歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

MacBook。

2006年05月17日 | MacとPC
iBookの後継機種となるMacBookが発表されている。16日からアップルのサイトで購入可になっていたそうだが、いま知った。13.3型のワイド液晶だそうである。これは大歓迎だ。期待を裏切ることの多いアップルだが、めづらしく、ユーザーがほしいほしいと願っていた真ん真ん中の製品を出してきた。仕様の違いで3タイプあって、最上機種が黒、下の二つが現行のiBookカラーらしい。やはり黒の筐体のほうが、引き締まって見映えがする。

しかしあわてて買い込もうと思っているわけではない。ソフトもまだIntelMacに追いついてこないし。しばらくは様子見だ。2世代ほど待てば、機能もこなれ、ハードも安定し、そしてその頃にはたいていのソフトも(その気があれば)IntelMacに対応してくれているだろう。ただ、IntelMacに移行した場合、複合機とMOドライブも買い替えなければならなくなりそうなので、それがいまから気が重い。

セビリア雑記。

2006年05月15日 | 気になることば
『セビリアの理髪師』というオペラの原題は《Il Barbiere di Siviglia》だそうだ。わたしは「ヴァ行」を使わない主義だから、「セヴィリア」ではなく「セビリア」と書く。しかし、ロッシーニのこのオペラはイタリア語なのだから、原音主義の人たちにとっては、このオペラの邦題は『セヴィリアの理髪師』というべきだ、ということになるのだろう。

ところで、イタリア語と違い、スペイン語ではvの発音は[b]であって、[v]ではないそうだ。いやこれにも例外があって、東のほうのカタルニア語ではやっぱり[v]なのだそうだ。ある人たちは、ガンバ奏者で古楽の指揮者でもあるJordi Savallについて、「ホルディ・サバール」という(NHKの?)表記を批判して、「ジョルディ・サヴァール」と書きなさい、と声高に主張している。

サバールはさておいて、セビリアの話にもどる。Macに入れている『スーパー・ニッポニカ』で「セビリア」を引くと、そこには仮見出しが立ててあって、「セビーリャ」の項目に誘導される。スペインではSevillaと表記されるらしいこの街は、スペイン南西部のアンダルシアにあって、2001年に人口68万あまりだそうだ。アンダルシアでは、カタルニアとは違ってやっぱりvは[b]と発音するようだ。すると原音主義でいこうとすると、少なくとも「セヴィリア」はまづいだろう。「セビリア」または「セビーリャ」と書くべきなのだろうか。

しかし話はここで終わらないのである。地元では、Sevillaを「セビージャ」と発音するのだそうである。サッカーの欧州連盟カップで今回Sevillaのチームが優勝したのだそうなのだが、Yahoo!でニュース検索すると、日本の報道の一部でも、「セビージャ」という表記をしているところがあった。

となると、原音主義の人は、ロッシーニのオペラについての話なら「セヴィリア」と書き、オペラの話ではない現実のこの街の話をするときは、「セビーリャ」あるいは「セビージャ」と書きわけるべきなのである。ごくろうさまである。

エストマンのモーツァルト四大オペラ/歌手についてのメモ。

2006年05月13日 | 音楽について
エストマンのモーツァルト四大オペラのCD。録音の早い順に並べ、おもな歌手を書き出すと、こうなる。

『コジ・ファン・トゥッテ』(1984)
 ヤカール、ナフェ、ウィンベルイ、クラウセ、フェラー、レシック。
『フィガロの結婚』(1987)
 サロマー、ボニー、ハーゲゴール、オジェー、ジョーンズ、フェラー。
『ドン・ジョバンニ』(1989)
 ハーゲゴール、カシュマーユ、オジェー、ジョーンズ、デルメール、ボニー。
『魔笛』(1992)
 ストライト、ボニー、ジョー、カシュマーユ、ジグムンドソン、ワトソン。

最初の『コジ』だけは、ほかの三つと雰囲気がちがう。主役の女声ふたりはともかく、男声のウィンベルイとクラウセの歌い方が古楽的でないのだ。悪くはないが、ふだん古楽器による古楽ばかり聴いていると、やや耳慣れない。ウィンベルイはカラヤンの『ドン・ジョバンニ』でオッタービオを歌った人、クラウセはやはりカラヤンの『フィガロ』で伯爵を歌った人である。

『フィガロ』の伯爵と『ドン・ジョバンニ』のタイトルロールをホーカン・ハーゲゴールが歌っている。この二役を同じ歌手に歌わせているのはガーディナーの場合と同じ。ガーディナー盤の歌手はロドニー・ギルフリー。ハーゲゴールは、ギルフリーよりも器は小さいだろうが、しかしハーゲゴールはエストマンの描くモーツァルトの世界にしっくりと嵌っていて、これはこれでいいのではないか。ハーゲゴールは『魔笛』にも弁者で出ている。

『フィガロ』では、カルロス・フェラー(バルトロ)とフランシス・エジャトン(クルツィオ)がガーディナー盤と同じ配役。(エジャトンはガーディナー盤ではバジリオも。)

ペッテリ・サロマーは、『フィガロ』ではタイトルロールだが、『魔笛』では第二の武士。降格? この人のフィガロは悪くはない。しかし、たとえばガーディナー盤のターフェルと較べてしまうと、たしかに没個性的ではある。

後半二作品に出たカシュマーユが前半の二作にも出ていたら、このエストマンのセット、もっと評価が上がっていただう。カシュマーユは、バルトロもパパゲーノも安定している。

『ジョバンニ』のマゼットはターフェル。この人はその後ショルティ盤でジョバンニ、アバド盤でレポレロ。

四大オペラに関するかぎり、テナーは冷遇されてるよなあ。タミーノのカート・ストライトも、ドン・オッタービオのニコ・ファン・デルメールも好演。

ヤカール、オジェー、ボニー、ジョーンズについては、以前聴いたことがあったが、アリシア・ナフェというメゾについてはなにも知らない。ドラベッラもケルビーノもよく歌えてると思う。あまり若々しい感じはない。1977年のアバドの『カルメン』にアダルジーザで出ているそうだ。

女声ではなんといってもボニーが光っている。オジェーもいいのだが、ボニーと較べるとやや薄味だ。

『フィガロ』のマルチェリーナと『ジョバンニ』のドンナ・エルビーラを、デラ・ジョーンズが歌っている。この人はかなりアクの強い歌い方をする人だ。どちらの役もなかなか面白い。ただし、とくにドンナ・エルビーラについては、生々しすぎるといって嫌う人もいるだろう。

永井尚志と三島由紀夫。

2006年05月10日 | メモいろいろ
一昨年の、新撰組の大河ドラマでは、佐藤B作がやった永井尚志という人物に光が当てられていた。幕末もののドラマや小説をよく知らないので、幕末マニアのあいだでは永井尚志はすでに有名人なのかもしれないが、わたしには分からない。で、昨日たまたま知ったのだが、この永井の養子の、さらにその娘が、平岡といううちに嫁に行ったそうである。そしてこの女性は、のちに平岡公威すなわち三島由紀夫の祖母となった。永井尚志と三島由紀夫は血縁関係にあったのである。

「無理心中」。

2006年05月06日 | 気になることば
あるマンションの駐車場で男が倒れているのが発見され、死亡が確認された。飛び降りたらしい。身元が判ったので、確認のために警察が男の家に出向くと、飛び降りた男の妻が首を絞められて死んでいた。――ざっとまあこういう内容のニュースをローカルでやっていたのだが、そのあと、アナウンサーの読んだ原稿はこう続いた。曰く、「警察は無理心中とみて調べています」。

「無理心中」とは、文字どおり、無理やり心中すること、なのだそうだ。この事件の場合、妻は死にたくなかったのに夫が無理やり道連れにしたという、確たる証拠があったのかしら。

以前からなんとなく気になっていたのだが、こういう事件のニュースで、「警察は心中とみて調べています」とは言わないような気がする。たいてい「無理心中」と言うね。まあそういう場合もあるのだろうが、しかし合意の上での心中かも知れないぢゃないか。最初から決めつけてはいけない。文楽の『心中天網島』だって、紙屋治兵衛は先に小春に刀を突き刺して死なせてから、そのあとで首をくくっていましたよ。小春と治兵衛の場合も、いまの日本の警察の解釈では「無理心中」ってことになるんだろうか。

ガーディナー『ヘンデル/メサイア』

2006年05月04日 | CD ヘンデル
Handel
Messiah
Marshall・Robbin・Rolfe Johnson・Hale・Brett・Quirke
Monteverdi Choir
English Baroque Soloists
John Eliot Gardiner
411 041-2

1982年録音。51分04秒/51分53秒/34分03秒。PHILIPS。むかし、私がはじめて買ったCDがこのガーディナーの『メサイア』で、その後、生活苦(!)その他もろもろの事情で売り払ってしまったこともあるのだが、後にまたおなじ演奏を買い直した。いまから四半世紀近く前の録音、てことになってしまったのですね…。早いもんだ。

悪口を言おうと思えば言えるけれども、しかしガーディナーの『メサイア』はやっぱりすごい。聴く者を飽きさせない。序曲から最後の「アーメン・コーラス」まで、どこもかしこも磨きに磨かれている。動と静、明と暗、早いとゆっくり。隣り合うナンバーどうしの対比をハッキリと際だたせている。『メサイア』でいい演奏をひとつだけ推薦してください、と言われたら、迷いつつも、このガーディナー盤をわたしは挙げると思う。いやそもそも、『メサイア』でひとつだけ、というのが無理なんですけどねわたしに言わせれば。

しかしガーディナーのこの『メサイア』については、毀誉褒貶、さまざまな意見がある。貶す人の気持ちも、わたしにはよく分かる。このことについては最後に書く。とにかく、この演奏が気に入るようなら、その人はガーディナーとの相性のいい人。それにしてもガーディナーは、かつて、ヘンデル演奏に関してこれほどまでに意欲満々だったんだよなあ。

この録音のあと、実力派の合唱団がいくつも出てきて、それぞれの指揮者とともに『メサイア』を録音した。仕上げのみごとさでは、82年現在のモンテベルディcho.のこの演奏よりもさらに上をいくグループもたしかに存在します(たとえば、ザ・シクスティーン)。しかしそれでも、この『メサイア』におけるモンテベルディcho.の完成度の高さは、いまなお現役盤として聴くに値する。合唱団そのもののレベルの高さもさることながら、ガーディナーの眼が楽譜の隅々まで爛々と光っていて、決まるべきところが、すべて、ぴたっと決まっている。これは、ある程度の合唱の経験があって『メサイア』の合唱に参加したことのある人ならよく分かるはずだ。

ソリストは、全体にちょっと堅く聞こえないこともない。みな、ガーディナーの意図を具体化するのに一所懸命だったんだと思う。もっともいいのはメゾ・ソプラノのロビン。ついでソプラノのマーシャルか。ブレット、ロルフジョンソン、ヘイルの男声3人はやや窮屈。たとえばバスのロバート・ヘイルというのは、美声は美声で、細かい音符もよく回せる人なんだけど、ふだんバロックなんて全然歌ってなくて、装飾音の扱いなんかまるで不慣れなのが手に取るように分かる。いや、そうは言っても合格点は出せるけど。

この演奏の問題点は、CD3枚(いまは2CDで出ているけど、わたしが持っているのは3CD)聴きとおしたあとに、「ああ、ヘンデルっていいなあ」ということではなくて「ああ、ガーディナーって巧いなあ」という感想が最初にわいてしまうこと。つまりヘンデルの音楽そのものよりもガーディナーの表現意欲のほうが全体を支配していて、いまひとつ、ヘンデルを聴いた満足感にひたらせてくれないんですよ。