歌わない時間

言葉と音楽について、思うところをだらだらと。お暇な方はおつきあいを。

ボイシズ・オブ・アセンション『パレストリーナ_教皇マルチェルスのミサ』

2012年01月30日 | CD 中世・ルネサンス
"PRINCE OF MUSIC"
The Greatest Choral Music of Palestrina
Voices of Ascension
Dennis Keene
DE 3210

1996年録音。58分12秒。DELOS。『プリンス・オブ・ミュージック』って表紙の文字は仰々しいんですが、つまり中身はパレストリーナの『教皇マルチェルスのミサ』とパレストリーナのモテット集です。モテットは、〈Super flumina Babylonis〉〈Sicut cervus〉〈Alma Redemptoris Mater〉を含み、その他さまざまな曲集から拾って歌っている。しかし残念ながら〈Heu mihi Domine〉は含まない。

「ボイシズ・オブ・アセンション」はアメリカの合唱団で、レパートリーは古楽からポップスまで幅広いようですが、ここでは正攻法でパレストリーナに取り組んで成果を挙げています。この団体と指揮者(デニス・キーン)の演奏を聴くのはこのCDが2枚目。これの前に、ルネサンス期のモテット名曲集を聴きまして、それがよかったもんですから、このパレストリーナにも食指が伸びました。ブックレットのメンバー表には、ソプラノ5、アルト6、テナー7、バス8の計26人がクレジット。どの人がどの曲の演奏に加わっているのかは分かりません。1パート3人以上はいると思いますが、すべての曲を26人全員で歌っているのかどうか不明。

このCDは古楽のファンというより合唱する人向けかもしれません。じつにアメリカンな、現代ふうのパレストリーナで、ヨーロピアンな趣きとか古楽っぽい空気感は皆無だから。さすがに、もうちょっとばかりコクのある表現をしてほしい瞬間もないわけではない。でも、とかく静かに流れそうなパレストリーナをこう生き生きと、かるがると歌い切っちゃう演奏は唯一無二で、古楽の人でもあると同時に合唱の人でもあるわたしとしては、高く評価したい。

そしてわたしの場合、『聖母被昇天のミサ』と『ミサ・ブレ』はタリス・スコラーズのを持っているので、あれとは違うパレストリーナも聴きたい、という思いが強かった。パレストリーナに限らず、タリス・スコラーズしか聴かないのはつまらないよ。最近はイタリア語圏の人たちによる演奏も出てきているので、そういうのも聴いてみたいなあ。

デニス・キーンという人はアメリカのカリスマ合唱指揮者らしいです。日本文学の翻訳者でカタカナにすると同姓同名になっちゃう人がいましたけど、別人。たぶん綴りが違うと思う。

公○─実○─公○─実○

2012年01月28日 | メモいろいろ
わたしは貴族や武士の名乗字に子供のころから興味がありました。たとえば源頼朝の息子は、兄が頼家、弟が実朝です。つまり、父頼朝の名前のうち「頼」を兄に与え、「朝」を弟に与えている。これぢゃあ、兄と弟がお互いにライバル意識もっちゃうのも当然だよ。兄ちゃんが「頼家」なら、弟は「頼実」とかさあ、そういうのにしなくちゃあ。頼家と実朝。こういう名付けは兄弟げんかのもとですよ。とか。

それから、貴族の藤原氏の流れで閑院流、ってのがあるでしょ。ここは中世以降大繁栄して、明治になってからも、三条実美、西園寺公望という大臣が出たし、武者小路実篤、なんて人もこの流れです。で、この流はすごいのよ。ほとんどの人の名乗が「公○」か「実○」なのである。しかも、お父さんが「公○」だったら、たいてい息子は「実○」です。そしてお父さんが「実○」だと、息子は「公○」。つまり世代ごとに代わりばんこに「公」と「実」が出てくるのである。

閑院流の始祖は道長と同時代の藤原公季で、その後「公季─実成─公成─実季─公実」と継いだ。そもそも最初から「公」と「実」ばっかりなんですが、その後もずーっとこの調子で、基本的には、公○─実○─公○─実○、なのである。このワンツー、ワンツー、ってリズムがその後江戸時代までくづれなかった。そこがすごい。

この閑院流の名乗のことは、学生時代に国史大系の『尊卑分脉』をしょっちゅう引かされて自然に身についた知識です。でも、閑院流でありながら「公」も「実」もつかない人も少数いる、ってことも、学生時代に知っていた。たとえば菊亭兼季、なんてのがそうです。

当時は、「閑院流なのに『公○』でも『実○』でもないなんて、この人、いぢけちゃうんぢゃないのかなあ。自分がそういう立場だったらきっといぢける」とか思ってました。

で、はづかしながら最近になって、閑院流の第三の通り字の存在をようやく知りました。「季」である。もちろん、流祖の「公季」の「季」に由来するんでしょう。ただし、「公○」「実○」では通り字の「実」「公」は(少数の例外をのぞいて)必ず名乗の上の字になるけれども、「季」は「○季」だったり「季○」だったりするらしい。通り字といっても、「公○」「実○」ほどには安定してないのである。菊亭兼季も自分の名前のことでいぢけたりはしなかったかもしれないが、でもどうですかねえ。「なんで『公』とか『実』ぢゃないんだよー」って、心の中でつぶやくことはあったに違いないと思うよ。

有田正広ほか『バッハ_音楽の捧げもの』

2012年01月26日 | CD バッハ
J. S. Bach
Musikalisches Opfer, BWV 1079
Masahiro Arita, Ryo Terakado, Natsumi Wakamatsu, Tetsuya Nakano, Chiyoko Arita
COCO-70463

1993年録音。59分59秒。DENON/Aliare。『音楽の捧げもの』はパイヤールの旧録音が冴え冴えとしたいい演奏なんですが、久しぶりにそのパイヤールを聴いたらビブラートが耳障りに感じられちゃった。それでやっぱり時代楽器のを聴いてみたくなったわけ。ちょうどそのころ安くで出ていたこの演奏を聴いてみることにしました。

有田正広のフラウト・トラベルソ。寺神戸亮のバロック・バイオリン。若松夏美のバロック・バイオリン&バロック・ビオラ。中野哲也のビオラ・ダ・ガンバ。有田千代子のチェンバロ。この構成はいいですね。ビオラが加わると弦の音域が広がって演奏全体に深みが出てきます。6声のリチェルカーレを、チェンバロ独奏と合奏との両方で演奏し、トラック9-10に続けて収録しているのが特徴。

全体に、よい意味での若い感性をたたえた演奏で、初めて聴いてみたときにはなんかあっさりしすぎているようにも思いましたが、聴き直すごとに、これはいい演奏だなあって思えてきた。わび、さびの美、ってんですかねえ。けっして濃い味ではない。けれど、どこをとっても密度の高い音楽で、どの楽器もよく鳴っている。協調しながら、歌うべきところは歌い、聴くべきところは聴く。これこそアンサンブルの醍醐味。ただ西洋人みたいな油っこさではないのね。

録音も優秀。それぞれの時代楽器の音がなまなましく迫ってくる。プレイヤーたちの気合いの高さまで写し取られている。

それにしても『音楽の捧げもの』っていうのはすごい曲集ですね。時代をかるがると超越した、これぞ絶対音楽ってオーラがすごい。

アガサ・クリスティー『秘密機関』

2012年01月22日 | 本とか雑誌とか
クリスティー/嵯峨静江訳『秘密機関』(ハヤカワ文庫)読了。この作は、以前、一ノ瀬直二訳の創元推理文庫(訳題『秘密組織』)で読んだことがあるはずですが、やっぱり筋は忘れ果てていましたねえ。ただしトミーとタッペンス(嵯峨訳では「タペンス」)の冒険物語であることはもちろん憶えていたし、コーヒー店でたまたまタッペンスが耳にした名前が、お話を先に進めるきっかけになることも、憶えていた。とにかく、面白かった。この前の『殺人は容易だ』よりもこの『秘密機関』のほうがだいぶうまく書けています。

解説にも触れられていたけれど、労働党やアイルランドの独立運動が無邪気に負のイメージでとらえられていて、びっくりしました。そのていどに、クリスティという人は保守的な空気のなかで暮らしていたんですね。

わたしは創元推理文庫のクリスティが好きだったので、創元版がつぎつぎ巷間から消えていったのが残念でたまらない。創元推理文庫のクリスティは、訳文はやや古めかしい面もあったかもしれないけれど、それがまた現代の古典たるクリスティによく合っていた。こんど読んだハヤカワの嵯峨さんという人のは新訳で、あっさりと読みやすい。過去の誤訳も正されているのかもしれない。しかし、原著が出た1922年、第1次大戦後のころの英国の時代の雰囲気を移すことには関心が払われていない。

レオンハルト『バッハ_復活祭/昇天祭オラトリオ』

2012年01月21日 | CD バッハ
Johann Sebastian Bach
Oster-Oratorium BWV 249
Himmelfahrt-Oratorium BWV 11
Frimmer, Popken, Prégardien, Wilson-Johnson
Choir & Orchestra of the Age of Enlightenment
Gustav Leonhardt
480 2132

1993年録音。73分25秒。DECCA(PHILIPS)。バッハの『復活祭/昇天祭オラトリオ』。レオンハルトがCOAEと組んでPHILIPSに録音したカンタータシリーズ全5枚のうち、DECCAから廉価盤で再発されたのはいまのところこの1枚のみ。ほかの4枚も聴いてみたし。

この2曲は、知名度は高くないと思うけれど、どちらもとてもいい曲。じつはどちらもOVPPのパロット盤でも持ってますが、もすこし人数の多い演奏が聴きたくなってこれを購入。合唱は1パート何人ぐらいで歌ってるんだろう。4人から5人くらいかしらん。華やかというより手堅い演奏。レオンハルトのやや古めかしいというか頑固一徹というか、ぶれのない渋好みの音楽作りと、COAEの人たちの若々しい才能が一体となって、よい成果を上げている。

今から20年くらい前なので、プレガルディエンが若くてよい。プレガルディエンはこの前ケルンで、ヘレベッヘの『マタイ』で福音史家を歌ってましたよ。この人はもう四半世紀ほど、バロック演奏の第一線で活躍し続けてるわけですね。バスのウィルソン-ジョンソンの声はピノックの『ヘンデル_ベルシャザル』以来、久しぶりに聴いた。悪くない。カウンターテナーのポプケンは、いつもこういう歌い方なのかも知れないけど、もすこし余裕がほしい。

『昇天祭オラトリオ』は『ロ短調ミサ』にアルトのアリアを拠出させられたせいでかえってマイナーになっちゃった気がする。冒頭の合唱曲を一度聴いたら忘れられなくなりますよ。おしまいのほうのソプラノのアリアもすてきで、このアリアは、パロット盤で歌っているカークビーの録音が彼女のベスト盤にも収録されているほど。ここで歌っているモニカ・フリンマーはボーイソプラノを思わせる細い声で、いまいち華がないけれど、レオンハルトの音楽にはしっとりと嵌っている。『復活祭オラトリオ』は、40分を越える堂々とした曲ですがそれぞれの楽章はむしろ繊細なおもむき。

1940年代生まれの指揮者たち

2012年01月20日 | 音楽について
古楽の指揮者の生まれた年を調べてみましたよ。

レオンハルト1928年生。アーノンクール1929年生。コルボ34年生。アラン・カーティス34年生。ブリュッヘンも34年生。ノリントンも34年生。ブリュッヘン、ノリントンてけっこう年いってるのね。

しかしその後、古楽の指揮者は圧倒的に40年代生まれが多い。見当はついてたけど、ほんとに多い。マルゴワール40年、ホグウッド41年、サバール41年、マンロウ42年、ガーディナー43年、クリスティ44年、コープマン44年、ルーリー44年、ジギスバルト・クイケン44年、ピノック46年、ヤーコプス46年、パロット47年、ヘレベッヘ47年…。ホグウッドのほうがクリスティより上とは思わなかったよ。てか、クリスティとコープマン、タメだったのかっ。

ガーディナー、クリスティや、コープマン、クイケン、ヤーコプスはまだまだがんばってるけど、ホグウッドやピノックはもうあんまり実演はやってないのかな。ルーリーは少なくとも実演からはほぼ引退して、奥さん(カークビー)に働かせてる(笑)。この人はリュート弾きながらアンサンブルをリードする人だけど、六十超えてリュートの弾き振りはたいへんなんでしょうかねえ。

それにしてもマンロウがこの年代なんだよね。マンロウは、どう少なくみても三十年、死ぬのが早すぎた。三十年か…。それだけあれば、彼はどれだけの仕事をしただろう。

レオンハルトの退場

2012年01月18日 | 音楽について
グスタフ・レオンハルト死去。83歳。わたしがはじめて接する時代楽器派の大物指揮者の訃報である。考えてみれば、わたしが古楽を聴くようになった80年代なかば以降、古楽界の大物はだれも死んでいませんでした。ってこういう言い方はオーバーですかね。でも、ほんとにそんな感じよ。なおマンロウが死んだのは76年、パーセルでは指揮もやったデラーが死んだのは79年で、わたしはそのころのことは知らないんです。それ以降、レオンハルトとともにバッハのカンタータ全集を完成させたアーノンクールは当時より大物になって今なお君臨している。時たま時代楽器派になるコルボもまだ生きている(はず)。マルゴワールもまだ死んでない(はず)。

つまりわたしは、鍵盤楽器奏者としてよりもどちらかというと指揮者として、レオンハルトを認識してきたのね。パーセルの鍵盤楽器のための曲の録音もありますが、わたしにとってのレオンハルトはやはり何といっても、セオン盤の『ブランデンブルク協奏曲』。もちろんあの録音でもチェンバロ弾いてるけど、クイケンやらブリュッヘンやらの手だれを率いて、演奏のリーダーを務めていたのがレオンハルトだった。あの演奏のセッション感覚、っていうか、プレイヤー同士の丁々発止のライブ感は何度聴いても素晴らしい。それから、実はいま入手不可な状態なんですが、彼はVirginに、パーセルのオードを1枚録音していて、わたしはそれが聴きたくてたまらんの。追悼企画で復活してくれないかな。

時代楽器派の周辺にあった指揮者としては、レパードとマッケラスが近年死去しました。このふたりとマリナーは、そのころまだマイナーだったヘンデルを、それぞれある程度録音していて、今から思えば、冬の時代によくがんばってくれたと思います。とくにレパードはいい。レパードの『水上』『花火』はいま聴いても古さを感じさせない若々しいものですし、名歌手を揃えた『サムソン』も序曲の重ささえ我慢すればいつのまにか引込まれてしまう。

「木偏の檀」「土偏の壇」

2012年01月10日 | 気になることば
檀ふみさんも檀れいさんも、名字は「木偏の檀」だそうです。「土偏の壇」ではない。しかしIMでは、「だん」と打って変換すると「木偏の檀」よりも「土偏の壇」のほうがふつう先に出てくる。それに、この場合、旁の「亶」が、画数が多くて黒っぽいので、目が悪いと「檀」も「壇」も見わけがつかない。そんなこんなで、この二人については、誤って壇ふみ壇れいと変換されることが多い。うっかりするとマスコミのウェブサイトでさえ、校正漏れで「壇」だったりする。わたしはあかの他人だから「気の毒になあ」と思うだけですが、本人たちはいやだろうなあ。「間違ってるけど、字が似てるから、ま、いいか」とはなかなかならないだろう。もし、ふみさんやれいさんが「ま、いいか」と思えてるとしたらそれは悟りの境地と言うべきでしょう。いくら似てても誤字なのだ。たとえば「小久保ふみさん」を「国母ふみさん」、てマスコミが書いたら、「お詫びして訂正いたします」ってことになる。それと同じレベルの失礼な誤りだ。

檀ふみさんていうと、わたしの場合はTBSの金曜ドラマ『冬の花火─わたしの太宰治』で太田治子さんになぞらえた役をやったのが忘れられないです。津軽三味線を使った主題歌までいまだに耳に残っている。このドラマでは太宰夫人役の長山藍子さんが病気で途中降板したのがじつに残念だった。それから檀れいさんは、今度の大河ドラマで待賢門院をやるそうです。わたしは学生時代から「待賢門院vs美福門院」の大河をやってくれんもんかなあとずっと思っていたので、うれしい。(待賢門院は、どことなく、『源氏物語』の藤壺の風情もあるよね。そんなことない?)