歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

キョンスの性指向

2014年02月25日 | 『美しき人生』
『美しき人生』第42話では、ついにキョンス(イ・サンウ)の元妻と娘のスナがチェジュ島にやって来ました。ふたりと半日を過ごして空港で別れた後、スナに対する罪悪感?で、キョンスは酒を浴びるように飲んで酔いつぶれてました。

子供がいるってことはバイセクシュアルなのぢゃないのかしらん。わたしはずっとそう思ってるんだけど、キョンス本人の性自認としては、バイではなくてホモセクシュアルであるらしい。キョンスは母親に「もういつわりの生活には戻れない」とか言っていたもん。子供はいるけどゲイなのだという、こういうキョンスの性指向が、よくあることなのか、稀な例なのか、わたしには分からない。ただ、バレていなければ、キョンスの結婚生活はおそらくまだ続いていたのであろう。FSXLTYにいたころ以来、わたしも勉強した。けっきょく、その人が自分でバイだと思っているのならバイで、ゲイだと思っているのならゲイなのだ。

行雅僧都のハンセン病

2014年02月23日 | 古典をぶらぶら
自分が病気持ちなので、『徒然草』でも病気の話にはおのづとこちらの感度が高くなります。第四十二段は、唐橋中将の子、行雅僧都という人のこと。この人が「気[け]の上る病」に罹って、歳とともに重篤となっていった。そして、
目・眉・額なども腫れまどひて、うちおほひければ、物も見えず、二の舞の面のやうに見えけるが、たゞ恐ろしく、鬼の顔になりて、目は頂の方につき、額のほど鼻になりなどして、後は、坊の内の人にも見えず籠りゐて、年久しくありて、なほわづらはしくなりて、死ににけり。
という。兼好はこの病態のみをしるして、そのあとに「かゝる病もある事にこそありけれ。」とコメント一言だけ添えて了えています。このコメントは表現がシンプルなだけに、兼好の驚きや、この病気に対する怖れのふかさが伝わってくる気がする。

この段は以前にも読んだことはあったかもしれないんですが、気に止まらなかった。三十代でこの話を読んだときに、これはハンセン病かもと思いました。その後知ったのですが、この行雅の病気がハンセン病であったろうことは、すでに専門のお医者さんが指摘しているそうです。たしか稲田利徳さんの注釈で、わたしはそういう指摘があることを知りました。

いまなら薬で治る病気だったんだろうに。行雅は自分の病気とどんな気持ちで相対していただろう。行雅は高位の僧で、「教相の人の師する僧」、つまり学問の研究者だった。そして貴族の出だった。なんでこのわたしがよりによってこんな病気に、と思わなかったはずはない。「坊の内の人にも見えず籠りゐて」ってところがつらいなあ。

ヤン家の家族会議

2014年02月22日 | 『美しき人生』
これはヤン家の家族会議の図であります。左上から、時計と逆まわりで、お母さん、お父さん、お祖母さん/下の叔父さん、上の叔父さん/長女の夫、長女、次女/次男、長男と並んでいます。家族で今ここにいないのは、お祖父さんと、長女夫婦の娘ジナ。

ここでは、長女ジヘが妊娠していることが分かって、その子を産むか産まないかということが話し合われています。ヤン家では、なにかあるとこうして家族会議が招集される。晩ご飯のあとでついでに、とかいうんではなくて、わざわざ会議のために、携帯電話とかでみんなが呼ばれて集まるのである。招集されるメンバーはその時ごとに違いますけどね。会議のテーマは、たとえば何十年ぶりに愛人のところから舞い戻ってきたお祖父さんを家族として受け入れるかどうか、とか。それから長男テソプが同性愛者であることも、この家族会議の場で母ミンジェから家族に伝えられた。息子の特別なセクシュアリティを母親が他の家族にこんなかたちで伝えるのには違和感もありましょうが、それはさておき、こういう家族会議って、なんか懐かしい。いまの日本ぢゃもうなかなか見られないシーンでは。

ヤン家の場合、たいていはお母さんのミンジェが話を進め、お父さんビョンテはお母さんの意向にそのまましたがうことが多い。下の叔父さんビョンゴルが何かというと話を引っかき回し、上の叔父さんビョンジュンにどつかれて黙らされる、というのも定番。ほんと、このふたりの未婚の叔父さんは面白い。子供たちでは、長男テソプは無口だし、次男ホソプと次女チョロンは気立てがやさしくて、長女のジヘだけが口達者である。

例のテソプの件のときは、テソプとお父さんのビョンテは別の場所でふたりだけで話をしていて不在で、またお祖母さんに知られるのはさすがにまづいのでお祖母さんも呼ばれなかった。あのときは厳格なビョンジュンとうるさ型のジヘが意外にもテソプのセクシュアリティに理解を示してくれて、お母さんミンジェもホッとしたようだったけど、わたしも予想外でした。

じょうずにころぶ俳優たち

2014年02月21日 | 『美しき人生』
『美しき人生』では毎回、最後にだれかが転ぶ画[え]で終わることになっている。登場人物のだれかが、とうとつに、石に蹴躓いてころんだり、尻餅をついたり、階段を踏みはづしたりする。それが最後のシーンなのである。そういう演出なのだ。人生、何が起こるか分からない、って意味なのだという。

たいていはレギュラーのキャストのうちのだれかが転ぶことになっている。数えているわけではないが、おそらくは、ヤン家の「下の叔父さん」ビョンゴル(ユン・ダフン)と、体が大きく多少転んでも怪我しなさそうな次男ホソプ(イ・サンユン)が転んでいる回が多いのではないかと思う。でもこの前は小学生であるジナの友だちの男の子が、初登場後、一分もたたないのにころんだのでさすがにびっくりした。その後の泣き方もじょうずだったけど、あれは演技ぢゃなくてほんとに痛くて泣いていたのかもしれない。

イ・サンユンのような若い俳優が転んでも別にはらはらしないけど、中年以上の俳優さんもしきりに転ぶので、ちょっと心配になる。もちろん演出は工夫してあって、実際には俳優を転ばせずに、転んだように見せてるだけの回もある。でもこの前は、役では八十すぎ、実年齢でも七十代のヤン家のおじいさん(チェ・ジョンフン)がみごとに尻餅をついてひっくり返っていた。俳優は体が元手なのでふだんから鍛練はしてあるのだろうけれど、上手に転んで見せるのもたいへんだ。骨粗鬆症の人には『美しき人生』は務まらない。

「猫またよやよや!」

2014年02月20日 | 古典をぶらぶら
『徒然草』の第八十九段。例の猫またの段。夜更けまで賭け連歌をして帰ってきた法師が怪物の猫またに襲われ、命からがら逃げのびた気でいたが、実は恐れていた猫またではなくて飼い犬が飛びついてきたのだった、という話。あの話のキモは最後に置かれた「飼ひける犬の、暗けれど、主を知りて、飛び付きたりけるとぞ。」って一文でしょう。あのオチが最後に語られることで、あの話は一つのストーリーとして成立し得ている。この段は、ある情報を、その伝達内容全体のどのタイミングで伝えるかによって効果がどう違ってくるかを説明するいい例になっている。わたしは情報の伝えかたの基本を人に教えるときに、あの話を引き合いに出したことが何度かあります。

『徒然草』は机の上に岩波文庫を置いて、ときどき読むようにしてます。でもはづかしながら、序段からおしまいの第二百四十三段まで、通して読んだことはまだないんですよ。いつも、あちこちつまみ食い。岩波文庫と岩波新大系の本文を、例によって、気が向いたときにしこしこと自力でテキストファイルに打ち込んで、これはもう何年もかかっているけれどいまだに完成しない。あと少しですけどね。

正徹本を底本にした新大系が出てしばらくは、これまで各書が底本にしてきた烏丸本はもう用済み、もう要らんような気がしていましたが、でも正徹本の本文もしっくり落ち着かないところが多い。やっぱり烏丸本は捨て去れないだろうなあと思っているところ。

キョンスの職業についての疑問

2014年02月19日 | 『美しき人生』
キム・ギョンス(イ・サンウ)の職業は写真家で、その業績が認められて大学で非常勤講師をしているのかと思っていた。でもどうもそうではないらしい。大学教師が本職で、写真のほうは「プロ並みの腕前」って感じらしい。そうなると、パートナーのヤン・テソプ(ソン・チャンウィ)は大学病院の内科医だし、お互い大学の先生どうしのカップル、ということになるな。まあいいけど。

テソプのほうは、ちゃんと診察もしているし、医学部での講義も受け持っているらしいし、地域貢献としてチェジュ島民への健康講座、みたいのもやっていた。ちゃんと「先生」している。しかしキョンスは、確かに大学で写真をテーマに学生相手に講義しているシーンは二度ほどあったけれど、授業が終わるとさっさと車に乗って帰っていっていた。あれでてっきり、あ、この人は非常勤なんだなと思ったのである。そしてヒマさえあればチェジュ島内のあちこちに車で出かけて写真を撮っているのであった。キョンスのお父さんは韓国内に十万人の弟子がいるという高名な大学教授で、学長候補になるほどだそうだから、キョンスがチェジュの大学に職を得たのもお父さんのおかげかもしれない。

曾野綾子『アレキサンドリア』

2014年02月17日 | 本とか雑誌とか
曾野綾子『アレキサンドリア』(文春文庫)再読。これはかなりの意欲作で、成功していると思いますよ。紀元前のエジプト、多文化・多宗教のるつぼのような都市アレキサンドリアにおいて、旧約の『シラ書』ギリシア語訳ができ上がっていく過程が描かれるんですが、まあ絵空事にしても、違和感なく読み手を納得させる書きぶり。それこそ舌を巻くしかない仕上がり。全二十四章で、各章、アレキサンドリアの『シラ書』をめぐる話と、その『シラ書』の断章とリンクする、現代の日本人の日常生活に取材した掌編小説がセットになっています。曾野さんは掌編小説が得意で、これまでにも『生命ある限り』とか『夫婦の情景』とか出していますが、この『アレキサンドリア』でもその腕は落ちていません。

『シラ書』から引用される詞章と、それぞれの掌編小説のテーマとのかかわりが見えにくい章も少なくないのですが、要は、人間は昔から変わらない、聖書の語る人間のありようは、現代日本人にもそのまま当てはまる、ってことでしょ。

『シラ書』はフランシスコ会訳によっている。曾野さんの聖書の先生が、フランシスコ会の堀田雄康さんだったそうですから。大昔、NBC(長崎放送)のラジオで、週末の朝に、カトリック教会提供の『曾野綾子の今日を生きる』という番組をやっていたんですが、その番組に堀田さんもときどき出てきて、聖書の話をしていらしたと記憶しています。

去年の春に入院していたときに一回読んだんですが、その後なにも書かずにほったらかしていて、秋にフランシスコ会の聖書を買い込んだこともあって、もういっぺん読みました。入院したとき、担当の男の看護師さんがたまたまカトリックの人で、いま『シラ書』の本を読んでるんですよと言ったら「しぶいですねえ」と言われた。

『シークレット・ガーデン』配信

2014年02月14日 | 演ずる人びと
へー。無料動画GyaO!で『シークレット・ガーデン』の配信が始まってる。さすがに人気が高いようですよ。そういえば『美しき人生』で、テソプが、キョンスの母からふたりの関係を非難された直後、「別れろと責め立てられて、まるで財閥の御曹司に恋してしまった庶民の娘のような気分だった」と言うシーンがあったけど、『シークレット・ガーデン』はまさにそういう、身分違いの恋の話でした。

ホグウッド『ヘンデル_リナルド』

2014年02月13日 | CD ヘンデル
Handel
Rinaldo
Bartoli, Daniels, Fink, Finley, Orgonasova, Taylor
The Academy of Ancient Music
Christopher Hogwood
UCCD-1017/9

1999年録音。76分35秒/51分27秒/44分53秒。DECCA。いちおうEDITIONS DE L'OISEAU-LYREと明記してあります。Original 1711 version。国内盤で買いました。『リナルド』はヘンデルのオペラとしては筋の分かりやすいほうですが、やはり歌詞対訳があるのはいいですね。

ホグウッドの指揮は保守的なもので、ちょっとイライラせんこともない。むかしと較べると丁寧にはなったかな。それにしても、も少し前のめりな雰囲気があるほうがよい。たとえばフィナーレ、まちっと盛り上げて終われんもんかね。下に述べるキャストへの不満などもあり、決して満点は出せない。でも、ホグウッドのヘンデルの到達点として、それなりに評価しておきたい録音とは言えるでしょう。

デイビッド・ダニエルズのリナルド、ベルナルダ・フィンクのゴッフリート、ダニエル・テイラーのエウスタツィオ、チェチーリア・バルトリのアルミレーナに、リューバ・オルゴナソバのアルミーダ、ジェラルド・フィンリーのアルガンテ。当時としてはたしかに贅沢なキャスティングではあったと思いますが、「豪華キャストを揃えました!」感が鼻につく。

バルトリとダニエルズは役に合ってないと思いますよ。バルトリのアルミレーナはじゃじゃ馬すぎる。品がない。この人は敵役のアルミーダのほうが似合っています。ダニエルズもきんきんした声質で、勇士リナルドにふさわしいとは思えない。このリナルドは歩くとき内股なんぢゃないだろうか。

ベルナルダ・フィンクはいろんな指揮者に呼ばれていつも手堅い仕事をする人で、ここでもゴッフリートを安定感抜群にこなしているけれど、この人に男役を歌わせるのもどうかと思う。彼女の声は母役には似つかわしいが、父役には合わない。その他エウスタツィオのテイラーは好演。エウスタツィオは脇役ながら、いいアリアを歌いますね。オルゴナソバはまあまあですが、イタリア語が板についてない感がすこし。まだ若かったジェラルド・フィンリーがよい。

チョイ役で、カウンターテナーのメータ、テナーのパドモアが出ています。AAMのリーダーはキャサリン・マッキントッシュではなくアンドリュー・マンゼ。カバー写真はダニエルズとバルトリがコスプレしてツーショットですが、合成写真。

ゆきつもどりつ

2014年02月11日 | MacとPC
ゆうべMavericksをダウンロードしてMacBook Proに入れてみたのですが、egword universal 2にやはり不具合発生。書類を開いたときモードバーとステータスバーが真っ黒になりました。使えないことはないのですが、気持ち悪い。聞いてはいたけど、実際に目の当たりにするとショックが大きい。

それできょうは、MacBook ProのOSを、いったん入れたMavericksからMountain Lionに戻す作業。上書きでMavericksに上げるのは一時間もかからないくらいだったけど、Time MachineのバックアップからMountain Lionに戻すのは、一日がかりの大ごと。ほっとけば勝手にやってくれるので手間はいらないんですけどね。Mavericksの游明朝体には未練があるし、マルチディスプレイの使い勝手もよくなっていましたが、egword universal 2の黒い帯を見るたびに気持ちが萎えてしまう。とにかくメインに使う環境はいましばらくMountain Lionのままにして、egwordとのお別れの仕方を、真剣に考えなければならない。

しかし実のところ、これから先わたしが作る縦書き文書に関しては、egwordなしでもなんとかなるのではないかとは思っています。これからはそんなに凝ったレイアウトのものは作らないと思うから。年賀状の裏面についてはやはり縦書きにしたいですが、これは最悪、宛名職人でも。それ以外はHagoromoのお世話になりたい。例の、Artman21のHagoromoは、β版の使用期限が今年の三月末だそうで、ということはそのころには正規版が出るのでしょう。期待しています。

だから問題は、わたしがこれまで仕事で作ってきたかなりの数のegword書類をどういうかたちで保存していくか、ということなんですわ。縦書きレイアウトで、図や画像を貼り込んでいる書類が多いので、それがegwordのレイアウトのまま見られるようにしたい。ひとつづつ開いてpdfにしていくしかないんでしょうが、長年使い込んだソフトウェアのお弔いというのは、せつない仕事ですなあ。