歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

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岡政デパート

2011年01月26日 | メモいろいろ
博多大丸長崎店が7月末で閉店するとのこと。わたしはここのデパートのことは「岡政」といってました。浜の町のアーケードの角の一等地なんですけど、婦人服を売ってるところというイメージが強く、実は入ったことはほとんどなかった。親の用事について行く、などというのでない限り、ガキジャリが入るお店ではなかった。長崎新聞ホームページによると、「ピーク時の1997年にはファッション専門店型の店舗戦略が奏功して売上高は過去最高の85億円に達した」という。これ、つい10年ちょっと前なのに。「00年以降落ち込みが続き、09年は49億円に減少した。」
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あの賞の選考委員

2011年01月26日 | メモいろいろ
芥川賞の選考委員は必ずしも芥川賞作家とはかぎらない、ということを、この前『芥川賞全集』を読んだときに知りました。中村光夫さんが一時期選考委員で、ああこの人は有名な批評家だからね、とそのとき思った。でも、純文学の作家で、芥川賞もらってない人が、その芥川賞の選考委員になることもあるのですね。この前芥川賞の発表のときに、選考委員を代表して島田雅彦さんが記者会見していたけど、島田さん自身は芥川賞受けてないそうです。びっくりした。いえね、わたし、島田雅彦って読んだことないの。だからこの人については、有名な作家だ、ということしか知らないんですが、自分は芥川賞もらえなかったのにその選考委員になって、記者会見で選考結果についてコメントするって、やりにくいだろうねえ。っていうか、よく選考委員を引き受けたね。

芥川賞を受けた人がすべてそののち大作家になるってわけでもないし、著名な作家でも、案外な人が受けてなかったりするのね。選考委員をしてるわけではないけれど、有名な作家でいうと、あの村上春樹も、芥川賞の候補にはなったけど受賞していない。津島佑子もそう。吉本ばなながもらわなかったのはなんとなく分かる気もする。
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丸谷才一『双六で東海道』

2011年01月25日 | 本とか雑誌とか
丸谷才一『双六で東海道』(文春文庫)読了。2005年から2006年にかけて『オール讀物』に連載。十六編の長めのエッセイ、それに弔辞一つ。丸谷さんはもう「余生」を生きている、ということをしみじみと感じさせられる。さびしい。いえね、相変らず面白いといえば面白いよ。でもねえ、なんというか、もう出がらしなんだよね。
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「スーツアクター」

2011年01月24日 | 気になることば
島野修さんというかたが、昨年の5月に亡くなったそうです。巨人と阪急でプロ野球選手として活躍したのち、ブレーブスやブルーウェーブのマスコットキャラクターの中に入っていた人だそうです。さてこの島野さんについて、ウィキペディアが、この人について記述するページの冒頭で「神奈川県横浜市出身の元プロ野球選手(投手)、スーツアクターである。」と書いている。しかしこれはおかしいだろう。

島野さんが自分のことを「自分はスーツアクターだ」と生前言っていたのなら分かるけど、おそらくそうではあるまい。わたしはプロ野球の球団組織についてなにも知らないけど、着ぐるみの中に入っていたのは「球団職員」として仕事をしていたわけでしょう。ぢゃあ、「元プロ野球選手(投手)、○○球団職員である。」とでもすべきで、そのうえで、島野さんがキャラクターの中身として活躍したことを言いたいのならそのことを書き添えればいい。

わたしはそもそも「スーツアクター」ってことばの使い方に疑問があります。「スーツアクター」は職業ではないと思う。仮面ライダーやウルトラマンのコスチュームの中に入って演技する仕事の人に、「あなたの職業はなんですか」と訊いても、「わたしの職業はスーツアクターです」という人はいないんぢゃないか。「俳優です」とか「スタントマンです」とか、そう答えるのがふつうではないか。

「スーツアクター」ってことばはだれが使い始めたか分かってるんだろうか。まあ、ハッキリしたことは分からんでしょうね。どうも、作り手側ではなくて特撮ファンの人たちが使い始めたんぢゃないか。現実に、素顔を出して演技することがほとんどなくて、かぶり物の仕事ばかり、という俳優さんやスタントマンさんはいるだろうが、だからといってその人のことを他人が「あの人の職業はスーツアクター」と言うのは僭越だと思う。
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駅伝でなつかしむ

2011年01月23日 | メモいろいろ
都道府県対抗男子駅伝は毎年見てます。駅伝のコースは、平和公園からスタートして宮島街道を宮島口のちょっと先まで走って折り返し、広島市街に戻ってきて、市街地をぐるっと一回りしてゴール。

毎年見て、広島をなつかしむ。市街地のコースはよく自転車でぐるぐる動き回っていた縄張りだし、それにわたしは宮島街道も知っている。合唱の練習場所があったんです。鈴峯女子大前で電車を降りて、八幡川を越え、左に折れてすぐを入ったところに指揮者のお宅があって、およそ8年間、毎週土曜日に合唱の練習にかよっていました。八幡川にかかる八幡川橋というのは毎年駅伝のテレビ画面に映るので、見逃さないようにしています。今はどうだかわからないけど、わたしがかよっていたころ、あの橋のあたりは川の中にサギがたくさんいてね、きょうもいるな、と横目に見ながら、歌うことにわくわくしつつ練習にかよいました。

西旭町に住んでいたので、皆実町六丁目から広電で己斐までいって、そこから郊外線に乗り換える。己斐はコイと読むんですが、たしかに最初は読めませんでしたね。そのせいですか、いまは「広電西広島(己斐)」って表記になってるのね。

学校が西条に移ったあと、土曜日に西条まで行った日は、山陽本線で西条からそのまま五日市まで直接行ってました。山陽本線は、広島駅を出ると、市街地の北のへりをふちどるようにして、横川、西広島の順に停まっていく。高架になってる横川の手前あたり、進行方向右側にマンションが続いていてね。土曜日の夕方6時半ごろ、それぞれの部屋の食卓のあかりが見えたりして、なにしろわたしは一人暮らしの学生だったので、家庭の団欒の灯りに、胸迫るものがありましたですよ。

広島駅前の再開発は知っている。それから、その後行ったことはないけど広電西広島も大きな屋根のしゃれた建物に建て代わった。大きな建物は様変わりしたところが多いけれど、たとえば広電本社前の「ランチボックス」とか、鷹野橋の「房州」とか、学生時代にかよったお店がまだあるらしい、というのはそれだけで、なんかうれしくなる。
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「巻」を「ケン」と読むこと

2011年01月21日 | 気になることば
きのう青山アナがニュース9で席巻を「せきまき」と読んだのをわたしはナマで見ていました。となりの大越キャスター(この人は記者ですから、「大越アナ」ではありません)もあの瞬間困ったと思いますよ。その後あのタイミングで「セッケンですね」と大越さんがひと言いったのは、善後策として妥当だった。何も言わなかったら大越さんまで批判されるところでした。

青山さんの立場上、あれを「せきまき」と読んだのはたしかにまづかった。弁解のしようがない。それはそれとして、彼女は、根っから席巻は「せきまき」だと思いこんでいたのか、それとも「セッケン」と読むのは知っていたけれどつい「せきまき」と発音してしまったのか、それは分からないですよ。正しい読み方をちゃんと知っててもつい間違える、ってことはだれにでもあるのである。前に麻生さんの読み間違いがいくつも大騒ぎになったけれど、あれだってモノによっては「そこまであげつらうことはないだろう」と思うような事例もないではなかった。

考えてみると、「席巻」てことば、もちろんわたしも前から知っていますが、自分の書いた文章にこのことばを使った記憶はないんだよね。そういう人のほうが多いんぢゃないでしょうか。ちょっと憶えておいて、近々使うようにしよう。そもそも、「巻」の字をケンと読む、というのがピンとこないってことはありませんかね。わたしはあるよ。たとえば「巻雲」。わたし、しばらくこれを「まきぐも」と読んでいましたもん。(「まきぐも」という読みもあるようですが、ふつうは「ケンウン」でしょうね。)
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エストマンのモーツァルト

2011年01月20日 | 音楽について
アルノルト・エストマンが指揮してオワゾリールに録音したモーツァルトのオペラは『フィガロ』『ドン・ジョバンニ』『コジ』『魔笛』で、わたしはこの四つがセットになったCD10枚組を、すでに当時国内の通販サイトではカタログから外されていていたんで、またつぶれる前の米Towerにわざわざ注文して手に入れました。なんか、執着していたんですよね。その10枚組は無事アメリカから届いたんですが、その後たしか一年もたたないうちに米Towerはつぶれたんぢゃなかったかな。

現在、『ドン・ジョバンニ』と『魔笛』は廉価盤で入手可能ですが『フィガロ』と『コジ』は新品では手に入らないみたいです。『コジ・ファン・トゥッテ』は──主役の歌手たちが清新とは言いがたいので──まあなくてもいいかもしれないけど、『フィガロ』が出ていないのはもったいないねえ。

エストマンはモーツァルトのオペラの、時代楽器による録音の走りでした。しかし出来はいい。エストマン盤の価値は、ただほかの指揮者に先んじたという点のみにとどまらない。時代楽器の演奏らしく快速ながら、モーツァルトらしい優美豊潤はそのまま。そして歌手が総じて揃っている。とくにアーリーン・オジェー、バーバラ・ボニー、スミ・ジョー、デラ・ジョーンズといった女声は充実をきわめている。最初に録音されて、ヤカール、ナフェ、ウィンベルイ、クラウセと歌手には新味のない『コジ』にしても、しかし音楽そのものは決して悪くない。

その後(またはそのころ?)、ガーディナーもアルヒーフでモーツァルトのオペラを継続的に録音して、そっちのほうが録音したオペラの数は多いんですが、そのガーディナーのも、さらにその後のヤーコプスのもまだセットにはなってないでしょう。ヤーコプスは、彼のヘンデルを聴いたところから臆測するとよほど聴かせ上手な演奏だろうと思われますが、わたしはヤーコプスの指揮の巧さよりもモーツァルトの音楽そのものを味わいたいので、しばらくヤーコプスに手を伸ばす気はありません。
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吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』

2011年01月17日 | 本とか雑誌とか
吉田篤弘『それからはスープのことばかり考えて暮らした』(中公文庫)読了。『暮しの手帖』に連載された長編小説とのこと。舞台は二両編成の路面電車が走る町で、主人公は大里君(ニックネームはオーリィ君)という若者、求職中。その町に越してきて、商店街のはしっこの小さなサンドイッチ店の父子と知りあい、やがてその店で働くようになる。彼の行きつけの映画館は、となり駅の月舟町にある〈月舟シネマ〉で、その映画館でも新たな出会いがある。おいしいサンドイッチやスープの話の現実感(つまりいかにもおいしそう)と、日本の話なのにどこか日本離れしたかろやかな空気感とが、うまく綯交ぜになっている。

路面電車が二両編成で、停留所ではなくて〈駅〉という言い方をしているし、一方の終点が私鉄に接続している、という設定で、これはどこかモデルがあるにちがいないとにらみ、世田谷線かな、と思ったらはたしてそうだった。著者がおしまいのほうのページで書いていた。しかしこの小説の舞台の町は海が近い、という設定でもあるので、まるまる世田谷線沿線の話、と思いこむ必要もない。わたしは長崎を思ったり広島を思ったりしました(長崎には二両編成はありませんが)。そして読み終わるころには、オーリィ君の住んでいるこの「〈月舟町〉のとなり町」のイメージが、ほかの街ではないこの町独特のものとして心にしっくり残ったことを感じましたね。町の色はパステルカラーで。路面電車は最新式ではないけど乗りやすくて。
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梨園の敬語?

2011年01月12日 | 気になることば
梨園のかたたちの敬語がちょっとおかしいのではないか。いや、舞台の上で話すせりふのことではなくて、日常話したり書いたりする日本語のこと。それがこの業界ではふつうのことば遣いなのかもしれないけど、一般人のわたしから見るときわめて異様だ。

松竹の歌舞伎情報サイト「歌舞伎美人」には、歌舞伎役者ヘのインタビュー記事がよく載っています。いやほんとはインタビューなんかはしてなくて、だれか担当者が松竹の人から資料をもらって勝手に構成してるのかもしれないけどさあ。でもいちおう、役者が語ったことばをそのまま載せてます、って作りようである。で、先日、片岡愛之助さんへの「インタビュー記事」がアップされていた。「インタビュー・文/千葉望」「構成/栄木恵子(編集部)」とある。千葉望さんや栄木恵子さんて人がどういう人かは知らない。しかし少なくともこの記事の編集者、敬語の使い方がまるで分かってない。こんなのではだめである。

千葉さんないし栄木さん(文責はやはり「構成」の栄木さんにあるのだろうか)によると、愛之助さんは次のように言ったという。〈叔父の仁左衛門に稽古をつけていただいたのですが、叔父は「大川端」のあとの部分はお嬢吉三、お坊吉三、和尚吉三という3人のアウトローの若者が生きて行く姿なのだから、「今」の僕の感覚で演じたほうがいいとおっしゃって、「大川端」だけ稽古してくださいました。〉以下、ずーっとこの調子である。

愛之助さんはほんとにこう言ったのだろうか。だとしたら梨園というのは実に世間離れしたことば遣いをするところだ。──いや、でもほんとに、こう言ったのかもしれないよ。ああいう藝の世界は、あるていどわれわれ庶民と感覚のズレたところがないと才能を開花させられないところがあるのかも。海老蔵見てても、そうぢゃん?

問題は、やっぱり編集者の敬語感覚の破綻にあると思いますね。梨園の人たちのことば遣いがヘンならヘンで、それに巧く筆を加えて、わたしのような一般人が読んでも違和感のない程度に調整しなければならない。あーあ。これで愛之助の印象、だいぶ悪くなったよ。愛之助さんてひとは上方歌舞伎のエースで、以前から心ひそかに応援してたんだけどなあ。
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『魔笛』

2011年01月11日 | 音楽について
年末からこのかた、実は『魔笛』ばかり聴いています。昨年から継続中の「ドイツ語を聴こう」シリーズですな。それに年末年始にモーツァルトを聴くって、なんかふさわしい気がするぢゃないですか。とくに『魔笛』では、ドイツ語の、歌のついていないセリフもしゃべってくれるので、ドイツ語ってなんか面白そうぢゃんて気になってるわたしとしては嬉しいのよ。〈Keine Ahnung!─そんなこと知らないよ─〉なんてセリフが出てくると、「あ、これ《AWZ》でも言う!」ってうれしくなるんですよ。

うちにある『魔笛』の音源は3種。エストマンとガーディナーのCD、そして78年収録のグラインドボーンのDVD(指揮はハイティンク)。エストマンとガーディナーは同じく時代楽器派といえどもかなり方向性が違います。小ぢんまりとしているけれどモーツァルトの息づかいがよく伝わるエストマン。時代楽器を用いつつ尖鋭的なセンスのガーディナー。どちらも悪くないと思う。グラインドボーンのは同時期の『フィガロ』は名演として知られていますが、この『魔笛』はそれほどでもないね。でもデイビッド・ホックニーの舞台美術は話題になったそうで、1990年だったか、レバインがメトで指揮したときにもこのホックニーの舞台装置の案が採用されたそうです。このグラインドボーンの『魔笛』にはパミーナにフェリシティ・ロット、ザラストロにトーマス・トマシュケ、弁者にウィラード・ホワイトが出てるのね。3人とも、同時期に録音したヘンデルのオラトリオでわたしには馴染みのある人で、久々に声を聴いてわたしはそのことも嬉しかった。

それにしても、今さらながらだけど『魔笛』は面白いオペラですね。筋が破綻してるようにも見えるし、でも〈どこの世界でも現実なんてこういうふうに二面性あるんぢゃないの?〉と言われるとそうだよなあとも思うし。童話のようで、大人のための寓話でもあるようで。とにかくつかみ所がないところが面白い。

『魔笛』にはグロッケンシュピール(鍵盤つきの鉄琴)が出てくるので有名ですが、この楽器はヘンデルの『サウル』にも出てくるんだよね。モーツァルトは『サウル』はたぶん知ってたろうから、ヘンデルにならってグロッケンシュピールを使うことにしたんだろうね。
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