがウラに透けて見える。『幸福という名の不幸』のほうは主人公の榎並黎子がかしこすぎるせいで、つきつぎ現れる男たちの本質が見えてしまう。あれだけ男を振りつづけるのに、にもかかわらず榎並黎子が嫌味な女にはみえないように書いてある。むしろ物の見えすぎる不幸な女性。作者のこの筆力はたいしたもんです。

広瀬久美子の土曜サロン

2010年04月19日 | メモいろいろ
土曜日の夜に夜更かししてしまって、ふとんに入ってラジオ深夜便をつけていたら井上ひさしさんがむかし土曜サロンにゲストで呼ばれたときの古い録音が流れた。インタビュアーは広瀬久美子さんだ。聞き手は広瀬さんひとりだけで、男のパートナーの声は入っていなかった。いやいや懐かしい。いついつの録音て詳しいところを聞き漏らしたのだが、これって昭和の録音? 音はクリアだったが、いやもうそのくらいむかしですよ。わたしは広瀬久美子の土曜サロンをなにせ中学生から聴いてたんだから。やっぱり広瀬さんはほかのNHKの人と違うね。広瀬さんみたいな破天荒なアナウンサーはいまもNHKにはいないんぢゃなかろうか。キチンとするところはもちろんキチンとしていて、なおかつNHK的な安全圏にとどまっていないで、つねにすこしづつ意図的に踏み出す。それがこのひとのしゃべりだった。

きれいなカバーにだまされて

2010年04月18日 | 本とか雑誌とか
わたしは長崎東高の図書館にあった桃源社版〈曾野綾子作品選集〉ではじめて曾野さんの小説をまとめて読んだんですが、これ全十二巻で、中身ぎっしり本文二段組、すべて短編かせいぜい中編、または短編の連作ばかりで、相当読みごたえのあるシリーズでした。当時まだ曾野さんは確か四十代で、まだそれほどのトシでもないのにこの人短編だけでももうこんなに書いてるんだとびっくりしたのをおぼえています。しかもそれだけの分量がありながら「全集」ぢゃなくて「選集」っていうんだから。

桃源社からこの選集が出たのは1974年から75年にかけてで、わたしが東高にかよったのは80年ごろですから、刊行後、五六年て時期だったのですね。東高の図書館には司書の先生がいらしたので、たぶんその方が選書してくれたんぢゃないのかなあ。図書館の本とはいえ、まだきれいでした。カラフルなカバーの色が褪せてなくてあざやかさを保ってました。そのオレンジとかマリンブルーとかのきれいな色のカバーに引かれて手に取ったようなもんですよ。背表紙に印刷されている巻ごとのタイトルも『海の見える芝生で』とか『愛の証明』とか『夢を売る商人』とか『花束と抱擁』とか、なんかお洒落でね、中身もお洒落な小説なんだろうと思ったらまんまとだまされましたわ。でも読んだ。なんでかな。まづ、文章がよかったんですかね。わたしに合った。高校から大学時代にかけてのわたしの文章は、ほぼまるまる、曾野さんの文体の真似でした。

ああそうか。曾野さんがあの選集を出したのは今のわたしとおんなじ年のころなんですねえ。あらー。やっぱすごい人だわ。

ユングヘーネル『デ・ウェルト_5声のマドリガーレ集』

2010年04月17日 | CD 中世・ルネサンス
De Wert
Madrigali a cinque voci
Cantus Cölln
Konrad Junghänel
HMX 2901621

1996年録音。68分06秒。HMF。ディアパソンの賞をとったそうで、表紙にシールが貼ってあります。デ・ウェルトは16世紀のイタリアでもっともイタリアらしいマドリガーレを書いた作曲家のひとり(だそうです)。そのデ・ウェルトの5声のマドリガーレのアンソロジー。歌い手はKoslowsky、Popien、Türk、Jochens、Schreckenberger。これにリュート。

カントゥス・ケルンはバッハのモテットやモンテベルディの『倫理的宗教的な森』をOVPPで歌ったのを聴きましたけど、こういうマドリガーレならOVPPが当たり前なので聴くこちらも安心して聴いていられます。そしてカントゥス・ケルンのめんめんがまたルネサンスのマドリガーレを自信もって歌いあげてる。

各声部の声のバランスがいい。全体としてよくブレンドされたしっとりとしたアンサンブルになっているのが好ましい。コスロウスキーとポピエンはどちらも地味な声質ですが、気にならない。むしろこれくらいでちょうどいい。テナーにゲルト・テュルクが入っていますけど、テュルクってこういうのも歌える人なのですね。最低声のシュレッケンバーガーも聴き心地のいい美声で、控え目ながらしっかり支えている。

曲は、実はほとんどはじめて聴いたものばかり。冒頭の'Vezzosi augelli"は宝塚ベガホールで室内合唱コンクールに出たときに、どこかよその合唱団が歌ってた。コンサートでこのプログラムだと退屈だけど、仕事中にBGMで流して、疲れたら時折耳を傾けてみる、ような聴き方がいいですね。つい聴き入ってしまう。

全集における曾野さんの作品

2010年04月16日 | 本とか雑誌とか
小学館の〈昭和文学全集〉では第25巻が『深沢七郎 水上勉 瀬戸内晴美 曾野綾子 有吉佐和子』で、曾野さんの収録作は「地を潤すもの」「幸吉の行灯」「殉死」「星との語らい」「銀杏の梢にかかる星」「只見川」「愛」「落葉の声」「チェ・ゲバラの春」「慈悲海岸」。これは1988(昭和63)年刊で今も入手できるそうですよ。「殉死」「星との語らい」「只見川」「落葉の声」が〈現代の文学〉と共通。「星との語らい」がここでも選ばれているのはうれしいなあ。けど「殉死」ってそこまでの名編とは思わんけどな。「只見川」は戦争に引き裂かれた夫婦の殉愛もの。「落葉の声」は、アウシュビッツでコルベ神父に自分の身代わりになってもらって命を救われたガイオニチェック氏をポーランドに訪ねる話。

ついでに、たまたま今年復刊された筑摩書房の〈現代日本文学大系〉では第88巻が『阿川弘之 庄野潤三 曾野綾子 北杜夫集』で、収録は「たまゆら」「遠来の客たち」「海の御墓」「べったら漬」。1970(昭和45)年刊。「たまゆら」は長めの中編小説で、曾野さんの代表作の一つ。芥川賞の候補になった「遠来の客たち」以下の三編は最初期の短編。

SuperNipponicaProfessionalでは「曾野」ではなく「曽野綾子」で項目が立っていました。執筆者は〈尾形明子・田中夏美〉。説明の前半に、「『遠来の客たち』(1954)が芥川賞候補となる。『海の御墓』(1954)、『たまゆら』(1959)など、知的で洗練された都会的感覚と、人生に過度な期待を抱かない諦念、ロマンチシズムが融合した作品を発表、」などとある。

アフリカを舞台に人間の生と死の問題を取り上げた『時の止まった赤ん坊』が1984年、ダム建設を題材に、その大工事にかかわったさまざまな人びとの運命の変転を語る『湖水誕生』が1985年で、このころが小説家としての曾野綾子のピークぢゃなかったか、って話は以前書いたことがありますが、ちょうどそのころ、読売新聞社から『曾野綾子選集』って作品集が出てたんですね。学生だったから当時はそんなの買う気もなかったし、だいいちそんなのが出てたなんて知らなかったけど、状態のいい揃い本で適正価格の古書の出物があったら買いたいなあ。