歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

クリスティ『オリエント急行の殺人』

2015年01月31日 | 本とか雑誌とか
クリスティ/長沼弘毅訳『オリエント急行の殺人』(創元推理文庫)読了。もちろんフジの三谷幸喜ドラマの影響です。でもドラマは前編の放送日は気がつかずあらかた見逃し、後編のみ見ました。むらむらっと再読の気が沸き起こり、創元版を購入。古い訳ですが「ポワロ(notポアロ)」という表記がいいし、それにハヤカワより安いので。

初版は1959年ですが、文章に古さはほとんど感じない。名訳と言うべきではないでしょうか。訳者の長沼さんは東大法学部を出たあとお役人をされて、そののちミステリの翻訳家として重きを成した人とか。訳者あとがきに、クリスティの父がアメリカ人と指摘してあるけどこれはぜんぜん知らなかった。

閉塞された空間を舞台とし、登場人物が限られていてかつ個性的な人物が多い。これはいかにも映像化にふさわしいし、楽しむ側も、映像化してもらったほうが分かりやすいところがちらほらある。フジ版も面白かったので再放送があったら見逃さないようにしよう。八木亜希子という人は映画ではバーグマンがやった役を振られて、よっぽど三谷幸喜に気に入られているんですね。

卒業証書とトルストイ

2015年01月21日 | 本とか雑誌とか
〈卒業証書の件〉
「まるめた卒業証書を望遠鏡のように使って彼を眺めた。」(大岡昇平『武蔵野夫人』新潮文庫、p.79)

卒業証書を筒のように丸めて覗く、というのは『こころ』にも出てくるんですよ。卒業式を終えた青年のほうの「私」は、下宿に帰ると上半身裸になって(夏なので)、二階の窓を開けて、卒業証書を遠眼鏡のようにして「見えるだけの世の中を見渡した」。

まだ二つしか気がついていないのでもう少し用例を拾いたいところですが、これってどういう意味なんでしょうかね。開放感? ところで、卒業証書というものは、丸まった状態であるのがむしろ平時の姿なのだなあと今ふと思いました。
──

〈『アンナ・カレーニナ』冒頭の引用〉
「露国の文豪もいったように、幸福な家庭の幸福は似通っているが、不幸な家庭の不幸はそれぞれ趣きを異にしているものである。」(『武蔵野夫人』p.194)

これはトルストイの『アンナ・カレーニナ』です。偉そうなことは言えない。読んでないから。でもすぐ分かったのは佐竹昭広『下剋上の文学』にこの同じ箇所の引用があったのを憶えていたからです。古典を論じた論文に『アンナ・カレーニナ』。これはちょっと衝撃でした。衝撃を受けるとともに、このトルストイのことばに、確かに確かに、とうなづいたこともよく憶えています。そのかみ、『アンナ・カレーニナ』は大学生の必読書だったのかなあ。大岡昇平は1909年、佐竹さんは1927年の生まれ。ともに、東京生まれで京都に学ぶ。

大岡昇平『武蔵野夫人』

2015年01月17日 | 本とか雑誌とか
大岡昇平『武蔵野夫人』(新潮文庫)読了。

大岡昇平、読んでこなかった。大学の近代文学の演習で『俘虜記』を読み、その後だいぶたって、『事件』『成城だより』を読んだくらい。

恋ケ窪のところを丸谷才一がどこかで論じていた。武蔵野の地形の研究おもしろい。こういうの好きです。翻訳調?の硬い文体で人物の心理を腑分けするようにしながら話を進めていくのもむしろ新鮮。『俘虜記』もこんなだったっけかなあ。記憶ナシ。

カード取りしながら読んだ。そう、昔はB6のカードにことばの用例を書き出しながら本を読んだものですよ。しばらくやってなかったですが、iPhone使いになったのでiPhoneにメモを取りながら読む。これは便利だなあ。そのメモからいくつか書きつけておきましょう。

丸谷さん壮年期のエッセイ

2015年01月12日 | 本とか雑誌とか
丸谷さんの書評は筑摩から文庫三冊の選集が出ましたが、一般向けのエッセイ選集は文春文庫から二冊しか出ないそうですよ。しかも筑摩の書評選よりも厚みが薄い。そんな理不尽なことがあるものか、と思いますな。ただしその内輪の事情は見当がつく。晩年のエッセイ集は多く文春から文庫化されましたが、もっと若い頃のはそうではない。『男のポケット』とか『低空飛行』とか、壮年期の傑作は、文春ではなく新潮社から出て、やがて新潮文庫に入ったのだった。おそらく新潮が、文春からの復刊を許さないのではないでしょうか。新潮にはここらのエッセイ集をぜひ文庫本で復活させてもらいたい。

クリスティー『書斎の死体』

2015年01月08日 | 本とか雑誌とか
クリスティー/山本やよい訳『書斎の死体』(ハヤカワ文庫)読了。ハヤカワのクリスティーは全集化にあたって新訳に切り替わったのがあれこれあって、これもその一つ。前の高橋豊訳でも読んでますが、新訳でも読んでみました。筋はおおかた忘れていましたが、良作だった記憶はあったので。細部はところどころ憶えてました。登場人物の多くもおぼろげながら憶えていた。それに最後のオチとかね。

ミス・マープルはけっして庶民ではないのね。車椅子の大富豪とも対等に落ち着いて話のできる、それなりの社会的地位のある老女。そりゃ元警視総監がボーイフレンドなんだもんねえ。今回の再読ではマープルの階級意識に気づかされました。

 ミス・マープルは反論した。力をこめていった。
「ふつうでしたら、セーターとスラックスか、ツイードのスーツに着替えるものです。わたしどもの階級の女性なら──階級を鼻にかけるような言い方はしたくないんですが、避けて通れませんのでね──当然、そうするはずです」ミス・マープルはその話題に没頭した。「育ちのいい令嬢はつねに、時と場所に合った正しい服装を心がけているものです。たとえば、どんなに暑い日でも、花柄の絹のドレスを着てクロスカントリー競馬に出かけたりはいたしません」
 ⋯略⋯
「ルビーは、いうまでもなく──そうね、露骨に申しあげれば──良家の令嬢ではありませんでした。時と場所にお構いなしに、いちばんいい服を着て出かける──そういう階級の女だったのです。⋯略⋯」
(『書斎の死体』、pp.255-256)

南木佳士『こぶしの上のダルマ』

2014年12月31日 | 本とか雑誌とか
南木佳士『こぶしの上のダルマ』(文春文庫)読了。連作小説という触れ込みだけれど、長編エッセイと思って読んだ。パニック障害病後のお医者さんの話。私小説。むかし読んだエッセイか小説ではまだ小学生だった二人の男の子がもう大学生になって家を出ていて、作者の老いを感じさせる。

しかし小説というには威勢が悪すぎるよ。というか色気がなさ過ぎる。出来事そのままを書いているわけではなく虚構はたくさん折り込まれているんだろうが、小説のつもりならまちっと小説らしくお化粧をして、読者に差し出してほしい。『阿弥陀堂だより』みたいに。

とは言うものの、この不器用な誠実さが、病みあがり作家・南木佳士の身上でもあるのだ。素人っぽい訥々とした文章に閉口しながらも途中でやめずに一気に読んでしまったのは、やはり魅力を感じたからなのだろう。老いをしみじみと実感しながら、心の病から立ち直ってからだのゆるすだけの仕事を続けている人の話ではあり、山登りの話題も出てきて、死をめぐっていろいろと思い巡らしている。ファンは多いと思う。

パーカー『拡がる環』

2014年12月29日 | 本とか雑誌とか
ロバート・B・パーカー/菊池光訳『拡がる環』(ハヤカワ文庫)読了。いやー、本を二日で読んだのは久しぶりですよ。今年は、ほんとに読めなかった。それはさておき、マッチョで、気が利いて、学があって、たぶん男前なこのスペンサーという男、人気者なんだろうなあ。けれどもわたしはそれほどまでには魅力を感じなかった。屈折が足りない。

などと言うのは、わたしが唯一慣れ親しんだハードボイルドものであるところのD・フランシスとつい比べてしまうからで、あの競馬シリーズの主人公たちのような陰影の深さがスペンサーにもあればなあ。

筋は面白いけれど、思いもかけないどんでん返しみたいなことは一つもなく、たんたんと話が進んでいく。しかし安心して読んでいられる、というのはファンにとっては魅力なのだろう。ギャングが出てきて、人殺しもあるけれど、基本的にはボストンや首都ワシントンのホワイトカラーな世界のお話で、なによりスペンサーやスーザンの気の利いたセリフは楽しい。スペンサー・シリーズ、もうあと何冊かは読むかもしれない。

今野真二さん

2014年05月21日 | 本とか雑誌とか
このところ今野真二さんの新刊がよく目に入る。今年に限っても、二月には中公新書『かなづかいの歴史』、三月にはちくま新書『日本語の近代』と新潮選書『日本語のミッシング・リンク』、四月には岩波新書『日本語の考古学』がそれぞれ出ている。国語史の方で、わたしも関心ある分野だから一冊読みたいなとは思っているんだけど、こう乱発されるとちょっと腰が引けてしまう。おそらく、これらがすべて同時進行で書かれたわけではなくて、それぞれ間をあけて書かれたものが、たまたま立て続けに出版されることになったんだろうとは思うけれど。

「ピアノ」は小説なのか?

2014年05月19日 | 本とか雑誌とか
芥川龍之介の「ピアノ」が『ちくま小説選』に入っているということは、この本では「ピアノ」が小説として扱われているということでしょうね。

しかし『現代日本文学全集 芥川龍之介』では、きのうネット上の書誌情報で確認したんですが、「ピアノ」は一巻の並び順の最後のほうに載っていて、どうも随筆としての扱いのように思います。わたしもこれまで「ピアノ」は随筆だと思っていたので、『ちくま小説選』に入っていると知って驚きました。

一つの同じ作品を小説とみるか随筆とみるかによって読み方がどう違ってくるか、については石原千秋さんが辻仁成を例にとって説明しているのを読んだことがあって、いたく感心したんですが、石原さんのなんていう本だったのか今思い出せない。

あらためて思い巡らせば、ぢゃあどうして「城の崎にて」は随筆ぢゃなくて小説なのか、とか、いろいろ気になってくる。

芥川龍之介「ピアノ」のこと

2014年05月18日 | 本とか雑誌とか
芥川龍之介の「ピアノ」という文章をはじめて目にしたのはどこでだったか、憶えていないんです。ただ「ゲンコク」の問題集だったのは憶えている。でもそれが高校時代に自分が解いた問題集だったのか、それともその後、学生時代にアルバイトしていた塾で見たのか、それは記憶にない。

「ピアノ」は大正十四年に発表されたもので、関東大震災後に横浜の山手を訪れた「わたし」が、「ある家の崩れた跡に」蓋を開けて放置された一台のピアノを見つけ、その鍵盤の音を聞く話。

一読忘れがたい文章でした。なんと言っても文体がみずみずしくて、とても大正時代に書かれたような古さを感じさせない。「震災後」とあるから、世相は殺伐としていたかもしれないけれども、時のへだたりのせいで、横浜といい、ピアノといい、題材のハイカラさにまづ心惹かれる。そして謎があり、謎解きがあり、ほんの短編ながら、「間然するところがない」ってこういうこと? って思う。

わたしはその後、1953年刊の筑摩書房『現代日本文学全集 芥川龍之介』にこの「ピアノ」が収められているのを発見し、コピーしておきました。今わたしがテキストファイル化しているのは、そのコピーから新仮名遣いに改めて自力で入力したものだと思います。その後、筑摩からは『現代日本文学大系』も出ましたが、その中の芥川龍之介集(1968)には「ピアノ」は入っていません。ちくま文庫からは『芥川龍之介全集』が全八巻で出ていますが、その中に「ピアノ」が入っているかどうかは知りません。

昨年(2013)、筑摩書房から『高校生のための近現代文学エッセンス ちくま小説選』というソフトカバーの本が出たそうで、その中に「ピアノ」が入っているそうです。買おうかな。筑摩からはこの手の、高校生向けの「国語」の副読本仕様の作品集がいろいろ出ていて、なかなかイケますよ。