歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

吉田修一『パレード』

2005年07月31日 | 本とか雑誌とか
吉田修一『パレード』(幻冬舎文庫)読了。午後、半日で読んでしまった。千歳烏山のマンションで共同生活をする5人の男女の話。(ちなみに「熱帯魚」の舞台は芦花公園、「グリンピース」に出てくる彼女のマンションは荻窪だった。)都会の人間関係の稀薄さをわりと素直に描き出している。筆さばきは巧みだ。5人目の同居人〈サトル〉が登場するあたりからお話が動いていくのだが、ひとつひとつのエピソードのつなげ方、積み上げ方がうまい。

「グリンピース」はスケッチだと思ったが、『パレード』はちゃんと小説になっている。「グリンピース」以上に気の利いたセリフと文章が駆使されていて、ああこれだったらフジが月9ドラマの原作本として吉田修一に目をつけるのも無理もないなと思った。

ただ、半分くらい読んだところで、結末の趣向は見えていた。探偵小説を読みつけている人だったら、見やすい筋立てだと思う。

アンサンブル・ジル・バンショワ『フランス・ルネサンス・シャンソン集』

2005年07月31日 | CD 中世・ルネサンス
Amour, amours - Florilege des chansons francaises de la Renaissance
Ensemble Gilles Binchois
Dominique Vellard
5 45458 2

2000年録音。74分09秒。Virgin。ドミニク・ベラール指揮アンサンブル・ジル・バンショワによるルネサンス・シャンソン集。

きわめてレベルが高い。美しさとニュアンスに満ちたほぼ完璧な演奏。全体にしっとりした曲調のシャンソンを多く収めているのですが、どの曲を聴いても情感ゆたかなので、ダルに聞こえるところはまったくありません。ル・ジュヌの"Revecy venir du printemps"など、ことに絶品。

ドミニク・ベラールというと、マショーとかデュファイとか、ルネサンスでもわりと古いほうを演奏する人、というイメージがあるけれど、ここではジョスカンやラッススなどのフランドル派のシャンソンと、ジャヌカンやル・ジュヌらのパリ派のシャンソンをともども、全21トラック20曲 歌っています(1曲のみ、2つのバージョンで演奏)。歌手はベラール自身をふくめて6人で、アンサンブルによる曲もあればソロにリュート伴奏がつきあう曲もあります。

先述のル・ジュヌ"Revecy venir du printemps"やセルトン"Que n'est elle aupres de moy"、ラッスス"La nuict fruide et sombre"などは、歌ったことある人がいるかも。ジャヌカンは1曲のみ。全集番号139"O doulx regard(ああ、優しい眼差し)"を4声で歌っています。このグループでジャヌカンをもっと聴いてみたい。

吉田修一『熱帯魚』

2005年07月30日 | 本とか雑誌とか
吉田修一『熱帯魚』(文春文庫)読了。「熱帯魚」「グリンピース」「突風」。最初の「熱帯魚」は小説だと思ったが、あとの二つは何というか、都会ぐらしのスケッチ、とでもいったらいいような微妙な立ち位置の作品だと思う。「突風」は都会を離れて不思議な休暇を過ごす男の話だが、嘘くさくてついていけなかった。「グリンピース」は気の利いた言い回しが多くて、しゃれてもいるが、だからなんなの?、と言いたくなる。

『最後の息子』に続く短編集だが、『最後の息子』の「Water」は『文學界』平成十年八月号、「グリンピース」が平成十年五月号、とあるから、この2作については、先に発表された「グリンピース」のほうが第2短編集にくり込まれ、後に出た「Water」のほうが先に単行本化されたことになる。

それにしても、『最後の息子』の「最後の息子」「破片」「Water」の3作、そして『熱帯魚』の3作、これらすべてが『文學界』に載った小説だそうである。文藝春秋は、吉田修一を最初っから囲い込んでいたのである。

セルシェル『11弦のバロック』

2005年07月29日 | CD バロック
eleven-string baroque
Göran Söllscher
474 815-2

2003年録音。62分15秒。Deutsche Grammophon。イェラン・セルシェルの11弦ギターによるバロック・アルバム。

セルシェルを何枚も聴いているわけではないんですが、この人の、堅実に作り込まれた音楽にはとても惹かれるものがあって、バロックをまとめて録れたCDを聴いてみたいとは以前から思っていました。

バッハのいわゆる「G線上のアリア」とかクープランの「神秘的なバリケード」とか有名な曲も入っていますが、収録曲の半ばは、David KellnerとかJohan Helmich Romanとか、わたしは名前を聞くのも初めてというような作曲家のものです。しかし作曲家の知名度とは関係なく、小品ながら魅力的な曲が多い。

セルシェルの弾くギターは、音の粒立ちがよくて、一つ一つの弾音が美しく、しっかり心がこもっている感じがします。演奏ノイズがまったく気にならないのもいい感じ。

バッハの「ト長調のメヌエット」は、iPhotoでスライドショーする時のBGMになっているのと同じ曲ですが、セルシェルの演奏は表情豊かで、当然ながら、まるでニュアンスが違って聴こえる。

緒方喜治さん。

2005年07月28日 | メモいろいろ
緒方喜治さんという人は、インタビューをしていても、大相撲の中継でも、なんとも温かみのある語り口をする人で、今NHKに出ているアナウンサーの中ではいちばん好きかもしれない。もちろん日本語もきれいだ。緒方さんが大相撲中継の実況から引退したのはさびしい。

わたしはその緒方さんの最後の大相撲実況をたまたま聞いていたのである。何場所かは忘れてしまったけれど、二三年ほど前のことだ。千秋楽のラジオの実況を緒方さんが担当していて、相棒は舞の海さんだった。もちろん「わたしは今日で引退します」などとは一言も言わなかったのだが、なんだか万感こもった放送だなあと思いながら聞いていたら、それ以降、緒方さんが実況を担当することはついになかったのである。テレビではなくラジオ、というのが緒方さんらしい。というか、プロ野球にしろ大相撲にしろ、やはりアナウンサーとして実況のし甲斐があるのはラジオなのだろう。そしてあれは多分、緒方さんのほうから、「解説は舞の海さんで」と希望したのだと思う。そして舞の海は、これが緒方さんの最後の実況だ、ということは知っていただろう。 

緒方さんは、大阪局にいたころ、毎月末の一週間、午前中のラジオの進行役もやっていた時期がある。場合によっては、その月末一週間のラジオと、高校野球と、大相撲の実況とで、次から次へフル回転で仕事をしていた。そりゃほかのアナウンサーだって、先週どこかの国からサッカーの衛星中継(まてよ、衛星中継って、死語?)の実況をやっていた人が、今週は札幌局で通常のニュース読み、なんてことは、今どき普通にあるわけだが…。

「日くらし」か「日ぐらし」か。

2005年07月28日 | 古典をぶらぶら
『徒然草』の冒頭の有名なところを並べてみる。それぞれ校訂方針も違うし、底本も違う。手近にあったものを適当に並べただけで、特に意味があって下の四つを選んだわけではない。

(1)つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(笠間書院、松尾聰)

(2)つれづれなるまゝに、日くらしすゞりにむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(武蔵野書院、永積安明)

(3)つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(講談社学術文庫、三木紀人)

(4)つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂おしけれ。(岩波新大系、久保田淳)

いちおう初版の古い順に並べた。全部すこしづつ違っていたら面白かったのだが、(1)と(3)はまったく同じだった。ことわっておくがこれはいい加減な引用で、振り仮名はぜんぶ省いたし、(4)の「つれづれ」の「づれ」は、ほんとは、例の、タテ長の「ぐ」だったりするのである。そういう保留事項はあるけれど、それでも、意見が割れてますね。漢字と仮名書きの違いは無視するとして、残った違いを整理すると次の三つになる。

・「日くらし」か「日ぐらし」か。
・「日くらしor日ぐらし」のあとでテンを打つか打たないか。
・「よしなしごとを」のあとでテンを打つか打たないか。

テンの打ち方も大事なのだが、やっぱり「日くらし」「日ぐらし」の違いは大きいね。『新潮国語辞典』では「ひぐらし」で出ていて「ひくらし」の項目はない。『角川古語大辞典』は「ひく/ぐらし」と出ている。『角川』は「ひくらし」「ひぐらし」両形とも認めているということだろう。これも手の届くところにあった辞書を見ただけなので、『日本国語大辞典』はどうなっているか、とか、『日葡辞書』はどうか、とか、ほんとは見ないといけない。

ふたり福原。

2005年07月27日 | メモいろいろ
阪神の福原忍投手と、NHKの福原健一アナウンサーは、やっぱり赤の他人なんでしょうか。なんだかそっくりなんですけど。それにしても福原(阪神の福原ね)かわいそう。いくら「しのぶ」って名前にもせよ。そんなには堪え忍べないよなー。5勝11敗って、そりゃないよ。まちっと勝ってていいはずだ。

平和町の坂。

2005年07月27日 | メモいろいろ
松山町で電車を降りて、浦上天主堂のほうへ歩き、平和町の十八銀行の手前で右に曲がる。十八銀行のあたりはにぎやかな商店街だが、角を曲がると、左右はすぐに落ち着いた感じの住宅地になる。その間の長い坂道を、ゆっくりとのぼっていく。途中、左側に佐賀銀行の社宅があったりする。ここの坂は長崎に多い急坂ではなく、わりと緩やかな坂道である。地図には特に出ていないが、あの坂には何か名前がついていないのだろうか。

坂を登り切ると平らな道に出る。長崎では、坂を登り切ったらまた別の上り坂、ということが多いので、こういうふうに、坂を上ると平らな道、というのは少ない。ここはその名も平野町だ。静かなお屋敷町である。長大の医学部が近いので、むかし医学部の先生たちがここらに家を構え、それで大きなうちが多くなったのだと誰かが教えてくれた。今は実際にはそんなうちは少ないのかもしれないが、住み込みのお手伝いさんが勝手口から出て来そうな、背の高い木に囲まれた邸宅が静かに並んでいた。

そのまままっすぐ歩くと、やがてまわりの家が小ぶりになって、下りのコンクリート段の前にいたる。なんとなく下界に降りるのが惜しいような気がしつつ、階段をくだると、そこは浜口町の、附属病院の下の交叉点である。

住吉の予備校に行かせてもらっていたころ、平野町のあのお屋敷町の雰囲気が好きで、学校の帰りによく電車を途中で降りてぶらぶらした。あのころは無邪気に時間を持てあましていた。

メドラム/ロジャース『モンテベルディ_オルフェオ』

2005年07月26日 | CD モンテベルディ
Monteverdi
L'Orfeo
Rogers, Kwella, Kirkby, Smith, Afonso, Denley, Laurens, Bolognesi, Covey-Crump, Potter, Varcoe, Thomas
Chiaroscuro
London Baroque
The London Cornett & Sackbut Ensemble
Nigel Rogers・Charles Medlam
7 64947 2

1983年録音。47分33秒/56分26秒。EMI。EMIがそのころ新しく始めたリフレクセという古楽シリーズの初期の一作だった。リフレクセはその後尻すぼみになって、録音された資産は順次Virginに移された。この演奏も現在はVirginから再発されている。室内楽的な演奏だが、達成度は高い。イギリスを中心に、古楽の歌手の豪華競演が楽しい。わたしにとって『オルフェオ』はこの演奏で決まりである。

ヤーコプスは『オルフェオ』をあくまでも現代のオペラ劇場のためのレパートリーとしてモンテベルディを位置づけ、ガーディナーもこの作品を現代的な感覚で読み直した。対して、このメドラムとロジャースのは、少数精鋭の演奏陣によってモンテベルディの精髄をわれわれの前に提示しようとする。序曲は、重ねの薄い、しかしきびきびした響きである。そして聴き手をカークビーの歌う「音楽」のアリアへとスムーズに導いていくのだ。

ナイジェル・ロジャースは、古楽のテナーとしてはヒルやパートリッジよりもさらにもう少し上の世代なのではないか。録音時、すくなくとも50代にはなっていたと思う。この人は声の美しさで聴かせる歌手ではなく、独特の渋い歌い回しが特長だ。声質は違うが、芸風はエルンスト・ヘフリガーにちょっと似ている。ああいう、味わい深い歌いかたをする。

『オルフェオ』では題名役に劣らず、二番手のテナーソリストがけっこう要(かなめ)なわけだが、ここではエコー、アポロ、羊飼1の3役を、マリオ・ポロネージという人が歌っている。この人のことはよく分からない。この演奏のためにイタリアから呼ばれたか、もともとロンドンの劇場で歌っていたイタリア人歌手か、いづれにしても、この人の出来がいいので全体が締まって聴こえる。

カークビー以下の上記ソリストが合唱部分も担当しているようである。古楽の歌い手たちはたいていアカペラ・アンサンブルの経験者だから、ものすごく精度の高いコーラスを聴かせてくれる。

青来有一『聖水』

2005年07月25日 | 本とか雑誌とか
青来有一『聖水』文春文庫。「ジェロニモの十字架」「泥海の兄弟」「信長の守護神」「聖水」。小説本を一冊まるまる読んだのってすごく久しぶり。今年になって何か読んだかしらん、というほど、このところ小説は読んでいなかった。

たしかに作品の丈の高さでは「聖水」なのだろう。死にゆく父。父が創業したスーパーの経営権の行方。隠れキリシタンの信仰の記憶。奇蹟の水「聖水」をめぐる人びとの思い。ひとつひとつの材料が派手で、それらをクライマックスにむけて編み上げていく手際はみごとだ。最後に置かれた父の臨終の場面はとくに一気に読ませる。ただ、原爆忌の式典に病躯を押して参加しようとする父親の姿まで描き込まれたりすると、「あんたちょっと欲張りすぎ」との感を否めない。それにしても芥川賞をとった小説に、外海(そとめ)の山の中のラブホテル登場…、と思ったら、はや、外海町は町村合併で消え、いまは長崎市に併呑されていたのだった。

四作のなかでわたしが好きなのはやはり「泥海の兄弟」だ。ここでも肉親の死が繰り返し語られ、小説全体のトーンも決して明るくはないのだが、よりテーマを絞ってストレートに読み手に訴えてくるものがある。ここに出てくる少年たちのようなドラマティックな体験はなかったけれど、〈私〉や〈ユタカ〉は、十代のころのわれわれ自身だと素直に思える。

「信長の守護神」は出だしが洒落ている。阿蘇で、悲惨な映画ロケに参加するエキストラ。信長の守護神を演じるアフリカ系男に恋した少年。暴力。大麻。「げてんのうちをくらぶれば」が出てきて驚かされた。ただしあれは謡曲にあらず、幸若舞曲『敦盛』である。

「ジェロニモの十字架」はもっとも「聖水」に近い世界を持つ。『日本切支丹宗門史』が出てきて驚かされた。

しかしたとえば自分が長崎県の高校の国語の先生だったとすると、夏休みに『聖水』読め、とはちょっと言いにくいかもしれない。「泥海の兄弟」はぜひとも読ませたいが、「信長の守護神」に出てくるゲイの行状はちょっとばかしハードなので。吉田修一『最後の息子』が、あれはまたあれでナニですし…。しかし、実際、世の中にはそういう性もあるのだ。気にせず「読め!」と言ってください。